国内最大級の戦争遺構である茨城県の鹿島海軍航空隊跡が、2023年7月より週末限定で一般公開されるようになりました。かつて水上機の訓練基地であったこの場所を訪れてみたら、敷地の中に飛行シミュレーター装置の跡を見つけました。

ようやく公開された鹿島海軍航空隊跡

茨城県東部の美浦村にある国内でも最大級の戦争遺構「鹿島海軍航空隊跡」の一般公開が、2023年7月より始まりました。ここは国内2番目の大きさを誇る淡水湖、霞ヶ浦の南側湖畔にあたり、太平洋戦争中は水上機の実習訓練施設である海軍航空隊の基地が広がっていた場所です。

1945(昭和20)年8月の終戦後は、一部施設が東京医科歯科大学の付属病院分院としても使われましたが、1997(平成9)年に閉院となりその後は放置されました。

それから20年近く経った2016(平成28)年に、美浦村が国からの払い下げによって4.3ヘクタールの土地を取得すると、ここを史跡公園として整備することを決定。鹿島海軍航空隊跡を含む大山湖畔公園としてリニューアルすることになったのです。

こうして、同地には海軍航空隊時代に本庁舎として使われた建物や気缶場(ボイラー室)、発電所、自動車車庫などの遺構が取り壊されることなく残ることとなり、記念の石碑や慰霊祭用の国旗掲揚のポールも設置されています。

しかし海軍航空隊跡として一般公開するまで、一筋縄では行きませんでした。

実は美浦村は当初、戦争遺構を取り壊して、この広い土地をフットボール場のある公園施設にする考えでした。しかし、同じ茨城県の笠間市にある戦跡「筑波海軍航空隊記念館」の金澤大介館長は、こうした貴重な遺構を映画やドラマ撮影のロケ地として活用すれば保全できるのでは、と考えました。この筑波海軍航空隊跡も映画『永遠の0』のロケ地として使われたことがキッカケで、同県のロケ地管理を行う「いばらきフィルムコミッション」や金澤氏らの尽力により記念館として残された経緯があります。

こうした金澤館長たちの熱意が美浦村にも伝わったことで、遺構は残され、映画『映像研には手を出すな!』や『ゴジラ-1.0』(マイナスワン)などの撮影に用いられ、そのロケ地として知られるまでになりました。加えて、クラウドファンディングも行われ、1000万円近くが集まり建物の清掃や遊歩道の整備が進められた結果、一般公開に繋がったのです。

滑走路がない海軍航空基地って?

霞ヶ浦の南側に位置した鹿島海軍航空隊基地(当時)では、かつて水上機の操縦訓練が実施されており、太平洋戦争の末期には特攻隊員の養成まで行われていました。

今も残る同基地の施設配置図を見ると、水上機の訓練基地として使いやすいよう霞ヶ浦に突き出た角地に作られており、逆さL字の形で10個の水上機用の航空機格納庫が、その前には湖に入るための滑走台(スローブ)が設けられています。また、角度が取りやすいよう角地の先端には、水上機の射出機(カタパルト)も設置されていたことが確認できました。

しかし水上機の実習訓練施設であったため、陸海軍の航空基地には通常あった陸上滑走路は施設配置図には見あたりません。これは鹿島海軍航空隊基地の特徴と言えるでしょう。

また航空機格納庫は戦後、全て壊されたため現在は残っていませんが、その前のコンクリート製の滑走台(スローブ)は水上バイクの積み降ろし用として現在も利用されています(現在はインターネットによる事前予約制)。ほかにも、水上機移送用の自動車を収容するために建設された、ふたつの車庫のうちのひとつが今も残されています。

この車庫は、来訪者が最初に訪れる駐車場横にほぼ完全な形で残されており、内部には鹿島海軍航空隊跡の受付事務所や売店、喫茶や軽食販売店、飲食スペースなどが設置されています。

なお、ここも以前から映画やTVドラマのロケ地として活用されており、筆者(吉川和篤:軍事ライター/イラストレーター)が以前に監修したスペシャルドラマ『潜水艦カッペリーニ号の冒険』でも用いられ、捕虜収容所の内部が再現されていました。また『ゴジラ-1.0』では局地戦闘機「震電」の格納庫にもなり、内部も外観も映画に登場しています。

旧海軍も採用! フライトシミュレーター「鳩ぽっぽ」

そうした残された数々の遺構の中にちょっと面白い施設跡を見つけました。それは気缶場(ボイラー室)の手前にあった地上演習場の建物跡に残された複数のコンクリート製円柱です。

実はこれ、旧日本海軍が飛行訓練に使用したフライトトレーナー(シミュレーター)の基部でした。このフライトトレーナーは、1930年代にアメリカから輸入したリンク・トレーナーC-3型だと思われます。

リンク・トレーナーはエドウィン・リンクが1929(昭和4)年に開発して改良を重ねた装置で、パイロットが握る操縦桿の動きに連動してトレーナー本体が上下左右に動くといった、現代のフライトシミュレーターの構造と良く似たものです。さらに操縦席周りに蓋をすれば計器頼りの夜間飛行訓練用にすることも可能でした。

墜落事故の心配がなく、安全にかつ安価で飛行訓練が行えるリンク・トレーナーは、急速に発展する飛行機とそれに伴うパイロットの増加要請に合わせ、アメリカ陸海軍航空隊に相次いで採用されます。そして陸軍用に6271台、海軍用に1045台生産されて、第2次世界大戦中はパイロットの大量養成に一役買いました。

旧日本海軍は先見の明があったようで、いち早くこのリンク・トレーナーを「地上演習機」の名で導入しており、「予科練」の名で知られる海軍飛行予科練習生や少年飛行兵の記録写真などでその使用シーンをいまでも見られます。

ちなみに、その優秀な性能とは裏腹に、少し愛らしい遊園地の乗り物のようなトレーナーの形状から、「鳩ぽっぽ」の愛称でも呼ばれたそうです。

鹿島海軍航空隊跡には、他にも水上機の射出機(カタパルト)跡が岸壁に残されており、実習訓練施設としての往時が偲ばれます。実際に現地を訪ねてみると、筆者も時が止まったような不思議な印象を受けました。

公共交通機関ではたどり着くのが難しい場所ですが、機会があれば是非訪れてみることをお勧めします。この地で戦争に想いを馳せ、平和の尊さを確かめてみるのも良いのではないでしょうか。

射出機に搭載された九五式水上偵察機で零式三座水上偵察機の当時写真も残されている。角地に設置されており、アームは90度以上回転して各方位に射出可能であった(鹿島海軍航空隊跡提供)。