パリ10区、ストラスブール・サン・ドニ。オペラ座から4駅の中心部にありながら、賑やかな観光客とは無縁の普段着の町に、そのホールはあった。クリエイティブな才能を持つ人たちが、先鋭的なホテルやカフェを次々とオープンしていることで話題の界隈に、2018年にオープンした「ラ・スカラ・パリ」。100年前、ミラノのスカラ座を模して一世を風靡した社交場は今や、将来を期待される若手アーティストたちの発掘の場として生まれ変わっている。

2023年12月11日、角野隼斗がこのラ・スカラ・パリに登場した。前回のショパンコンクールのセミファイナリストとして、そしてYouTubeの新世代アーティスト Cateenとして、フランスでも注目を集める角野。冬のヨーロッパツアー中、唯一のパリ公演ということで、この夜のチケットは早々に完売したという。入り口で配られたフライヤーには「SOLD OUT」の文字とともに、早くも2024年の告知が躍る。

ホールは、演目によって舞台や客席配置を変えられるモジュール型。客席では老若男女が、青いスポットに照らされた2台のピアノ(スタインウェイのグランドとアップライト)を期待の眼差しで見つめていた。

(C) Diane Moyssan

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定刻を過ぎ、ステージに角野が現れる。椅子に腰かけ、深く瞑想するように俯いた彼の両手から溢れ出したのは、ショパンの〈スケルツォ第1番〉。音響のためか、冒頭では乾いてソリッドに感じられた音が、中間部のコレンダのメロディに差しかかり、柔らかく変化していく。異国の冬、故郷ポーランドのクリスマスを思っただろう作曲家の孤独が、その音を通してじわりと胸に広がった。2曲目は、ロマンティックな哀愁に満ちた〈ノクターンop.48-1〉。角野にとっても思い入れの深い楽曲だ。ふたりの音楽家の共鳴が会場を包みこみ、音が消えた瞬間、驚くほどの拍手とブラボーの声が巻き起こった。ショパンが生きた街で、角野のショパンを味わえる幸せを、あらためて噛みしめた瞬間だった。

そのまま、自作の〈3つのノクターン〉が披露された。ショパンとの同化から離れ、自らの未来を模索しているような新しい響き。久石譲やヴィキングル・オラフソン、フランチェスコ・トリスターノなど、角野に影響を与えてきた音楽の断片が見え隠れするようで、そのどれとも違う。くぐもった音で表現された夢のような3曲から一転、続いたのはバッハの〈パルティータ第2番〉。そのクリアな音は、目の覚めるような、という形容詞がふさわしい。軽快なのに優雅で、クラシカルなのにモダンバッハはもはや、角野隼斗の新たな定番と言っていいだろう。

(C) Diane Moyssan

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2023年の全国ツアーで角野が大きく打ち出したバッハは、日本の私たちにはおなじみだが、フランスの聴衆にはとくに新鮮に響いたようだ。休憩時、隣席のフランス人男性から感嘆の声をかけられた。ラ・スカラ・パリで定期的に行われるピアノリサイタルをチェックしているという彼によれば、「今夜はあまり見かけない若い世代も多く、Cateenのファンなのかもしれない」とのこと。過去の音楽を敬愛しつつ、現在の命を吹き込む――角野が目指す自由なクラシックへの志は、この地でも広く浸透しているようだ。

(C) Diane Moyssan

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後半は、そんな若い世代への返礼でもあるかのように、久石譲の2曲からはじまった。まずは、今夏の話題作『君たちはどう生きるか』のメインテーマAsk me why〉。象徴主義や、原点であるミニマル・ミュージックにより近づいた久石の新境地は、なるほど角野のピアニズムにしっくりと馴染んでいる。続く〈「千と千尋の神隠し」組曲〉のエキゾティックなスパイスのあと、スウィングやブギウギリズムに溢れたカプースチン〈8つの演奏会用エチュード Op.40〉で、いよいよその本領が爆発した。はじける角野の音に、高まっていく会場の熱気。中断なく演奏されることを想定した楽曲だが、曲間には当然のように拍手喝采が入り、ピアニストが左手でOKサインを送るチャーミングな一幕もあった。

(C) Diane Moyssan

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そして、プログラムは再びショパンへ。彼の2つの曲に基づいて角野が再作曲した、〈胎動〉と〈追憶〉だ。広い海原に漕ぎ出していくような〈胎動〉の高揚感は言わずともがな、今回はっとさせられたのが〈追憶〉に感じた変化だ。アップライトピアノのくぐもった音を、音響効果によってすぐそばで奏でられているように届け、聴衆を小さな自分だけの部屋に引き込む〈追憶〉。やさしく内省的で、せつないほどの安堵に包まれるこの曲に、この夜初めて「僕はここにいる」という強さを感じたのだ。

それはホールの音響のせいかもしれないし、自分自身がパリという異国にいたせいかもしれない。ここでは誰も空気を読んでくれない。やりたいことは主張するしかない。たった一週間の旅でも刺激を受けるのだから、春からニューヨークで暮らしている角野の音楽が、少なからず変化していくのは当然のように思えた。音楽は、音楽家が生きている限り――あるいは後世の音楽家が演奏し続ける限り、変化し続けるのだ。

(C) Diane Moyssan

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〈追憶〉を弾き終えた角野は、そのままじつに何気なく、なじみのあるメロディを奏ではじめた。一周目が終わり、背後のグランドピアノに右手を伸ばした彼が、2台のピアノで同じメロディが繰り返すと、会場の緊張が一気に高まる。独特のリズムにのせたメロディを、さまざまな楽器とオーケストレーションで繰り返す大曲――ラヴェルの〈ボレロ〉を2台のピアノで再現するという、前代未聞の試みだ。

綿密な譜読みから生まれたのだろう、壮大で美しい編曲。その音楽はオーケストラのすべての楽器を巧みに再現し、膨張し、途中、彼には手が何個あるのかと混乱するほどだった。緊張のピークで迎えたラスト、積み上げた煉瓦が瓦解していくような大迫力のコーダには、思わずぞくりと肌が粟立った。

(C) Diane Moyssan

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その後の熱狂と、スタンディングオベーションは言うまでもない。アンコールの〈きらきら星変奏曲〉やクリスマスの挨拶、そして2024年秋のサル・ガヴォーへの凱旋予告でも会場を沸かせ、角野隼斗はパリでのリサイタルを締めくくった。1年後のチケット入手は、より激戦になることだろう。

日本に戻れば、まもなく2024年の全国ツアーの幕開けだ。今回のヨーロッパツアーで公演ごとにブラッシュアップされていったという新曲〈ボレロ〉も、いよいよ日本の聴衆の前で披露される。一瞬ごとに変化していく音楽の奇跡を、目と耳に焼きつけたい。

(C) Diane Moyssan

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取材・文=高野麻衣

(C) Diane Moyssan