(町田 明広:歴史学者)

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◉欧米列強と幕末日本ー日本はどのようにグローバル化したのか①
◉欧米列強と幕末日本ー日本はどのようにグローバル化したのか②

イギリスによる日本への進出

 開国後の日本にとって最も重要な外国は、植民地が世界中に存在した太陽が沈まない国であるイギリスであろう。鎖国後の日本との接触は、文化5年(1808)にフェートン号がオランダ船捜索のため長崎に入港した事件が最初であり、1820年代には、捕鯨船その他のイギリス船が補給のため来航し、日本人と衝突する事件も発生している。

 これに対し、幕府は強硬な態度をとり、文政8年(1825)に無二念打払令を発令した。その後、特にアヘン戦争の後は、イギリスの関心は清(中国)に集中したため、日本への圧力は一時的に治まった。そのため、日本の開国はアメリカの手に委ねられたのだ。しかし、南北戦争の間に、アメリカに代わって対日外交の主役にイギリスが躍り出た。

 当時、フランスの東洋における主たる関心はインドシナにあり、ロシアクリミア戦争の敗北により、関心を国内改革に向け、対日政策には消極的であった。その中で、イギリスの対日政策の基本は自由貿易主義であり、貿易を円滑に行うために条約を重視した。そのため、イギリスは条約締結の日本側の当事者である幕府を支持し、列強を主導したのだ。

オールコックによるイギリスの対日外交

 初代駐日公使オールコックは、幕府による通商条約の遵守を最優先課題とした。そのため、幕府が推進する朝廷融和策の一環として、また尊王志士による即時攘夷的な過激な行動を抑える時間的猶予を幕府に与えるために、兵庫・新潟の開港、江戸・大坂の開市の延期に理解を示した。順調に発展を遂げている対日貿易を維持するため、幕府による国内政治の安定化が必要と考えたのだ。

 そこで、オールコックは遣欧使節の開港開市の延期要求を日本から行うことを提案し、また、オールコックも一時帰国するなどして側面から支援した。その結果、ロンドン覚書(文久2年、1862)が結ばれるに至ったのだ。本件は直ちに他国に波及し、フランスなども同様に承認を表明した。

 しかし、イギリスの幕府への期待は時を経るにしたがい低下した。文久3年(1863)3月に上洛した将軍家茂は、朝廷から攘夷実行を迫られた。そして、攘夷期日を5月10日に決めるなど、それを受け入れて奉勅攘夷体制を採ってしまった。またその前後から、外国人殺傷事件も頻発したのだ。

イギリスと薩摩藩の関係

 文久2年8月には、横浜郊外で島津久光の行列の前を横切ったイギリス商人が殺傷された生麦事件が勃発した。ラッセル外相が「日本の異常な政治状況」を考慮せざるを得ないとして、幕府と薩摩藩の双方に賠償金等を要求したことは、幕府の全国統治能力を否定し、さらなる権威の低下を招いた。アーネスト・サトウが『英国策論』(慶応2年、1866年)の中で語っているように、この事件を起点として、イギリスの幕府離れは、決定的となったのだ。

 文久3年7月、生麦事件が導火線となって薩英戦争が勃発した。イギリス艦隊の損害は旗艦艦長の戦死を始め、死傷者は多数に及んだ。薩摩藩は人的損害こそ少なかったものの、城下の大半は焼き払われ、双方、甚大な損害を被った。一方で、砲火を交えたことによって、お互いの実力を知り、10月には横浜で講和談判が開かれ、それが薩英親善の契機となったのだ。

パークスによる外交方針の転換

 幕府が攘夷実行の期日と定めた文久3年5月10日から、長州藩は下関海峡を通航する米仏蘭の艦船を次々に砲撃した。これに対し、アメリカとフランスは報復を決行し、長州藩は下関海峡を封鎖して対抗した。

 イギリスは直接砲撃を受けなかったが、オールコックは自由貿易主義の阻害要因を排除するために、率先して列強を主導し、元治元年(1864)8月のイギリス・アメリカ・フランスオランダの四国艦隊下関砲撃事件を起こしたのだ。

 この頃から、イギリスの対日政策は大きく転換を始める。諸藩の排外思想は幕府の貿易独占への反感から発しており、その撤廃こそ真の自由貿易の確立になると考えた。慶応元年(1865)5月、オールコックに代わって公使に就任したパークスは、直ちに実力行使に踏み切った。最初に、フランス・アメリカ・オランダの公使の同意を取り付け、通商条約の勅許を求め、将軍家茂が長州再征のために大坂城に滞在中、連合艦隊を派遣し圧力をかけた。

 その結果、10月に徳川慶喜の尽力で遂に条約は勅許された。さらに、パークスが主導して下関戦争の賠償金を担保に、慶応2年(1866)6月には改税約書を幕府に締結させ、関税を一律5%とすることを認めさせた。なお、改税約書によって、大名の貿易参画が認められ、加えて、日本人の海外渡航の解禁も後押しされたのだ。

イギリスと明治新政府の関係

 明治元年(1868)1月、戊辰戦争が始まるとイギリスは内乱を回避して、貿易への打撃を最低限に防ぐことを目指し、ここでも列強を主導して局外中立宣言を行った。ここに、旧幕府は条約締結主体としての正当性を失ったのだ。

 また、旧幕府を代表した勝海舟は、3月15日に迫った江戸城総攻撃を阻止すべく、書記官アーネスト・サトウを介して、パークスによる外圧に頼ったとの説が有力視されている。パークスは戦争による貿易の阻害を阻止するため、それに応じたとされる。イギリスは新政府を支持していたものの、内乱回避のため、結果として内政干渉を行ったことになろう。

 なお、パークスは閏4月1日大坂城にてビクトリア女王の信任状を明治天皇に提出し、外国による明治政府の最初の正式承認を行った。パークスの態度によって、列強の帰趨は決まったとしても過言ではない。

 次回は、幕末日本でイギリスと覇権を競ったフランスフォーカスして、日本との関係を紐解いて見たい。

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