(堀井 六郎:昭和歌謡研究家)

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◉朝ドラ『ブギウギ』茨田りつ子のモデル・淡谷のり子の人生美学(1)

苦学時代のアルバイト

「霧島のぶ子」という名前をご存知の方は、かなりの美術通でしょう。

『窓際のトットちゃん』の舞台として知られる自由が丘に、「モンブラン」というケーキ屋さんがあります。その包装紙に描かれている国籍不明の女性が、自由が丘らしいおしゃれな雰囲気を醸し出しているのですが、描いたのは洋画家の東郷青児。

 東郷がまだ20代後半だった頃、裸婦を描く際にモデルとした女性たちの中に「霧島のぶ子」という女性がいたかもしれません。

 その雪肌で豊満な肉体は東郷の描く女性とは異なりますが、33歳で早世した同世代の洋画家、前田寛治の描いた「霧島のぶ子」の裸婦像が残っています。のちの「ブルースの女王」、淡谷のり子、10代の裸像です。

 将来のオペラ歌手をめざし音楽学校に通うなか、母と妹の三人が食べていくために淡谷の選んだアルバイトがヌードモデルでした。

 その時期、淡谷をモデルとして高給で雇っていた田口省吾という、東郷・前田と同年代の洋画家がいました。

 やがて、田口は本気で淡谷を愛するようになり結婚を迫りますが、淡谷は去っていきました(無理やり処女を奪った、という話もあります。田口省吾の息子に作家の高井有一がいます)。

オペラ歌手をめざしての貧乏暮らし

 明治40年、淡谷のり子青森市内の呉服商「大五」阿波屋の長女として生を受けます。 

 裕福な家庭でしたが、3歳時の青森大火によって店は没落、父親の放蕩癖もあり、やがて破産。15歳の頃、母と妹の三人で上京し、中目黒近くの小さな借家で暮らし始めます。

 淡谷は母親とともに生活費を稼ぎますが、目を患っていた妹の治療代、加えて着飾ることが大好きな淡谷の浪費などで、貧困生活は歌手デビューする23歳頃まで続きます。

 上京するまでは作家や女性記者を夢みていた淡谷ですが、上京後はクラシックの歌手をめざし、東洋音楽学校に入学(現・東京音楽大学。後輩に霧島昇、菅原都々子、黒柳徹子などがいます)。

 オペラ歌手をめざしてはいましたが、家族三人の生活費に加え、妹の治療費もかさむことから音楽学校を休学、前述したように時給の高いヌードモデルで糊口をしのぎます。 

 淡谷は休学を挟みながら、16歳から5年間にわたり、霧島のぶ子、通称「のぶちゃん」として人気モデルの顔を併せ持っていました。当時のモデルの同僚に、女優の原泉がいたそうです。

10年に一人のソプラノ

 やがて復学した淡谷は、恩師・久保田稲子の厳しいマンツーマン指導によりファルセット(裏声)による歌唱法を会得、21歳のとき声楽科を主席で卒業すると、読売新聞社主催の「オール日本新人演奏会」で「アガーテのアリア」(「魔弾の射手」より)を歌い「10年に一人のソプラノ」と激賞されます。

 後年、歌謡界のご意見番となった淡谷が若手の歌手に対して口を酸っぱくして言っていたのが、「基礎の大切さ」でした。

 これは、前記の久保田稲子からの「音程は正確すぎるほど正確に」「歌詞は詩を朗読するよう意味を把握し明瞭に」という指導を全うするための基礎練習の大切さを、身に染みて理解していたからでした。

 卒業時に久保田からかけられた言葉──あなたは歌と一緒に死んでいくのよ──は、淡谷にとってかけがえのないものでしたが、恩師のいう「歌」とは、当然のごとくオペラのことでした。

クラシックから流行歌手の世界へ

 音楽学校卒業後、クラシック畑で活躍したかった淡谷ですが、クラシックだけの仕事だけでは、淡谷が望むような暮らしは成り立たず、断腸の思いで、当時低俗とされていた流行歌の世界へ飛び込みます。

 昭和5年(1930)、キングレコードから『久慈浜音頭』でデビュー、日を置かずレコード会社を変えながらマドロス物など数多くの曲を吹き込みますが、翌6年、日本コロムビアに移籍すると、映画音楽などの外国曲の吹き込みが多くなっていきます。

 ただし、日本コロムビア移籍後、最初にヒットしたのは、昭和6年9月発売の『私此頃(このごろ)憂鬱よ』という古賀メロディーの曲でした。

 A面は藤山一郎『酒は涙か溜息か』(両面とも、詞・高橋掬太郎、曲・古賀政男)で、両面ともヒットしたのですが、4歳年下で、のちに「ピンちゃん」と呼んで弟扱いしていた藤山の曲がA面だったのが気にさわったのか、淡谷はこのヒット曲を公演の際のレパートリーには加えなかったそうです。

『私此頃憂鬱よ』が発売された同時期の昭和6年9月、ジャズ・ピアニストの和田肇と結婚。淡谷には恋心とは別に、和田とともにジャズを深めたいという気持ちがありました。しかし、妻としての仕事を望んでいた和田との生活は長く続かず、昭和10年には結婚を解消しています。

死地への旅立ちは『別れのブルース』で

 古賀メロディーのあとはシャンソン映画音楽など外国曲を中心にレコード化されていきますが、日中戦争のきっかけとなった盧溝橋事件が勃発するひと月ほど前の昭和12年6月、淡谷の代表曲となる『別れのブルース』が発売されます。

『別れのブルース』の歌詞は、服部良一が短調で抒情的な曲を創作したのちに、詩人・藤浦洸に当時の五円札を渡し、「本牧の夜をブルースの歌にしてほしい」と依頼したもので、夜を共にした(かもしれない)女性が、「窓を開ければ港が見えるのよ」と口にした言葉を曲の冒頭に取り入れたものでした。

 当初は『本牧ブルース』という題名だったのですが、歌詞に登場する「メリケン波止場」が神戸にも存在することから『別れのブルース』に変更されます。

 短調で切々と歌われるこの曲は、特に満州や上海などの大陸に駐屯している軍人・兵隊たちに人気がありました。

 戦意高揚のための勇ましい歌よりも、「今日の出船はどこへ行く」といった「別れ」を表わす歌詞などに望郷への念を募らせていたのでしょう。淡谷の静かな歌声が前線にいる兵士たちの心にずしりと響いたことは間違いありません。

 しかし、それから数年後、戦局の悪化により『別れのブルース』は発売禁止となります。

『別れのブルース』が発売された翌13年、第2弾のブルースとなる『雨のブルース』が誕生します。創作の際、服部が作詞を依頼したのがジャズ評論家の野川香文、別名・大井蛇津郎(おーいジャズろう)でした。

 冒頭「雨よ降れ降れ 悩みを流すまで」で始まる歌詞は、黒人ブルースに精通していた野川が日中戦争拡大という背景を意識し、世の人々の切なさをメロディーに乗せたもので、単なる失恋ソングではありませんでした。

 老若男女、国内外に知られた淡谷の歌声は、朝ドラでも描かれたように基地にいる特攻隊員たちの前でも披露されましたが、淡谷の歌唱中に特攻命令が下され、自分の子供ほどの年若き隊員たちが退場して行く姿を見たとき、淡谷の目からはとめどなくあふれるものがありました。

参考文献
『別れのブルース』(吉武輝子著、小学館)
『ブルースのこころ』(淡谷のり子著、ほるぷ)
『一に愛嬌二に気転』(淡谷のり子著、ごま書房)

(編集協力:春燈社 小西眞由美)

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