広島県江田島市にある海上自衛隊の学校には、戦前に降ろされた戦艦「陸奥」の砲塔と主砲が教育用として今も残されています。今回、特別な許可を得てこの砲塔の内部に入り、自衛隊員案内のもと取材してきました。

陸(おか)に上がった戦艦砲塔なぜ現存?

瀬戸内海に浮かぶ島の街、広島県江田島市には、日清戦争以前の1888(明治21)年から太平洋戦争終結の1945(昭和20)年まで旧日本海軍の教育訓練機関である海軍兵学校がありました。戦後は海上自衛隊がその施設を受け継いでおり、現在も幹部候補生学校並びに第1術科学校として使用されています。こうして、現在も大切に使われる赤いレンガ造りの学校庁舎や大講堂は、130年以上に渡る江田島の伝統を今に伝えています。

ところで、この海上自衛隊の学校施設から江田島湾を眺めると、短艇(カッターボート)乗り場と左の建物の間に長い煙突の様な物が海に向かって水平に突き出ているのに気付くでしょう。この、大きくて奇妙な構造物、これはかつて戦艦「陸奥」に実際に搭載されていた砲塔です。その存在を知らずに初めて見た人は、「このような陸地になぜ巨大な砲塔が?」と一様に驚きますが、それには事情がありました。

この砲塔を搭載していた戦艦「陸奥」は、長門型戦艦の2番艦として横須賀海軍工廠で建造され、第1次世界大戦の終結から3年後の1921(大正10)年に竣工しました。

全長は224.94mで基準排水量は約3万9000トン、武装は45口径三年式40cm(正確には16インチ/40.6cmのため41cm表記もある)連装砲塔4基や50口径14cm単装砲20門、40口径7.6cm単装高角砲4門、53cm魚雷発射管8門などを装備していました。

当時、40cmクラスの主砲を装備した戦艦は「陸奥」と「長門」含めて世界に7隻しかなく、「世界の七大戦艦」と呼ばれて日本国民の誇りにもなったほど。また当時の最新鋭艦だったことから、一時期は連合艦隊の旗艦にもなりました。

1935(昭和10)年に行われた戦艦「陸奥」の大改装時には、主砲の仰角を上げるために建造中止で余剰となっていた加賀型戦艦2隻分の三年式40cm連装砲塔に載せ換えが行われます。そのとき降ろされた同艦最後部の4番砲塔が、教材として江田島の海軍兵学校に移設されたことで、陸地に戦艦の巨大砲塔が残ることになったのです。

原則非公開の「陸奥」砲塔内部は?

こうして陸に上がった戦艦「陸奥」の旧4番砲塔は、太平洋戦争終了までは実際の戦艦砲塔として機能し海軍兵学校の教育訓練に使用されていましたが、終戦後は日本を占領したアメリカ軍によって、再使用できないよう砲の尾栓が外されて内部も爆破されてしまいます。

それでも最大で300mm以上の厚さがある装甲板を組み合わせて堅牢に作られた砲塔はビクともしなかったとのこと。こうして、撤去されなかったことで現在もその外観をほとんど変えずに、江田島の地に残されたというわけです。

現在、海上自衛隊の第1術科学校が窓口になって敷地内の一般向け見学ツアーが行われています。このツアーなどで学校に入ると、「陸奥」の砲塔も遠目に見ることができますが、近づいて中に入ることなどは不可能です。

しかし、このたび筆者(吉川和篤:軍事ライター/イラストレーター)は取材ということで、海上自衛隊から特別な許可を得て内部に入ることができました。

伝統的な赤レンガの建物を横目に見ながら近付いていくと、まずその巨大さに圧倒されます。ただ、これでも40cm砲の連装型1基だけなので、同砲塔を4基搭載した長門型戦艦はどれだけ大きかったのか、そして世界最大の戦艦であった「大和」の46cm三連装砲塔の巨大さは、いかばかりの物だったのか想像が膨らみます。なお、砲塔の下は砲弾の備蓄と運搬を兼ねた円筒形の構造物であったため、一見すると砲塔タワーのような印象も受けました。

こうして外観をひとしきり見たら、いよいよ一般では立ち入りが禁止されている砲塔内部に足を踏み入れます。まず内部を見学するためには、各人がヘルメットを被り手袋を付けます。砲塔の中は、海上自衛隊の砲雷科隊員の案内に従って安全第一で見せてもらいましたが、否応なく左右の巨大な砲尾や水圧駐退機が目に飛び込んできました。

形状は野砲や戦車砲にも似ていますが、何しろこちらは40cm砲。太平洋戦争時の標準的な大砲である75mm口径と比較すると単純計算でも5.3倍以上となり、ここでもサイズ感の狂った世界が筆者の脳内を駆け巡ります。

砲塔内は、前述したようにアメリカ軍が終戦後に爆破した影響で、砲弾と装薬の装填用の弾薬筐や装填発動機、旋回機などは破壊されており、残骸や歯車などの部品が散らばった状態でした。

目標との距離を計測する測距儀室も破壊されていますが、左右の主砲自体や中央の隔壁および天井以外の砲塔装甲板がしっかりと残っていたのは幸いといえるでしょう。しかし、この状態では貴重な戦争遺構ではあるものの、残念ながら一般公開は無理だろうなと筆者は実感しました。

「陸奥」の最期&歴史を伝える主砲たち

ところで、この江田島の海軍兵学校に4番砲塔を移設した戦艦「陸奥」ですが、その後に悲劇的な最期を迎えます。

太平洋戦争序盤、ミッドウェー作戦や第二次ソロモン海戦などに参加した「陸奥」はその後、内地へと戻りました。その後、広島湾沖の柱島泊地に停泊していた「陸奥」は1943(昭和18)年6月8日の正午過ぎ、後部の3番と4番砲塔付近から突然煙を上げたかと思うと、間もなく大爆発を起こし、船体を真っ二つに折るとあっという間に沈没してしまいました。

この惨事は砲弾の自然発火や人為的な放火など、いくつかの原因が挙げられましたが、その真相はいまだに不明です。ただ、この爆沈では乗員1474名のうち1121名が殉職するという大きな悲劇を起こしました。

なお、戦後、何度かサルベージ(引き揚げ作業)が行われ、1970(昭和45)年に行われた大掛かりなサルベージでは、大改装後に載せ替えられた4番砲塔と共に船体の多くが海中から揚がっています。こうして何回かにわたるサルベージによって、「陸奥」自慢の40cm砲は複数が引き揚げられ、「陸奥」の生まれ故郷である神奈川県横須賀市ヴェルニー公園や長野県東筑摩郡の聖博物館、広島県呉市海事歴史科学館大和ミュージアム)などに展示されるようになったのです。

実は戦没した戦艦「大和」や「武蔵」、アメリカの原爆実験で沈んだ「長門」など太平洋戦争時に連合艦隊に所属した大多数の戦艦の主砲は、船体ごと深い海に沈んでしまい現在では見る事もかないません。そうした中、悲劇的な爆発事故とはいえ、比較的浅い瀬戸内海に沈んだことで「陸奥」は、その主砲を貴重な戦争の語り部として残すことに至ったのは歴史の皮肉と言えるでしょう。

海辺にすっくと立ち、江田島湾を向き続ける「陸奥」の砲塔は歴史的な教材として今後も同地に残されると思いますが、前述の通り内部は一般見学できません。ただ、「陸奥」の巨大さを現代に伝えるのは、何も砲塔だけではないのです。

各地に残る長大な40cm砲は、基本的にいつでも直接、その眼で見ることが可能です。むしろ、それらを間近で見ることでその質量を体感し、そこから戦艦のサイズを想像することは可能です。そのような形で、改めて往時に思いを馳せてみても良いのではないでしょうか。

江田島湾に向かって2本の砲身を突き出した旧4番砲塔。手前は駆逐艦「梨」に搭載され、戦後は護衛艦「わかば」で再使用された92式4連装魚雷発射管(吉川和篤撮影)。