日本の民事裁判で一番用いられている条文をご存じですか? 身近な法律を知っておくことで、もしものときに役立つかもしれません。本記事では、中央大学法学部教授である遠藤研一郎氏の著書『はじめまして、法学 第2版 身近なのに知らなすぎる「これって法的にどうなの?」』(株式会社ウェッジ)より、最も身近ともいえる法律について解説します。

日本の民事裁判で一番活躍している条文

読者のみなさんは、日本の民事裁判で、一番用いられている条文をご存じですか?それは、民法709条です。同条は、次のように定められています。

[民法709条]

故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。

条文を一読するだけで想像できると思いますが、この条文は、かなり抽象的で、そのぶん、活用範囲は極めて広いものとなっています。交通事故、傷害事件、公害問題、医療過誤事件、名誉毀損やプライバシー侵害など、誰かに損害の賠償を求めたいと思ったときに、出発点となる条文です。これによって、損害を被った被害者の救済を図っているのです。

刑事責任においては、結果が発生せずに、「未遂」であったとしても処罰される場合があります(刑法43条、44条※1)。あるいは、実害が発生していなくとも、保護法益が侵害される危険があれば、それだけで処罰の対象となることもあります。しかし、民事責任においては、何らかの損害の発生が、加害者に責任を問い得るための要件となっています。

他方、刑事事件においては、「過失犯」が処罰されるのは例外的ですが(刑法38条1項※2)、民事責任の場合、故意と過失の区別をすることなく、損害賠償責任の対象になります。

※1 【刑法43条】犯罪の実行に着手してこれを遂げなかった者は、その刑を減軽することができる。ただし、自己の意思により犯罪を中止したときは、その刑を減軽し、又は免除する。

【刑法44条】未遂を罰する場合は、各本条で定める。

※2 【刑法38条】①罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。(後略)

「過失」とは何か?

さて、ここで「過失」について触れておきましょう。民法709条の大きな特徴として、過失責任という考え方を採用している点が挙げられます。すなわち、人は、故意または過失によって他人の権利を侵害した場合にのみ責任を負う(加害者に故意または過失がないときは、加害者はその損害を賠償する責任はない)というものです。

ここでいう過失というのは、簡単に言うと、不注意のことを意味します。より専門的には、「予見可能性に基づく結果回避義務」と再定義されています。すなわち、損害が発生する予見可能性があるにもかかわらず、その損害発生を回避するための注意を怠った場合に、過失があったということになるのです。

そもそも、近代以前は、行為と損害との間に原因関係があれば、その原因者(原因を作った人)がすべての賠償義務を負うという考え方が有力であったといわれています(原因責任主義)。

しかし、明治期の近代的な民法典編纂の時期に、過失責任主義が採用されました。この背景には、資本主義経済における市民の自由な活動を最大限に保障するという発想があります。結果に対して全責任を負わなければならないとすると、私たちの行動は萎縮してしまい、産業が発展しなくなってしまいますからね。

「過失」を証明しなくても加害者の責任を問えるケース

過失責任主義は、私たちに活動の自由を保障します。しかし、見方を変えると、一定の不都合をもたらします。なぜならば、被害者が加害者の過失を証明できなければ、誰もその責任を負う必要はなく、単なる災難として処理されてしまうからです。

とくに、危険を潜在的に含有しているものがたくさんある今日の社会においては、被害が重大かつ深刻な事件があります。より積極的に、被害者の救済や、将来の不法行為の抑止が必要となる場面も少なくないように思われます。

そこで、過失を要件とせずに加害者に対して賠償責任を課しうる、無過失責任が台頭することになります。現在の日本においても、公害問題、自動車事故、食品や電化製品などの製造物から生じた事故、原発事故など、さまざまな領域において、法制度の中に無過失責任的な考え方が導入されています。

さまざまな事態を想定して定められている法律

1つだけ例を挙げましょう。自動車損害賠償保障法という法律があります。この法律では、自動車事故を起こしてしまった人の民事責任について規定しています(ちなみに、刑事責任については、自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律などに規定があり、それに従って処罰されます※3)。

[自動車損害賠償保障法3条]

自己のために自動車を運行の用に供する者は、その運行によつて他人の生命又は身体を害したときは、これによつて生じた損害を賠償する責に任ずる。(後略)

注目してもらいたいのは、民法709条と異なり、「故意または過失によって」という文言が条文にないことです。これは、被害者が加害者の故意・過失を証明しなくても、加害者の責任を問えることを意味します。

じつはこの条文は、この後に「ただし書き」が続き、加害者自身が、自分には落ち度がないことを証明できれば免責されることが規定されていますので、純粋な無過失責任ではありません。

しかし、「被害者が加害者の過失を証明する」という発想から、「加害者が自分に過失がないことを証明する」という発想に転換し、しかも、過失がないことの認定を厳しくすることによって、実質的に無過失責任にも似た重たい責任が、加害者に課されているのです。

自動車は、いわば鉄の塊。それが走っているのですから、危ないわけです。ですから、事故を起こしたら厳しい責任を課すことによって、自動車事故を抑止しているのです。

※3 【自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律2条】

次に掲げる行為を行い、よって、人を負傷させた者は15年以下の懲役に処し、人を死亡させた者は1年以上の有期懲役に処する。

1. アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態で自動車を走行させる行為

2. その進行を制御することが困難な高速度で自動車を走行させる行為

3. その進行を制御する技能を有しないで自動車を走行させる行為

4. 人又は車の通行を妨害する目的で、走行中の自動車の直前に進入し、その他通行中人又は車に著しく接近し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転する行為

5. 車の通行を妨害する目的で、走行中の車(中略)の前方で停止し、その他これに著しく接近することとなる方法で自動車を運転する行為

6. 高速自動車国道(中略)又は自動車専用道路(中略)において、自動車の通行を妨害する目的で、走行中の自動車の前方で停止し、その他これに著しく接近することとなる方法で自動車を運転することにより、走行中の自動車に停止又は徐行(中略)をさせる行為

7. 赤色信号又はこれに相当する信号を殊更に無視し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転する行為

8. 通行禁止道路(中略)を進行し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転する行為

【同3条】

①アルコール又は薬物の影響により、その走行中に正常な運転に支障が生じるおそれがある状態で、自動車を運転し、よって、そのアルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態に陥り、人を負傷させた者は12年以下の懲役に処し、人を死亡させた者は15年以下の懲役に処する。

②自動車の運転に支障を及ぼすおそれがある病気として政令で定めるものの影響により、その走行中に正常な運転に支障が生じるおそれがある状態で、自動車を運転し、よって、その病気の影響により正常な運転が困難な状態に陥り、人を死傷させた者も、前項と同様とする。

【同5条】

自動車の運転上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた者は、7年以下の懲役若しくは禁錮又は100万円以下の罰金に処する。ただし、その傷害が軽いときは、情状により、その刑を免除することができる。

遠藤 研一郎

中央大学法学部

教授