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 中国の「万里の長城」の一部はモンゴルまで延びている。この部分がこのたび初めて詳しく分析され、この巨大建造物の歴史とその機能に関して、いくつかの推測がまとまった。

 全長405kmにもおよぶこの部分の壁は、その曲線的な軌道にちなんでモンゴリアンアークとも呼ばれており、チンギスカンの襲撃を防ぐために建設された可能性や、民間人の移動を管理した可能性が示唆されている。

【画像】 モンゴリアン・アークの謎

 中国とモンゴルの国境とほぼ平行に延びるこの古代の障壁は、モンゴル北東部のスブバートル県からドルノド県まで延びていて、冬の気温は氷点下25℃まで下がることもよくある。

 その規模と複雑さにもかかわらず、この壁がいつ、誰が、なんのために建てたのかということははっきりわかっていないという。

 土壁、塹壕、34の建造物から成る壁は、11世紀から13世紀にさかのぼるものだという歴史書もあるが、今のところ正確な年表記はない。

 これだけの規模なのに、モンゴリアンアークは既存の学術議論からは取り残されてきたと言う研究者たちが、衛星画像、中国のやソ連の地図帳と現地での直接観測を組み合わせて、壁と関連建造物を分析した。

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モンゴリアンアークの壁の一部をとらえた航空写真。万里の長城から伸びる、あまり知られていない部分を調査している研究者たちは、その歴史的重要性について新たな視点を明らかにした / image credit:Journal of Field Archaeology (2023). DOI: 10.1080/00934690.2023.2295198

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モンゴル軍の襲撃を防ぐため大慌てで作られた可能性

 もっとも衝撃的だった発見は、モンゴリアンアークには多数の大きな隙間があることだった。これは急いで建設されたため、完全に要塞化されたものではないことを示していることになる。

 「要塞システムの弱点であるこうした隙間について考えられる説明は、モンゴリアンアークが、中国金王朝時代末期に予想されるモンゴル軍の襲撃を防ぐために大慌てで作られた可能性だ」と論文には書かれている。

 壁の築年数に関してはまだ不確実だが、西暦1200年頃の金王朝の領土へのモンゴルの急襲時期と一致している可能性が高く、パニック状態の中、建設されたのではないかという説が有力になりそうだ。

 だが、研究者たちはこの洞察はあくまで仮説であって、決定的なものではなく、そうした不確実性をふまえて考えるべきだと繰り返し述べている。

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この地図は3つの独立した壁の輪郭を描いたmの。青がノーザンライン、緑がサザンライン、そして赤がサザンラインの延長部分である。モンゴル弧は赤い線に対応し、モンゴル領内に伸びている / image credit:Tung Fung, Y., Gantumur, A. et al. 2023/Journal of Field Archaeology

軍事目的ではなく、民間の移動を管理していた可能性も

 また、モンゴリアンアークは軍事的目的を意図したものではなく、人々の移動の管理、あるいは課税などの民間機能と関連していたのではないかという説もある。

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 この説を裏づける証拠は、前哨基地の多くが、周囲をあまり見渡すことのできない非効率な場所に配置されており、壁が障壁としてはそれほど優れたものではなかったという事実からきている。

 全体的に見ると、モンゴリアンアークの真の目的について明確な答えはまだ出ていない。

 だが、今後野外調査が可能な季節に建造物のいくつかの大規模発掘調査を行う予定なので、これにより、壁の建設年代、実際に使われた期間を特定し、ここに駐留していた人たちの活動に光を当てることができることを研究者たちは望んでいる。

 この研究は『Field Archaeology』誌に掲載されている。

References:Mysterious 405-Kilometer-Long "Great Wall Of Mongolia" Studied For First Time | IFLScience / Study of Mongolian Arc adds to mystery surrounding its purpose / written by konohazuku / edited by / parumo

 
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万里の長城から伸びる全長405kmのモンゴリアン・アークが初めて調査される