古くなった紙幣は年間「約30兆円」ほど捨てられています。一体なぜ、紙幣を捨てなければならないのでしょうか。本記事では、お金の向こう研究所の代表を務める田内学氏の著書『きみのお金は誰のため:ボスが教えてくれた「お金の謎」と「社会のしくみ」』(東洋経済新報社)から一部を抜粋します。主人公の優斗とともに、「古い紙幣」を捨てる理由について考えてみましょう。

あらすじ

キレイごとが嫌いな中学2年生の佐久間優斗は「年収の高い仕事」に就きたいと考えていた。しかし、下校中に偶然出会った銀行員の久能七海とともに「錬金術師」が住むと噂の大きな屋敷に入ると、そこで不思議な老人「ボス」と対面する。

ボスは大富豪だが、「お金自体には価値がない」「お金で解決できる問題はない」「みんなでお金を貯めても意味がない」と語る。彼の話を聞いて「お金の正体」を理解できた人には、屋敷そのものを譲渡するという。図らずも優斗と七海はその候補者となり、ボスが語る「お金の話」を聞くことに……。

登場人物

優斗……中学2年生の男子。トンカツ店の次男。キレイごとを言う大人が嫌い。働くのは結局のところ「お金のため」だと思っている。偶然声をかけてきた七海とともにボスの屋敷を訪れた。

七海……アメリカの投資銀行の東京支店で働く優秀な女性。投資で儲ける方法を知るためにボスの屋敷を訪れた。

ボス……「錬金術師が住んでいる」と噂の大きな屋敷に住む初老の男性。関西弁で話す。1億円分の札束を「しょせんは10キロの紙切れ」と言い放つなど、お金に対する独自の理論を持つ大富豪

燃やされるお金

あの洋館の一室で、窓を打ちつける激しい雨の音を聞きながら、優斗はボスと向き合っていた。彼は、とっておきの秘密でも明かすように、得意げな表情でこう言った。

「お金に価値がないことは、簡単に証明できるで。毎年、大量のお金が燃やされとるんや」

「いやいや、そんなはずないですよ」

優斗が愛想笑いをしたのは、彼がふざけていると思ったからだ。

「疑うんやったら、これを見たらええわ」

ボスは積み上げた山から1つの札束を手に取り、トランプのカードを配るように手首を素早く返した。

札束がテーブルの上をすべってくる。優斗は言葉にならない声を上げて、すべり落ちそうになる札束をあわてて受け止めた。初めて触る札束にふたたび心拍数が上がる。そして、緊張とともに別の感情も湧き上がった。

「お金も、トランプと同じなんですね」

お金を雑に扱うボスの態度に、最大限の嫌味を込めたつもりだったが、彼はまったく意に介していなかった。

「どっちもただの紙切れやからな。せやから、紙幣が古くなると燃やして捨てられるんや。その証拠に、古い紙幣なんて存在せえへん」

ボスにうながされて、優斗は手元の札束をパラパラとめくってみる。たしかに、古い紙幣は1枚も見つからない。

「まあ……そうですね」

その事実をしぶしぶ認めた優斗は、ガラス細工でも扱うように札束をそっとテーブルの上に置いた。

ボスはニヤッと笑ってから、話し始めた。

「使っているうちに紙幣は汚れたりやぶれたりする。5年も使うとボロボロになるから、古いのを捨てて新しい紙幣を使うんや。ほんまに紙幣自体に価値があるなら、古い紙幣を捨てる理由なんてあらへん」

もし優斗だけが聞いていたなら、その説明で納得していただろう。しかし、他にも1人、話を聞いている人物がいた。

左隣に座る七海だ。

社会全体の視点に立ったとき「お金」の価値が消えるワケ

投資銀行で働くという彼女は言葉少なだった。異質な空気に圧倒されている優斗とは違い、ボスに挑むような顔つきで話を聞いていた。その彼女が、飲んでいたティーカップを置いた。

「お言葉ですが、それはインフレにならないためですよね」

「ほほう。そう来たか」

ボスは上機嫌で返したが、優斗には意味がわからない

インフレって、値上げのことでしょ。それって、関係あるんですか?」

その疑問に答えてくれたのは、七海だった。愛想というものがないのか、彼女は厳しい顔を崩さない。しかし、話自体はわかりやすかった。

「みんながお金を持ちすぎると、もっと物を買うようになるから、値段が上がるわよね。たとえば、このクッキーが1枚100円から、200円に値上がりしたとするじゃない?」

そう言うと、彼女は皿の上のクッキーを手に取った。紅茶といっしょに出されたそのクッキーは、香ばしいバターの匂いがしている。

「同じ千円札で、買えるクッキーの枚数は10枚から5枚に減るわけよね。つまり、お金の値打ちが下がっちゃうのよ。お金が増えすぎると値打ちが下がるから、新しく印刷した分だけ、捨てないといけないの」

優斗の脳裏に、昔読んだ教科書の1コマが浮かんだ。トラクターレタスをつぶしている写真。豊作すぎるとレタスの値打ちが下がるから、レタスを廃棄(はいき)しているという説明が書かれていた。それと同じで、値打ちが下がらないように、お金を捨てているということだろうか。

納得しそうになったが、ボスの次の話を聞いて、逆に謎が深まった。

インフレにならないために、紙幣を捨てていると思う人は多い。せやけど、さっき七海さんの言うとったように、将来に備えてみんながお金を貯めたら、お金が増えてインフレで困ることになる。それは矛盾してへんかな」

ボスの皮肉っぽい笑いが七海に向けられる。

むすっとした彼女は、グレーのジャケットを脱いでイスの背もたれにかけた。そして、白いシャツの袖をまくり上げる。

「なかなか興味深い指摘ですね。じっくり議論したいです」

ボスは、満足そうに一度うなずいてから、ふたたび話し始めた。

「1人ひとりの視点では、僕らはお金に価値を感じている。せやけど、全体のお金が増えすぎるのは良くなさそうや。僕が言うてるのはそこや。社会全体の視点に立てば、お金の見え方が変わる」

もったいぶった表現に優斗はじれったくなる。

「どう変わるっていうんですか?」

「お金の価値が消えるんや。この札束がただの紙切れに見えてくる」

札束の山にポンと手を置いたボスは、ふたたびニヤッと笑った。

窓をたたく雨音が不規則なリズムを刻んでいた。

捨てることのできるチケット

あのとき、ボスの部屋で見た得意げな笑顔は、優斗への挑戦状に見えた。ベッドから起き上がり、勉強机のライトをつける。

「めんどくさっ」と口ではつぶやいたが、謎を解き明かす意欲に火がついていた。

ノートを開いて、ボスの言葉を書き留める。

「1人ひとりにとっては価値があるが、全体では価値が消える」

なぞなぞのような言葉を見つめながら、優斗はスマホに手を伸ばした。

検索すると、すぐにボスの話に関連する情報が見つかった。焼却される古い紙幣は毎年30兆円ほどらしい。

マジかよ、と優斗は思う。

30兆円の札束を積み上げると300キロメートルの高さにもなるそうだ。それは国際宇宙ステーションまでの距離に匹敵する。

ボスに見せつけられた札束の山にも驚おどろかされたが、それが宇宙にまで届くとは。そんな札束の柱を燃やすなんて、もったいないどころではない。頭の中で、そびえ立った札束柱が倒れてくる。空から降ってくる一万円札に人々が群がる様子を想像した。

燃やしているのは、紙幣を発行する日本銀行だという。

財布に1枚だけ入っていた千円札を取り出して、ライトの下でじっくりと眺めてみた。細かい模様がびっしりと描かれた紙には、しっかりと“日本銀行券”と書かれている。

“券”というとチケットのことだ。

不思議な感じがした。クーポン券や、映画のチケットと同じだろうか。いちばんなじみのあるチケットは、トンカツさくまの千円分の食事券だ。スタンプを10個ためたお客さんだけに渡している。

そういえば、こんなことがあった。店の手伝いをしていた優斗が、客から受け取った食事券を破り捨てたときのことだ。たまたま、遊びに来た友人が驚いた顔をしたのだ。

「もったいねーな。捨てるんだったら、俺にくれよ」

友人には、千円札を破り捨てているように見えたのだ。クーポン券にしても映画のチケットにしても、利用する側には価値がある。しかし、発行する側にとっては何の価値もない。

それと同じ感覚で一万円札を燃やすというのだろうか。ノートに書いた言葉を、ふたたび読んでみる。

「1人ひとりにとっては価値があるが、全体では価値が消える」

田内 学

お金の向こう研究所

代表

(※写真はイメージです/PIXTA)