神奈川新聞の石橋学記者の記事や発言によって、名誉を傷つけられたなどとして、保守系運動家の佐久間吾一氏が、石橋記者を相手取り計280万円の損害賠償を求める裁判を起こした。

1審・横浜地裁川崎支部は、記事について名誉毀損の成立を認めなかったものの、発言については15万円の支払いを命じた。しかし、2審・東京高裁は2023年10月、1審判決を取り消して、原告の請求をすべて棄却する「逆転判決」を言い渡した。

原告側は上告したものの、上告理由書を期限内に提出しなかったことで、2023年12月20日に上告却下となり、この裁判は終結した。

石橋記者はこれまで、神奈川県を中心に在日コリアンをはじめとするマイノリティの取材を続けてきた。

記事が偏っているという批判にすらも「ええ、偏っています」と胸を張って答えてきた石橋記者に「記者が訴えられること」について聞いた。(ライター・碓氷連太郎)

●裁判は想定していたので「萎縮しなかった」

――どんな記事や発言が名誉毀損だとして裁判を起こされたのか、改めて教えて下さい。

2019年2月、佐久間氏が関係する「ヘイトスピーチを考える会」という団体が、公共施設の川崎市教育文化会館で集会を開きました。

その際、主催者の佐久間氏が、在日コリアン集住地域の川崎市池上町について「旧日本鋼管の土地をコリア系が占拠している」「共産革命の橋頭堡にしようとしていて、戦いは今も続いている」などと、"根拠のない発言"をしていました。

ちょうどそのころ、川崎市では、ヘイトスピーチに対して刑事罰を科す「差別のない人権尊重のまちづくり条例」が制定される動きが始まっているころでしたが、佐久間氏は「ヘイトスピーチ規制は表現の自由を奪い、憲法に反するものだ」とも主張していました。

この集会について、神奈川新聞の記事に「悪意に満ちたデマによる敵視と誹謗中傷」と書いたことが、名誉毀損だという主張でした。

もう1つは、佐久間氏が2019年5月、JR川崎駅前で街宣した際に「2016年6月の自分たちのデモに川崎市が公園を使わせなかったことは、ヘイトスピーチ解消法施行前だったのに法律を適用したのは違法だ」という趣旨の発言をしていたので、市の都市公園条例をあげて「そんなことも知らないで、市議会議員に出ようなんて本当に勉強不足」「デタラメ」と、その場で反論しました。

これがやはり名誉毀損にあたるとして、この2つについて、訴えを起こされたのです。

――なぜこのような裁判が起こされたと思いますか?

記事に関しては、佐久間氏自身も裁判の過程で「公益性」を認めていました。だから、佐久間氏は自分の名誉を取り返したくて、裁判を起こしたのではないかと、私は考えています。

川崎市ではヘイトスピーチに刑事罰が科されるようになり、街宣をしてもカウンターに抗議されて、差別主義者が差別発言をできる場が奪われていきました。そんな状況で、自分たちの主張を邪魔されず発言できる場として、法廷を選んだのではないかと思います。

また、マイノリティの権利を擁護する記事を書く記者を攻撃することで、その後ろにいるマイノリティも攻撃したいという意図があったのではないかと思います。

――訴えられることで、萎縮効果が生まれる可能性もあったわけですよね。

想定の範囲内でしたので、私自身が萎縮することはありませんでした。しかし、神奈川新聞や他社の記者に対して、「ヘイトスピーチを扱うと面倒なことに巻き込まれる」と萎縮させる目的はあったかもしれません。

●市民の応援が「逆転勝訴」の後押しに

――1審・横浜地裁川崎支部は、発言について損害賠償の支払いを命じました。なぜこのような判決になったと思いますか?

このときの裁判長が、差別主義者と近い感覚の持ち主であったのではないかと感じています。本人尋問の際、裁判長が「そうは言ってもあなたが街宣の場で大きな声をあげたら、演説を聞きたいと思ってる人が聞けないじゃないですか」と、私をたしなめる発言をしました。

佐久間氏の発言がヘイトスピーチだという認識を持っていないし、それどころか世の中に伝えるべき意見だと受けとめていたようです。裁判長の姿勢からは、差別を批判するような物言いに対する嫌悪や、差別を抗議することへの冷笑が感じ取れました。

しかし、そんな裁判長に運悪く当たってしまったのではなく、差別に抗する人たちに冷たい社会のあらわれだったのではないかとも思います。

――しかし、2審・東京高裁では、全面的に逆転勝訴しました。

まともな裁判官がいたというのもありますが、1審の判決がおかしいと声をあげてくれた市民の人たちがいて、それを報じてくれたメディアがあったからこそ覆ったのだと信じています。神奈川から東京・霞が関まで、毎回傍聴に来て応援してくれた市民のみなさんに私はとても勇気づけられたし、希望も持てました。

●川崎のハルモニが作った、塩辛い鮭とキムチが原点

――石橋さんは、川崎市川崎区桜本にある『ふれあい館』をはじめ、川崎市内の在日コリアンの取材を長く続けていると思います。川崎とのつながりは、いつから生まれたのですか?

神奈川新聞には1994年に入社して、川崎市には翌1995年4月に赴任しました。そのときは新百合ヶ丘など、北部地域の担当でした。でも、あまり北部には行かずに「ふれあい館」ばかりに通っていました。

1996年川崎市職員の一般職採用試験から、国籍条項が撤廃されるのですが、そこに向けて、桜本の人たちが市にいろいろな働きかけをしていました。その取材が最初のきっかけになったんです。

あとは年金制度から排除されたハルモニ(おばあさん)たちに、川崎市は独自に福祉給付金を給付していたのですが、金額をもっと上げてほしいという訴えを起こしていたのも取材していました。

このころはマイノリティの権利獲得運動が盛んでしたから、私は取材をしながら「社会運動と行政がリンクするような形になって、発展していくだろう」と希望を持っていました。

しかし、現在は発展どころか退行しているような状況で、その考えは甘かったことを思い知らされるわけですが。

――石橋さんが子どものころ育った環境の近くに、マイノリティ集住地域はありましたか?

まったくありませんでした。周りには朝鮮学校のことを悪く言う人もいました。神奈川県内の中学に通っていたのですが、「チョン校(朝鮮学校の蔑称)の連中は悪い奴らだ。横浜の某中の誰々が割り箸を鼻に入れられて、酷い目に遭わされた」とか、会ったことも見たこともないのに、そういう話を面白おかしく真に受けていた。そんな中学生でした。

――初めて在日コリアンと向き合ったときのことを教えて下さい。

福祉給付金の問題で、池上町のハルモニ宅にうかがった際、申し訳ないという思いでいっぱいでした。先の戦争で、連れ合いを兵士にさせられて、その後、本当に苦労したうえに無年金にさせられて、孫に小遣いもあげられない、おばあちゃんって呼んでもらえないという話を聞いたけれど、何も知らなかったからです。

それで取材が終わったら「あんた飯食ったか」って、お昼ご飯を御馳走してもらいました。「こんなもんしかないけど」と言いながら、温かい白飯と塩辛い鮭の塩焼きと、真っ赤なキムチお味噌汁を出してくれました。ひよっこの若手記者を迎え入れて、文句ひとつ言わずに言葉を託してくれた。そんなハルモニたちの姿を、僕たちマジョリティは何も知らないままだったと学ばせていただきました。

今でも、あのときの塩っ辛い鮭と真っ赤なキムチの味は、忘れられません。だからこそ、ハルモニたちが土地を不法占拠して、何かを得ているといった根拠のないデマが、本当に許しがたかったんです。

――そこからずっと、川崎担当だったのですか?

というわけでもなくて、川崎は3年間で異動になり、本社の遊軍記者やプロ野球担当、相模原担当など転々としてました。その間も、たとえば2002年に日韓共催ワールドカップのころに韓国出張をして、当時、歴史教科書のことが話題になってたので、記事を書いたりしていました。

しかし、記事を書くことで「差別のない社会」を目指したかったのに、気が付けば歴史修正が進み、差別主義者が街中でヘイトスピーチを叫ぶようになっていました。自分はいったい何をしてきたのだろうと愕然としました。

●両論併記は「リスク回避」のための卑怯な手口でしかない

――ヘイトデモの記事を書くようになったのは、いつごろからですか?

2013年ごろですが、最初は本当にひどいデモだと思いながらも、すぐに記事にできなくて。下手に手を出せば、面倒なことに巻き込まれると、おじけづいて腰が引けてしまった、情けない自分がいました。それが正面から書けるようになったのは、2015年11月にヘイトデモが桜本を襲撃したのがきっかけです。

当時中学1年生だった中根寧生さんが、市民団体の決起集会で涙ながらに「デモをなんとか止めさせてください。ヘイトデモを取り締まるルールがないなら、ルールを作ってください」と勇気を持って発言していました。それを見て「私たち大人は何をやっているんだ、子どもにこんなことを言わせるなんて」と思い、ましてや新聞記者ですから、きちんと報じていかなくてはと目が覚めました。

イノリティの中学生が顔と名前を出して発言しているのに、ヘイトデモ参加者のことを「川崎市の50代男性」と、匿名で報じてきた自分が恥ずかしくなりました。ヘイトスピーチは犯罪ではないからと、客観・中立のような姿勢を取ってきた自分は、一体何を守りたかったのだろうかと思い知らされました。

本当に守るべき人を守るためには、どういう記事を書くべきかという覚悟を与えてもらったのが、この中根さんの言葉でした。

――「新聞なのだから両論併記しろ」とか「片方の主張ばかり取り上げるな」とか、そういう意見もありますよね。

そういうこと言う人は、権力と一体化することを良しとする人だと思います。そんなものに与する必要はないと思いますし、「慎重であらねばならない」とか「ヘイトも表現の自由だ」といった言葉は、責任から逃げるための屁理屈に過ぎないと思っています。

だから「両論併記しろ」というのは、リスク回避のための卑怯な手口でしかないと思っています。過去の自分もそうでしたから、よくわかります。でも、だからこそ「ヘイトスピーチどっちもどっちではないし、その考えは間違っている」と言いたいです。

あともう1つは、「勇気を持って報道して大丈夫です」とも言いたい。実際に裁判を起こされたわけですが、それは私に非があったわけではありません。それに差別をきちんと批判する報道をすれば、市民のみなさんが賛同してくれるし、守ってくれます。

実際に差別主義者が会社に押しかけることもありましたが、支援者のみなさんが駆けつけて、プラカードを掲げて意思表示をしてくれました。会社も全面的に応援してくれたのは、支援してくれたみなさんの存在があったからでしょう。記事を書いて攻撃されることはあります。しかし、「差別を許さない」と報じることで、それを上回る支援者が現れるから大丈夫だと言いたいです。

――これから報道の世界を目指す「若い人たち」にメッセージをお願いします。

今ほどジャーナリズムが必要とされている時代はなく、これからもっともっと必要とされると思います。日本の戦後ジャーナリズムは、戦争に加担した過去から、二度と戦争を起こさせないという反省から始まっています。しかし、差別をなくさなければ、いつしか戦争が繰り返されてしまう。

世界に目を転じると、あちこちで戦争が起きている今こそ、差別を許さない、差別をなくすための報道にとり組む姿勢が求められています。「客観」だとか「中立」だとか言っているうちは、差別に太刀打ちできません。

昨年10月には崔江以子さんへの「帰れ」などの書き込みが、裁判で「ヘイトスピーチ認定」されて、200万円近い損害賠償が命じられました。このようにマイノリティ当事者が血を流しながら社会を前進させてくれていることに報いなければ、私たちマジョリティは、マイノリティの苦しみにただ乗りしているだけでしかありません。

だからこそ、マイノリティの前にメディアとジャーナリズムが立って、責任を果たさないといけない。若いみなさんと一緒に、そのための報道を続けていけたらと思っています。

「差別に抗う人たちに冷たい」 名誉毀損で訴えられた神奈川新聞記者があぶり出す「日本社会」の実態