父が亡くなった後、父の入院費用と固定資産税の支払いのために父の預金から150万円をおろした相談者。遺産分割協議では、相談者の妹と弟が父の預金を半分ずつ相続することに決まりましたが、妹の夫から「分け方が不公平だ」と指摘を受け、困っているといいます。本稿では、弁護士・相川泰男氏らによる著書『相続トラブルにみる 遺産分割後にもめないポイント-予防・回避・対応の実務-』(新日本法規出版株式会社)より一部を抜粋し、遺産分割前の預貯金の払い戻しに関する注意点について解説します。

遺産分割前の預貯金の払戻し

父は実家の不動産と預金1,000万円を残して亡くなり、相続人は私、妹、弟の三名です。亡くなった後、父の入院費用と固定資産税の合計150万円を支払うために、父の預金から150万円をおろしてその支払に充てました。

実家の不動産の価格が800万円くらいでしたので、遺産分割協議では私が実家の不動産、妹と弟が預金の残額の各2分の1(=425万円)を相続しました。妹の夫から、引き出された150万円は私が相続したのだからこの分け方は不公平だと言われて困っています。

紛争の予防・回避と解決の道筋

◆遺産分割の対象となる預貯金債権であっても、共同相続人は、①裁判所の判断を経ないで、小口の資金需要に対応するため、預貯金債権の一部を(民909の2)、②家庭裁判所による仮分割の仮処分に基づき預貯金債権の全部または一部を(家事200③)、それぞれ単独で払い戻すことができる

◆民法909条の2による場合は、払戻しをした相続人が遺産の一部分割として取得したとみなされる。一方、仮分割の仮処分による場合は改めて遺産分割をしなければならない

◆相続債務のうち金銭債務は、法律上当然に相続分に応じて分割され、各相続人に分割承継される。相続債務の精算について相続人間で話合いがまとまらない場合には、民事訴訟で解決することとなる

チェックポイント 1. 遺産分割前における預貯金の払戻しが、民法909条の2の規定によるものといえるのかについて確認する 2. 遺産分割前における預貯金の払戻しが、家事事件手続法200条3項の規定によるものといえるのかについて確認する 3. 相続債務の精算について、預貯金債権を引き出した者の意向を確認する

解説

1. 遺産分割前における預貯金の払戻しが、民法909条の2の規定によるものといえるのかについて確認する

(1)遺産分割前の預貯金の払戻し制度の創設

最高裁大法廷平成28年12月19日決定(民集70・8・2121)において、預貯金債権は遺産分割の対象に含まれるとの判断が示されました。これにより、遺産分割までの間は、共同相続人全員の同意を得た上でなければ、預貯金債権を行使することができないこととなりました。

その結果として、相続人に緊急の事情がある場合であっても、遺産分割前は、共同相続人全員の同意を得ることができない限り、預貯金債権を払い戻すことができないなどの不都合が生じていました。

そこで、共同相続人による資金需要を実現すべく、平成30年法律72号による民法改正で、相続財産に属する預貯金債権を行使する必要があるときは、各共同相続人が、単独で、遺産分割前に、裁判所の判断を経ることなく、遺産に含まれる預貯金債権を行使することができる制度が設けられました(民909の2)。

(2)民法909条の2による払戻しの制限

遺産分割前の預貯金債権の行使を無限定に認めると、一部の相続人が相続分を超過した多額の払戻しを受けるなどして、他の相続人の利益が害される結果となるおそれがあります。

そこで、各共同相続人が預貯金債権の払戻しについては、①相続開始の時における預貯金債権の額の3分の1に、②払戻しを求める各相続人の法定相続分を乗じた額を上限とするものと規定されています(民909の2前段)。また、権利行使をすることができる預貯金債権の割合および額については、預貯金債権ごとに判断するものとされています。

例えば、普通預金と定期預金がある場合には、それぞれの債権額の3分の1に法定相続分を乗じた金額が上限となります。さらに、被相続人に多額の預貯金債権がある場合には、上記①および②の制限をもってしても権利行使が可能とされる額が極めて高額なものとなり得ます。

そこで、上記①および②の制限に加えて、同一の金融機関に複数の口座がある場合であっても、一つの金融機関から払戻しを受けることができる額は150万円までとして更なる制限がなされています(民909の2前段、平30・11・21法務令29)。

(3)民法909条の2による払戻しを受けた預貯金債権の取扱い

民法909条の2前段に基づいて預貯金債権の払戻しがなされた場合、権利行使がされた預貯金債権については、その権利行使をした共同相続人が遺産の一部分割により取得したものとみなすこととされています(民909の2後段)。

これにより、仮に、一部の共同相続人が具体的相続分を超過する預貯金を払い戻したとしても、遺産分割の際にその超過部分を精算すべきこととなります。

このような精算義務を課すことにより、預貯金債権全体を遺産分割の対象とすることができ、共同相続人間の公平が確保されることとなります。

(4)民法909条の2と民法906条の2との適用関係

改正民法では、遺産分割前に特定の財産が共同相続人の一人によって処分された場合、遺産分割時に、処分された財産を遺産に含めることについて他の共同相続人の同意さえあれば、これを遺産分割の対象として含めることができるとされています(民906の2)。

この規定は、相続開始後に遺産に属する財産が処分された場合について一般的に適用されるものです。これに対して、民法909条の2後段の規定は、相続開始後に遺産に属する財産が処分された場合のうち、同条前段に基づく権利行使がされた場合について定めたもので、民法906条の2の特則となります。したがって、民法909条の2後段の規定は、民法906条の2の規定に優先して適用されます。

民法909条の2前段に基づく権利行使は、各金融機関において、共同相続人の一部から求められた払戻しが同条前段の規定する制限の範囲内にあるかどうかの判断がなされることが前提とされています。

そのため、被相続人名義のキャッシュカードによりATMから預金が払い戻された場合や、被相続人であると偽って被相続人名義の払戻請求書を作成して払戻しを受けたような場合のように、金融機関において共同相続人の一人から求められた払戻しが民法909条の2の規定に基づくものであるか否かを判断することができないようなケースでは、民法909条の2後段の規定は適用されず、民法906条の2の規定が適用されることとなります。

(5)あてはめ

本事例では、遺産である預金は1,000万円であり、共同相続人は三名です。よって、遺産分割前に共同相続人の一人によって払戻しが認められる預金の上限額は111万円となります(民909の2前段)。

しかし、遺産分割前に150万円の預金が払い戻されています。遺産分割前に、他の共同相続人の同意なく、権利行使可能な範囲を逸脱した預金が払い戻されていることからすれば、本件における預金の払戻しは、民法909条の2後段の規定に基づくものか否かについて、金融機関による判断はなされていなかったものと考えられます。

よって、本事例における遺産分割前の預金の払戻しについては、民法909条の2後段の規定ではなく、民法906条の2の規定に則って精算されます。そのため、遺産分割前に払い戻された150万円については、遺産分割の際に遺産に含めることについて他の共同相続人の同意がある場合には、あらためて遺産分割の対象として含めることができます。

2. 遺産分割前における預貯金の払戻しが、家事事件手続法200条3項の規定によるものといえるのかについて確認する

(1)預貯金債権についての仮分割の仮処分について

民法909条の2に基づく預貯金の払戻しは、相続人が金融機関に払戻請求を行うことができる反面、払戻しが認められる金額には上限があります。

平成30年法律72号による改正の前においても、審判前の保全処分として仮分割の仮処分の申立てを行うことができるとされていました(家事200②)。しかし、この仮処分の申立てにおいては、遺産分割の対象となる財産を遺産分割前に行使する必要があることに加えて、事件の関係人の急迫の危険を防止するため必要があるときとの厳格な要件が課されています。

仮分割の仮処分について申立てを行う相続人は、このような要件を疎明する必要があり、このことが重い負担となっていたため、従前の仮分割の仮処分において、預貯金の柔軟な払戻しは必ずしも実現されていませんでした。

そこで、預貯金債権に限り、仮分割の仮処分を認める要件を緩和し、①遺産分割の審判または調停が係属していること、②相続人により申立てがあることのほか、③相続人において遺産に属する預貯金債権を行使する必要性があり、かつ、④これにより他の共同相続人の利益を害しないと認められる場合には、預貯金債権について仮分割の仮処分を認めることとしました(家事200③)。

(2)仮分割の仮処分により払い戻された預貯金の取扱い

本来であれば、遺産分割前に相続財産から逸出した財産については遺産分割の対象となりません。しかし、家事事件手続法200条3項の規定による預貯金債権の仮分割の仮処分は、保全処分の一種に過ぎません。そのため、仮分割の仮処分と本案である遺産分割審判等との関係は、通常の民事事件における保全処分と本案との関係と同じく、仮分割の仮処分において認められた内容は、本案においては考慮すべきではないとされています。

よって、仮分割された預貯金債権を含めた上で、本案において改めて遺産分割の調停または審判がなされることとなります。

(3)本事例についての検討

遺産分割前に引き出された預金150万円は、民法909条の2で認められる上限額を超えるものです。よって、150万円の払戻しを適法なものとするためには、仮分割の仮処分として認められたものである必要があります。

もっとも、家事事件手続法200条3項の規定による払戻しは、相続人により家庭裁判所に対して仮分割の仮処分が申し立てられ、家庭裁判所により申立てが認められた場合に限られます。

本事例では、そのような事情はないため、本事例における遺産分割前の預貯金債権の払戻しは、家事事件手続法200条3項の規定による預金債権の払戻しとはいえません。

3. 相続債務の精算について、預貯金債権を引き出した者の意向を確認する

(1)債務の相続

相続開始時に未払いとなっている医療費、光熱費等の公共料金固定資産税等の税金、家のローンなどの債務は、相続により相続人に承継されます。このような相続債務のうち金銭債務のような可分債務については、法律上当然に分割され、各相続人がその相続分に応じて承継するものとされています(最判昭34・6・19民集13・6・757)。よって、相続債務については、遺産分割の対象とはなりません。

もっとも、相続人間において、相続債務を遺産分割の対象として取り決めを行うことは可能です。ただし、債権者の承諾がない限り、相続人間における合意の内容を債権者に主張することはできません。

なお、民法909条の2、あるいは家事事件手続法200条3項の規定により遺産分割前に預貯金の払戻しがなされて相続債務が弁済されたとしても、いずれの規定においても相続債務の精算について特段の定めはありません。そのため、民法909条の2、あるいは家事事件手続法200条3項の規定に基づいて適法に遺産分割前に預貯金の払戻しがなされたとしても、これにより弁済がなされた相続債務の精算については、相続人間において別途の協議が必要となります。

(2)本事例についての検討

治療費および固定資産税の合計150万円は、被相続人から相続人に相続される債務です。いずれも金銭債務であるため、相続開始時に、相続分に従って相続人に相続されます。

設問には遺言による指定相続分の記載はありませんので、本事例における各相続人の相続分は、法定相続分である3分の1となります。したがって、相続開始とともに相続人はそれぞれ50万円の債務を承継することとなります。

もっとも、本事例では、相続人である私が相続債務の全てを弁済しています。したがって、弁済をした者は、他の共同相続人である弟と妹に、各50万円の求償権を有することとなります。

このように、本事例では、遺産分割前に払戻しがなされた150万円の預金債権の精算とともに、一人の相続人により弁済がなされた相続債務の精算についても、共同相続人間において協議される必要があります。

もっとも、遺産分割前に払戻しがなされた150万円を相続財産に戻した上で、私が不動産、弟と妹が預金を取得すると仮定すると、弟と妹は各500万円の預金を取得します。このとき、共同相続人が負担する相続債務の額は一人当たり50万円なので、弟と妹の正味の取り分は450万円となります。

しかし、実際の遺産分割協議で弟と妹が取得した金額は425万円です。よって、私から弟と妹に対し、各25万円を支払うことで、150万円を引き出したことによって生じた「不公平」は解消されます。

〈執筆〉 荒木耕太郎(弁護士) 平成25年 弁護士登録(東京弁護士会) 平成227年 東京弁護士会常議員 東京弁護士会業務改革委員会(マンション管理適正部会)委員 東京弁護士会マンション管理法律研究部 台東区建築紛争調停委員

〈編集〉 相川泰男(弁護士) 大畑敦子(弁護士) 横山宗祐(弁護士) 角田智美(弁護士) 山崎岳人(弁護士)