人的資本経営を行う上で最も重要なのは、「人には心がある」ということを改めて思い起こすことです――。こう語るのは、ファイザー、ノバルティスファーマ、味の素ロート製薬などで人事の要職を務めた高倉&Company合同会社共同代表の高倉千春氏だ。日本企業が人的資本経営において大切にすべきことは何か。また、人事パーソンには今どんな資質や能力が求められているのか。前編に続き、書籍『人事変革ストーリー~個と組織「共進化」の時代~』(光文社)を著した高倉千春氏に、人事のリーダーに求められる考え方や能力について話を聞いた。(後編/全2回)

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【前編】「人的資本経営」を掲げながら「個人」に目を向けない企業の大きな誤り
■【後編】「人の心に火を点ける」人的資本経営時代の人事部門に求められる2つの視点(今回)

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人的資本の価値が上がるかどうかは「人の心に火が点くかどうか」

――前編では、「人的資本経営」が登場するまでの「企業の人財観」の変遷についてお話しいただきました。人的資本経営に取り組む上では、どのようなことが重要になるのでしょうか。

髙倉千春氏(以下敬称略) 人財(企業の財産である人材)を「資本」(キャピタル)と捉えて、その資本価値をいかに高めるか、という視点が重要です。ここで最も必要だと思うことは、「人には心がある」という大前提を認識できているかどうか、ということです。人的資本の価値が上がるかどうかは、「人の心に火が点くかどうか」に左右されるからです。

 人的資本の価値が上がっているかどうか、すなわち「人の心に火が点いているかどうか」を見る方法が、昨今、日本企業でも広く導入されている「エンゲージメント・サーベイ」です。実は、時代の流れの中で「エンゲージメント・サーベイ」に用いられる設問の傾向は大きく変化しています。

エンゲージメント・サーベイ」が広まった当初、自社の「社員」としてのエンゲージメントを聞く質問が主体でした。たとえば、「我が社の戦略に共感しますか?」「共感したら主体的に行動しますか?」といった、「一人の組織人」としての心構えや行動を聞く質問が中心でした。

 それらの質問は後に、「一人の働き手」としてのエンゲージメントを聞く質問に変わってきました。たとえば、「あなたはこの会社で、生き生きと働けていますか?」「あなたのキャリア上の成長を促せるような機会を持てていますか?」といった質問です。一つの会社の枠にとらわれることなく、「一人の働き手」として、自分のエネルギーを存分に発揮できているかどうかを聞く質問といえるでしょう。

 さらに、最近になると「この会社は、自分の健康を維持できるような機会をサポートしてくれていますか?」というように、健康経営に関する質問が出てきています。「組織人」でも「働き手」でもなく、「一人の人間」としてのエンゲージメントを問われているわけです。このように、一人ひとりの細かな内面まで把握することが「ウェルビーイング経営」につながります。

 考えてみれば、皆一人の人間である以上、幸せを実感できていなければやる気なんて起きませんよね。つまり、組織は「個人が主役」であり、個々人の働きがいや人間としての生きがい、人生の幸せに焦点を当てることで、一人ひとりのやる気や意欲を高めることが経営課題になってきたということです。社員を一人の人間として見ないと、持続的な経営を実現することは難しいでしょう。

「人的資本経営」を理解する上では、こうした「企業の人財観」の大きな変化が背景にあるのだと理解することが重要です。

新しい人事のリーダーに求められる「2つの視点」

――人的資本経営を進める上では、人事部門の役割が大きいと思います。人事部門のリーダーはどのような問題意識を持ち、どのようなテーマに注力すべきでしょうか。

髙倉 人的資本経営を実践するためには、「個人」に焦点を当て、個々人の意欲と能力を高めることで人財の資本価値を上げる必要があります。そのためにも、まずは人事部門が変わらなければなりません。

 これまでの人事戦略の多くは、経営戦略や事業戦略から切り離されて議論されてきました。しかし、資本としての人財の価値向上が求められる以上、「事業戦略」と「人事戦略」を組み合わせて「経営戦略」をつくらなくてはいけません。そうした中で、会社の人事戦略を担う人事部門のリーダーには、新たな資質や能力として「マクロ」と「ミクロ」という2つの視点が必要になると思っています。

 マクロな視点とは、社会課題やグローバル課題など、これまで以上の高い視座から自社の状況を捉えることです。経営者は常に先を見て意思決定をしていますから、経営者と同じ景色を見ていなければ、経営者と対等に経営戦略を議論することはできません。

 そして、人財の育成には時間がかかります。現在の状況だけではなく、人口動態や人の意識の変化を鑑みながら、「5~10年後に社会構造やビジネス環境はどうなっているか」を予測し、人事戦略を立てる必要があります。そのためには、あらゆることへの好奇心アンテナを高くして、自分なりの視点で仮説を持ち、社会動向や経営動向を予測するというマクロな視点を持つことが求められるのです。

 一方、ミクロな視点とは、自社の組織風土を「意図的に変える」という足元の取り組みです。たとえば、「イノベーションを起こすためには、オープンで風通しの良い組織風土が必要だ」とよく言われますが、そこに決まった正解はありません。だからこそ、さまざまな施策の地道な実行の積み重ねが欠かせません。

 たとえば、これまでに私が取り組んだ施策としては、「さん付け運動」「フレックス制」「フリーデスク化」「服装のカジュアル化」などがあります。これらの施策は一つひとつがバラバラに存在しているわけではなく、「個人の力を花開かせる」という共通の意図の下で実施されるものです。こうした具体策が積み重なることで、組織における「人と人の関係性」がつくられていくのです。これからの時代の人事パーソンには、こうした「人の心に火をつける」ための地道な施策の実行力が一層求められます。

変革リーダーの役割は「イノベーションの面白さを伝えること」

――高倉さんはこれまで複数の企業で人事戦略や人事制度の改革に取り組まれてきましたが、変革リーダーにはどんな姿勢や心構えが必要でしょうか。

髙倉 「イノベーション」や「新規事業」を起こすためには、大変な困難を伴います。その時、変革リーダーにとって大事なことは、部下や周りの人に「それは面白いことだ」「やりがいのあることだ」と感じてもらうことではないでしょうか。まずは、リーダー自身がそれに挑んでみて、そこで「やりがい」や「生きがい」を感じている姿を見せると、部下もついてくるはずです。

 その時、忘れてはならないことは「変えるべきこと」と「変えてはいけないこと」の存在です。何でもかんでも変えさえすればイノベーションが起こる、ということはありません。

「変えるべきこと」とは、「やり方」や「打ち手」、「組織風土」などです。ビジネス環境や人びとの意識の変化に応じて変更すべきことといえます。これらは、意図的に変えていかなければなりません。

 一方、「変えてはいけないもの」とは、世の中がいくら変わろうとも変わらないものです。たとえば、その企業の「らしさ」「DNA」といった、脈々と流れ続けてきた「地下水脈」のようなものです。人が会社に入社する理由は「この会社とは波長が合うな」とか「あの経営理念は魅力的だな」といった、心で感じたことが大きいはずです。そうしたものに共感して組織に入り、それがやる気や意欲の原動力になっている、という人も多いと思います。だからこそ、そういった地下水脈は大切にすべきであり、変えてはいけないのです。

 これらを理解した上で「ズームアウト」と「ズームイン」という、2つの対極的な視点から物事を見るという能力を育むことが重要です。「ズームアウト」とは、社会の変化や将来の動向をマクロな視点から大きく捉えることです。好奇心アンテナを高くして、テレビでも本でもアニメでもいいですから、そこから世の中の動向を洞察する眼を養います。

 一方で「ズームイン」とは、「その取り組みは、自社にとってどんな意味を持つのか」という動きを見極めるミクロな視点です。つまり、自社の地下水脈はどのようなもので、自社で働いているのはどんな人で、どんな価値観を持っているのだろうか、という細やかな眼を持つことです。そして、その視座から社会や将来を見ることが必要です。

 このように「ズームアウト」と「ズームイン」の両面をしっかりと捉えることは極めて重要です。そして、この2つの間に「架け橋」を築くことこそが、「変革」や「イノベーション」の本質ではないかと思っています。

 私自身の経験からすると、変革やイノベーションは大変なことですが、それに挑戦することで自分自身の成長や学び、楽しさになります。また、その経験は一生涯の財産にもなるものです。ですから、少しでも多くの人が変革やイノベーションに挑戦して、豊かな実感を味わうことが、個人と社会の双方にとっての幸せにつながると思います。

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高倉&Company合同会社共同代表 髙倉千春氏(撮影:倉本寛)