さんの『かたばみ』が第10回山中賞を受賞しました!

【山中賞とは】
高知市の「TSUTAYA店」の書店員であり、フリーペーパー「なかましんぶん」の編集長を務める山中由貴さんが、お客様に「どうしても読んで欲しい」と思った本の中(翻訳書も含め、ジャンルは問わず)から独自に選出する「山中賞」。年に2回、芥川賞直木賞りひと足早く発表され、受賞によって販売数が10倍になった書籍も!

本作は太平洋戦争中から戦後にかけての日本を舞台に、血の繫がらない親子が向き合い、生きていく様を描いた笑いと涙のホームドラマです。新聞連載時から大きな反響を呼び、数多くの感想が寄せられました。
この度、山中賞の受賞を記念して試し読みを公開! 全5回の連載形式で毎日配信します。気になる物語の冒頭をお楽しみください!

第10回山中賞受賞記念
直木賞作家・木内昇が描く笑いと涙の家族小説
『かたばみ』試し読み#03

 国民学校の代用教員として初登校の日、悌子はれたまぶたに、冷やしいを載っけて階下に降りた。
「あれ、どうしたの? どっかにぶつけた?」
 店のほうから、の威勢のいい声が飛んできた。この家の家主であり、木村店店主でもある朝子は、大雑把なようでいて、細かなことによく気付く。
「いえ。昨夜、緊張してよく眠れなくて。目もすっかり充血してしまいました……」
 手拭いを取って見せると、朝子はかれたように笑った。
「ほんとだ。見事に真っ赤だね。それじゃ、子供らが腰抜かすよ、先生」
 気はいいのだが、彼女は遠慮を知らない。これに追い打ちを掛けたのが、朝子のにあたるケイである。
「こりゃー、腐ったの目と一緒だね」
 朝食のについていた彼女は、ご丁寧にも筋張った首を伸ばしてこちらを見やり、を放ったのだ。この婆さんは、どこでどんな目に遭ってきたらこのようにひねくれるのか、と怪しまずにはおられぬほど口が悪い。
 赴任先が西東京町の国民学校に決まると、悌子は専門学校の寮を出て、学校近くで下宿を探した。折良く、中央本線武蔵駅から武蔵小金井駅方面へ二十分ほど歩いたところ、に建つ惣菜店の二階が貸しに出されていると聞き、早速、東の角部屋に手付けを打った。駅から遠いし、あたりはほとんどが農家で、商店も数えるほどしかないのは不便だったが、通勤時間は十分もかからなかったし、山の手の家賃相場の半分ほどで済むことも決め手となった。
 二階には三部屋あって、はまだ悌子だけである。四畳半の部屋には南と東に掛け窓があって明るく、の押し入れもついている。廊下には流しがえられ、コンロも置かれているから簡単な調理もできる。は銭湯、便所は一階の大家の住まいにあるものを共同で使うのだが、今のところ不便を感じたことはない。
 惣菜店を営む朝子は生まれも育ちも下町で、以前は亭主と一緒にで小さな食堂を営んでいたらしい。それが今年に入って、戦況悪化のため近くの遊園地や映画館が取り壊されるに至り、売り上げががっくり落ちてしまった。さらには亭主が兵隊にとられ、これを潮に思い切って下町を離れ、この郊外の店舗付き古家に移ってきたという。
「年寄りと小さい子がいるからさ、ちょっとした疎開ってつもりもあってね。それに、あたしもこんなだし」
 悌子が内見に来た日、朝子は少し張り出してきた腹を指して笑っていたのだ。彼女のもんぺ穿きの脚にしがみついて、二歳になるという女の子が、興味津々といった様子で悌子を見上げていた。
 一階の半分、十坪ほどが惣菜店、もう半分が朝子たちの住まいだ。食糧難が続いてはいるが、小金井は農家が多く、野菜だけは苦労なくえる。店先には、ごぼうきんぴらだの竹の子の土佐煮だのの酢じめだの、多彩な料理が煌めいていた。
「ここんとこ、や砂糖が手に入らなくなってきたから、この商売もいつまで続くか……。代用醬油じゃ味も決まらないしね」
 朝子は時折不安も漏らすが、その口調は不思議とどこまでも明るい。
 食堂をよして惣菜店に切り替えたのは、外食券制度が導入されたせいだった。この券を集めて米を買いに行けた頃まではよかったが、昨今その米が日に日に減っていく。
「玄米の配給じゃ米をくのも手間がかかるし、最近じゃ入りのお米も珍しくないでしょ。あれじゃ、定食なんてできないもの。それに、お義母さんとふたりきりじゃ、食堂の客をさばくのもひと苦労だしね」
 姑のケイは、腰こそいくらか曲がっているが、数え七十とは思えないほど動きが機敏だ。小柄でせており、歩くときに両肘を横に突き出す癖があるせいか、店の中を彼女が素早く移動する様は、どこか昆虫を彿とさせた。顔には縦横無尽にシワが走っており、目は細いものの眼光は鋭い。
 この日も、まぶたを冷やす悌子をんで、
あんた、そんな図体のくせに、気が弱いと見えるね」
 ケイはよろしく告げたのだった。悔しいが的を射ている。ここ一番というところでいつも緊張して力が発揮できないのは、幼い頃からだ。ただ、長い競技生活のおかげで、昨今は勝負どころで持ちこたえられるようになっていたのに、教員というはじめて挑む仕事を前に体がひどくこわばっている。
「そんなこっちゃ、南方におられる兵隊さんに申し訳が立たないよ」
 ひとり息子を兵隊にとられたからか、ケイは二言目にはこの台詞を持ち出すのだ。
まことあいすみません」
 しおしおとびて、を左肩に掛けた。右肩はけっして重い荷物を背負わないというのが、槍投げをはじめてからの習慣になっている。
「ご飯は? なにか食べていく?」
 朝子が店から声を投げた。
 米穀通帳を示して手に入る配給米は、大人ひとりにつき一日二合三勺。悌子もこれでやりくりしている。ただ、おかずをひとり分作るようだと高くつくから、近頃はごはんだけ持ち込んで、店の惣菜を月極料金で分けてもらっていた。料理が不得手の悌子には、これが大いに助かった。
「すみません。今日はあまり時間の余裕がなくて。お腹もいていないので」
 作りたての惣菜をてきぱきと並べている朝子に向かって詫びると、
あんた、すぐに謝る癖はよくないよ。そんな弱気でいちゃあ、アメ公にゃあ勝てないんだから」
 ズズッとをすする隙間から、ケイが鋭く言った。

 国鉄武蔵境給電区を左に見て、お稲荷さんの前を左、そこから用水を越えると、小金井中央国民学校が見えてくる。
 武蔵境駅周辺は、飛行機の武蔵野製作所が近いこともあって、工場に続く引込線が走っていたり、高射砲陣地があったりと、どこかものものしい景色だが、このあたりは畑と雑木林が広がるばかりで至ってのどかな風景だった。ことにひと月ほど前、〈撃ちてし止まむ〉と大きく決戦標語の書かれた百畳敷の兵士の写真パネルが壁一面に貼られたに身震いしたばかりの悌子には、この穏やかさはなおさら際だって感じられた。
 校門前には上級生らしき生徒がふたり、木銃を手に立っており、登校してくる生徒たちにをしている。悌子の姿を見つけた彼らは「誰だろう?」と言わんばかりの戸惑った顔を見合わせはしたが、をして一礼してくれた。
 広々とした校庭では、桜が満開である。悌子は立ち止まり、目線を上げて、大きく息を吸う。清らかな青空とやわらかな薄紅色に視界が覆われると、自然と力が湧いてきた。
「全力で楽しむべし」
 競技に入る前にいつも胸の内で唱えていた言葉を、念じるようにつぶやいて、くすんだ緑色に塗られた木造校舎へと力強く一歩踏み出した。

(つづく)

作品紹介

かたばみ(KADOKAWA刊)
著者:木内 昇
発売日:2023年08月04日

「家族に挫折したら、どうすればいいんですか?」
太平洋戦争直前、故郷の岐阜から上京し、日本女子体育専門学校で槍投げ選手として活躍していた山岡悌子は、肩を壊したのをきっかけに引退し、国民学校の代用教員となった。西東京小金井で教師生活を始めた悌子は、幼馴染み早稲田大学野球部のエース神代清一と結婚するつもりでいたが、恋に破れ、下宿先の家族に見守られながら生徒と向き合っていく。やがて、女性の生き方もままならない戦後の混乱と高度成長期の中、よんどころない事情で家族を持った悌子の行く末は……。

詳細ページ:https://www.kadokawa.co.jp/product/322110000639/
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本記事は「カドブン」から転載しております

「全力で楽しむべし」代用教員としての初登校日【『かたばみ』試し読み#03】