私たちの日常生活と「紙幣」は切っても切れないほど密接に関わっています。ではなぜこれほどまでに紙幣が普及し使われるようになったのでしょうか。本記事では、お金の向こう研究所の代表を務める田内学氏の著書『きみのお金は誰のため:ボスが教えてくれた「お金の謎」と「社会のしくみ」』(東洋経済新報社)から一部抜粋し、紙幣が「使われる」理由について考えてみましょう。
あらすじ
キレイごとが嫌いな中学2年生の佐久間優斗は「年収の高い仕事」に就きたいと考えていた。しかし、下校中に偶然出会った銀行員の久能七海とともに「錬金術師」が住むと噂の大きな屋敷に入ると、そこで不思議な老人「ボス」と対面する。
ボスは大富豪だが、「お金自体には価値がない」「お金で解決できる問題はない」「みんなでお金を貯めても意味がない」と語り、彼の話を聞いて「お金の正体」を理解できた人には、屋敷そのものを譲渡するという。図らずも優斗と七海はその候補者となり、ボスが語る「お金の話」を聞くことに……。
登場人物
優斗……中学2年生の男子。トンカツ屋の次男。キレイごとを言う大人が嫌い。働くのは結局のところ「お金のため」だと思っている。偶然声をかけてきた七海とともにボスの屋敷を訪れた。
七海……アメリカの投資銀行の東京支店で働く優秀な女性。投資で儲ける方法を知るためにボスの屋敷を訪れた。
ボス……「錬金術師が住んでいる」と噂の大きな屋敷に住む初老の男性。関西弁で話す。1億円分の札束を「しょせんは10キロの紙切れ」と言い放つなど、お金に対する独自の理論を持つ大富豪。
どうして僕らは「紙幣」を使っているのか?
あのときのボスの教えが、いまだに優斗の耳に残っていた。
「自分で調べて、自分の言葉で深く考える」
今日、図書館に足を運んだのは、その教えを実践するためだった。
金と交換できなくても価値を感じられる紙幣は画期的な発明だと思う。アステカの時代に紙幣を使っていたら、彼らは侵略から逃れられたかもしれない。500年前の世界に思いを巡らせていると、閉館を告げるチャイムが鳴った。優斗は読み終えた本を返却棚へ戻し、図書館をあとにした。
ふたたび自転車に乗った優斗は、ボスからの問いを思い返していた。七海とボスとの会話には、まだ続きがあった。
雨音の落ち着いてきたボスの部屋で、彼はまず七海をほめ、次いで否定した。
「投資銀行で働くだけあって、七海さんはようわかっとるわ。たしかに、政府や日本銀行が紙幣という紙切れの価値を保証しているかもしれん。せやけど、僕の質問は、どうして使っているかということや」
「価値を感じれば、使うんじゃないですか?」
七海の不服そうな茶色い瞳がボスに向けられた。
「ほんまにそうやろか。たとえば、そのクッキー。発酵バターで作った人気のクッキーや。せやけど、君はまだ一口も食べてへん」
彼女の前に置かれた5枚のクッキーは手つかずのままだった。食べないなら自分が食べたいと優斗は本音で思っていた。
「これ、めちゃくちゃおいしいですよ。食べないともったいないですよ」
すると、七海はおなかをおさえながら言った。
「私、お昼ご飯を食べすぎたのよね」
「そういうことやで」とボスが指摘する。
「価値を感じていても、使うかどうかは本人次第や。おいしくても食べないこともある。クッキーを食べさせることとクッキーの味は別問題や。その証拠に、まずいクッキーでも食べさせる方法が存在するんや」
その方法がわかれば、僕たちが紙幣を使う理由もわかるらしい。そして、紙幣の価値が全体では消えるという謎の答えも。その解答は次回に持ち越された。
はたして、そんな方法が本当に存在するのだろうか。
兄との他愛ない会話から思いついた「答え」
図書館からの帰り道、自転車のペダルをこぎながらずっと考えていた。結局、答えの手がかりすら見つからないまま、自宅のトンカツ屋に着いてしまった。
2階に上がると、兄が畳に寝そべってマンガを読んでいた。優斗は2段ベッドの下の段に腰を下ろす。
「こんな時間に珍しいじゃん。塾、休みなの?」
大学受験を控えた兄はいつも遅くまで塾で勉強をしている。食事のとき以外、ゆっくり話す機会はほとんどない。兄は畳の上にマンガを置くと、大の字になって思いきり手足を伸ばした。
「休憩だよ、休憩。朝からずっと模試受けていたから、すげー消耗してんだよ」
優斗は子犬のように無邪気な目を兄に向けた。
「ねえ、ちょっと聞いていい。まずいクッキーを相手に食べさせる方法ってあると思う?」
首のうしろに手を組んだ兄は、「なんだそれ」と言うと、そのまま腹筋をしながら、器用に話し続けた。
「似たような問題なら聞いたことあるなあ。ペットボトルの水を1万円で売るにはどうしたらいいかって問題」
「そんなことできるの?」
話しながらは、さすがに疲れたのか、兄は腹筋をやめて上半身を起こした。
「いろんな方法があるけど、いちばん簡単なのは、部屋に閉じ込めて暖房をガンガンかけるって答えだよ。そうすれば、水が欲しくなるだろ」
「じゃあ、僕の問題も、おなかがすくまで閉じ込めればいいってことか」
優斗も同じノリでふざけて答えると、兄が人差し指で優斗の顔をズバッと差した。
「それだよ! 絶対それが答えだって!」
まさか、そんなことはないだろう。優斗は苦笑するしかなかった。それでも、久しぶりに兄と他愛ない会話ができたことがうれしかった。
無茶苦茶な方法
あの大雨の日からちょうど1週間後、優斗は七海といっしょにボスの部屋を訪れた。
足取りは重かった。謎を解明してボスの鼻を明かしたかったのだが、結局まともな答えを見つけることができなかったのだ。
部屋に入ると、「よう来てくれた」と笑顔のボスが出迎えてくれた。楕円のテーブルには、すでに3人分の紅茶とパウンドケーキが並べられている。
ボスが棚から取り出したボトルを傾けて、自分のティーカップに茶色い液体をほんの少し注ぐ。甘く焦げたような匂いが優斗の鼻をくすぐった。
「この前も入れていましたけど、その茶色いのって何なんですか?」
「これはブランデーという洋酒や。紅茶には、これがごっつい合うんや」
ボスはティーカップを鼻に近づけて、ゆっくりと香りを吸い込んだ。
「さて、この前の続きといこか。どうしたら、クッキーを七海さんに食べさせられるかという話やった。なんか思いついたやろか」
「これって、答えあるんですか? 無茶苦茶な方法しか思いつかなくて……」
「ほお。無茶苦茶な方法か。それはぜひ聞きたいな」
「きっと、間違っていると思うんですけど、」
恥をかかないように前置きをしたあとで、優斗は自分の思う答えを口にした。
「七海さんをここに閉じ込めて、おなかをすかせれば食べるかなって思って……」
1873年を皮切りに「紙幣」が流通し始めたワケ
「ちょっと、ひどくない?」
七海の冷たい視線を、優斗が笑ってかわしていると、ボスが悔しそうな声を出した。
「あてられてしもうたな」
彼はポケットから取り出した鍵を2人に突き出した。そして、「ガチャッ」と言って手首をひねる。
「これで部屋に閉じ込めて、半日も待てばええわ。まずいクッキーでも食べるやろ」
優斗は、口を半開きにしたまま固まった。まさか自分が出した答えが正解だなんて思ってもみなかった。
一方の七海は、「それはそうですけど……」と憮然としている。
「税金」と「紙幣の普及」
ボスが笑いながら話を続けた。
「まあ、そんな顔せんでいい。あくまでたとえ話や。僕らが紙幣を使うようになったのも、おなかをすかせたからなんや」
「おなかがすくって、どういうことですか?」
優斗の問いかけに、ボスが身を乗り出す。
「おかしいと思わへんか」
そう言うと、彼は真相を語り始めた。
「江戸時代、ずっと銅銭や小判を使ってきたのに、明治になって急に一円札やら十円札やらが流通したんやで。円の紙幣が国立銀行によって初めて発行されたのは1873年。この年に何があったか知っているやろか?」
「1873年は、徴兵令と地租改正でしょ」
ちょうど期末テストの勉強をしていた優斗には朝飯前だった。
「すごいね。よく覚えているわね」
七海にほめられて、優斗も悪い気はしない。
「歴史は得意なんです。といっても、年号だけなんですけどね」
ボスもうれしそうにうなずいた。
「よう知っとるな。その地租改正で、税は米やなくて、紙幣で納めることになったんや。そのためには、もちろん紙幣が必要やろ。みんなが紙幣に対して、おなかをすかした。それでいっきに普及したんや」
「たったそれだけのことで?」
優斗には、にわかに信じられなかった。
「学校とは違うんや。『あかん、宿題忘れてもうた』ではすまされへん。税金を払わんかったら、警察につかまって土地を没収されるんやで。必死になって紙幣を手に入れるしかないねん」
「ですけど、税金が理由で紙幣を欲しがるのなら、紙幣が金と交換できる必要はありませんよね」
七海の冷静な眼差しがボスに向けられる。
「金と交換できたのは、補助輪みたいなもんやな。いきなり紙幣を使えと言われても混乱するやろ。実際に新制度についていけずに土地を失った農家も多い。はじめは、金と交換できるという安心の補助輪が必要やねん。本体の車輪は税金を集めることなんや」
ボスの説明に、「なるほど」と七海が小さくうなずいた。
「仮想通貨が普及しないのも、きっとそれが理由ですね。多くの人が価値を信じていても、おなかをすかせていないから、普及しないんですね。ようやく話がつながりました」
「そやな。もしもこれから、仮想通貨でないと税金を納められないとなったら、みんなこぞって仮想通貨を欲しがるやろな」
ボスの話を聞くうちに、優斗にもお金の正体が少しずつ見えてきた。
「今の説明はわかりましたよ。まだ、なんとなくですけど。でも、全体だと価値がないってのが、よくわかんないです」
「ほな、実際にお金を作ってみたらええわ」
クッキーでも作るかのように、ボスは軽く提案した。そして、「材料を取ってくるわ」と言うと、小走りで部屋から出ていった。
彼のいなくなった部屋には静寂が広がった。
田内 学
お金の向こう研究所
代表
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