大ヒット中の映画『ゴジラ -1.0』で、主人公らが当初「ゴジラ」に立ち向かったのはオンボロの木造掃海艇でした。しかし、この「掃海」という任務、実はその後、海上自衛隊が生まれる礎となった重要なものでした。

大ヒット映画『ゴジラ-1.0』で描かれた掃海作業

2023年11月に封切られ、大ヒット作品となった映画『ゴジラ-1.0』。この映画には、巡洋艦「高雄」や駆逐艦「雪風」「響」、終戦直前に試作機のみ完成した幻の戦闘機「震電」など、旧日本海軍の兵器が数多く登場してスクリーンの中で“活躍”したことでも話題になっています。

そうした華々しい名優とは対象的に、俳優の神木隆之介さん演じる主人公、敷島浩一少尉らが日常の仕事の場として乗り組んだ木造の特設掃海艇「新生丸」は、いかにもオンボロの船に描かれます。同船自体は架空ですが、最も当時の“リアル”を映し出しているといえるかもしれません。

太平洋戦争の終結後には、多くの元海軍軍人がこうした木造船に乗り、後の海上自衛隊へと通じる「機雷掃海」という重要な任務に従事していたのです。

戦争中、日本近海には日米両軍によって多くの機雷が敷設されました。その数なんと6万6050個。戦中の掃海作業によってある程度は減ったものの、それでも終戦の日である1945年8月15日時点で日本海軍が防御用として敷設した係維機雷5万5347個と、アメリカ軍B-29爆撃機潜水艦によって敷設した感応機雷6546個が日本列島を取り巻くように残されていました。

日本側は港の入り口に、対するアメリカは食糧や燃料などの物資輸送で重要な役割を担っていた海上交通網を完全に寸断しようと、関門海峡瀬戸内海といった主要航路に、それぞれ多くの機雷を敷設したため、戦後も船舶の安全航行にとって大きな妨げとなっていました。

終戦わずか1週間後の8月24日には、京都の舞鶴湾内で大阪商船(当時)の「浮島丸」が蝕雷し沈没、500人以上が亡くなったのをはじめ、10月7日には大阪湾内で関西汽船(当時)「室戸丸」(死者約300人以上)、同月13日には神戸港沖で「華城丸」(同約170人)、10月14日に壱岐島沖で九州郵船(当時)の「珠丸」(同500人以上)と、立て続けに機雷による沈没事故が発生しています。

1948年1月28日には大阪~多度津を結ぶ瀬戸内海航路に投入されていた関西汽船の「女王丸」が岡山県の牛窓沖でやはり蝕雷・沈没し、約200人が犠牲になったとされています。

機雷は2種類に大別

しかも、機雷は日本の復興への障害となるだけでなく、アジアと太平洋の各地に散らばって残置されていた将兵の復員や民間人の引き揚げにも大きな影響を与えます。そのため、機雷の除去は日米双方にとって喫緊の課題になりました。実際、前出の「浮島丸」には朝鮮半島へ戻る朝鮮人労働者が、「珠丸」には大陸から引き揚げてきた人たちが乗っていました。

アメリカ軍は連合国軍最高司令部、いわゆるGHQの一般命令第一号などに基づき、日本側が掃海作業を実施するよう命じます。これにより、日本側は終戦から1か月後の1945年9月18日、海軍省軍務局の中に掃海部を設置しました。

また、これと並行して各地方に置かれていた鎮守府横須賀、呉、佐世保)と警備府(大阪、大湊)で、さっそく掃海作業をスタートさせます。これら現場では、大戦を生き抜いた海防艦や駆潜特務艇、哨戒特務艇、徴用漁船など計348隻もの船艇などを用いて掃海作業を行っており、正式に降伏文書が調印され、アメリカやイギリスといった連合国の占領が始まった後も任務は続けられたのです。

ただ、ひとくちに掃海作業といっても、相手は無人の爆発物。しかも機雷の種類によってやり方が異なるなど一筋縄ではいかないものでした。

機雷は大別すると、「係維機雷」と「感応機雷」の2種類に分けられます。

係維機雷は海底に重りが置かれ、そこから延びる係維索(ワイヤーロープ)に繋がれた機雷缶が海中を浮遊するという構造です。機雷缶には爆薬が詰まっており、触角に船底が当たると起爆する仕組みになっています。

処分するためには、まず係維索を切断し、機雷缶を海面へと浮上させ、そのうえで銃撃を加えるなどして爆破するのが一般的でした。そのため、旧日本海軍では、喫水が浅い2隻の艦艇が対となって水中に落とした掃海索を曳航し、これによって係維索を切断するか、もしくは1隻だけでも係維索の切断が可能な単艦式大掃海具と呼ばれるものを使用するのが一般的でした。

なぜオンボロ木造船が掃海艇に最適なの?

この係維機雷に関しては1946年8月に掃海が完了したものの、ワイヤーが腐食したものが浮流機雷となって海面を漂うようになったことで、陸上にも危険を及ぼすようになります。

これに対してアメリカ軍が敷設した感応機雷は海底に設置されるもので、鋼船が上を通ると作動する磁気機雷、推進器の音に反応する音響機雷、航行する船による水圧の変化と磁気に感応する磁気水圧複合機雷などがありました。

当時、最先端の兵器であったこれら感応機雷の対処に、旧日本海軍は後れをとり当初こそ大きな被害を出したものの、2隻の艦艇が対となって網のような構造の電気ケーブルを曳航し、ケーブル部分に強力な電流を流すことで処分を行う方法を、対感応機雷用として考案します。ただ、この方法には鋼船は使えないため、木造の哨戒特務艇や駆潜特務艇を投入しました。

結果、終戦後もこうした木造船が掃海艇として多用されることになったのです。

なお、掃海作業が終了したかを確認するには、実際に海面を航行してみるのが一番確実でした。そのため、「試行船」という掃海海面に有人で最初に進入する船が用意されます。

試行船は複数用意されたようですが、同船には当初、民間船員が乗り込んだそうです。その点、旧海軍軍人がそのまま残った駆特などとは違うといえるでしょう。しかし、募集時に約束した慰労金1万円の支払いを巡りトラブルが起きたことで、2隻の試行船から乗員がいなくなってしまう事態が起きました。その結果試行船にも旧海軍軍人が乗り組むことになったといわれています。

機雷を取り除き、安全な航路を作る航路啓開業務は、空母「葛城」のような大型艦を運用する復員輸送と並んで多くの旧海軍軍人の力を必要としていました。そのため、頭数については復員した旧海軍軍人に充員召集をかけてかき集めるとともに、危険が伴う掃海任務に就いてもらう以上、十分な給与や手当を用意したそうです。

組織が廃止されても連綿と残存

実際、1945年から1952年までの間に航路啓開業務に従事して殉職した掃海関係員は78人もいたとか。ここからも、いかに掃海作業が過酷だったか伺い知ることができるでしょう。なお、1950年に起きた朝鮮戦争では、元山や仁川、釜山などといった朝鮮各地の重要港湾に漂う機雷を掃海するため、アメリカ軍の要請を受けて特別掃海隊が派遣されています。ただ、この派遣で2隻が沈没し1人が殉職しました。

一方で掃海部隊の働きぶりにアメリカ海軍も注目したことで、「海軍再建」の核へとなっていきます。1945年11月30日に海軍省が廃止され日本海軍が消滅した後も、掃海部隊は旧海軍軍人によって残り続け、補給や修繕も旧海軍施設が引き続き使われました。

その後、旧海軍省は第2復員省、復員省、復員庁へと姿を変え、さらに運輸省海上保安庁の一部門へと再編縮小が行われますが、そのように組織が移り変わる中でも、掃海の進展や公職追放によって規模の縮小こそ続いたものの、海上警備隊の誕生に至るまで田村久三元大佐(当時)ら旧海軍将校が残って指導的な役割を果たしています。

結果、日本周辺海域の安全保障を担う組織として1952年8月に保安庁警備隊が創設されると、掃海関係の船艇88隻と人員1699人が海上保安庁から警備隊へ移管され、現代の海上自衛隊掃海隊群へ続く素地が形作られました。

今の掃海隊群は機雷戦だけでなく、島嶼部への着上陸を実施する水陸両用戦も担っています。そのため掃海母艦や掃海艦艇だけでなく、大型のおおすみ型輸送艦や最新鋭のもがみ型護衛艦も配備されました。

実は、『ゴジラ-1.0』で描かれていた掃海作業というのは、ボロ船に乗って危険と隣合わせの地味な任務であったものの、今日の海上自衛隊へとつながる重要な役割を担っていたと言えるのです。

ひょっとしたら主人公の敷島浩一を始め掃海艇に乗り組んでいた登場人物らの何人かは、「ゴジラ」との戦いの後、保安庁警備隊へ入り、海上自衛官になった可能性も無きにしもあらず、なのではないでしょうか。

硫黄島の沖合で掃海訓練を行う海上自衛隊の掃海艇「あいしま」(画像:海上自衛隊)。