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アーティストの音楽遍歴を紐解くことで、音楽を探求することの面白さや、アーティストの新たな魅力を浮き彫りにするこの企画。今回はシンガーソングライターとして独自の境地を開拓し、現在は新作を制作中という折坂悠太の音楽遍歴に迫った。

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取材・文 / 大石始

ロシアやイランで過ごした少年時代

子供の頃は、けっこう慎重なタイプでした。学校で同級生たちがワーッと騒いでいても、渦の中にはいない感じ。ただ、いじめられることもなくて、やんちゃな子たちから一定の距離を置いていたんだと思います。ドッジボールとか集団でやる競技は苦手なんだけど、1人で練習できるものは好きでした。逆上がりとか水泳、スキーやスノボとか。生まれたのは鳥取です。母の里帰り出産みたいな感じで、わりとすぐに千葉の柏に移りました。最初の記憶は、なんだろう……幼稚園の頃、演劇の発表会に出たことは覚えています。母によると、先生から「悠太くんはおとなしい子だと思っていたけど、こういう発表会になるといきいきしてくるんだね」と言われたみたいで。人前に立つこと自体好きだったんでしょうね。

小学校に入ってからの3年間はロシアモスクワで育ちました。日本人学校に通っていたんですけど、日本にいたときよりも仲のいい友達ができて。クラスの中心にいるような子ではなく、マンガとかが好きな文化系の友達。僕は高橋留美子さんの作品、特に「らんま1/2」とか「犬夜叉」が好きでした。初めて買ったCDはDA PUMPの「Joyful」。リリースが1999年なので、ロシアから帰ってきた頃だと思います。いい曲だなと思って、短冊CDを叔母に買ってもらったんですよ。今でもいい曲だと思いますね。

ロシアから帰ってきて不登校になって、外に出られない時期が1年くらいあったんです。あの頃、夕方になると母が私と姉を車に乗せてTSUTAYAによく連れて行ってくれました。当時触れたJ-POPは、けっこう覚えてますね。宇多田ヒカルさんがデビューしたり、J-POPが芳醇な時期だったんです。姉がちょうど音楽を聴き始めた頃で、当時流行っていた浜崎あゆみさんとかの曲をカセットやMDに入れていたので、それを聴かせてもらっていました。

中学時代はイランに2年間いたんですけど、その頃にはもう自分で選んで音楽を聴くようになっていました。当時好きだったのはアヴリル・ラヴィーンRIP SLYME。日本に一時帰国したときにCDを買ったり、あとは近くの国に旅行に行ったりしたときに買っていました。ドバイのヴァージン・レコードでレニー・クラヴィッツのCDを買ったのを覚えています。母はジャニスイアンとか70年代のシンガーソングライターが好きだったので、私も中学時代はそういう音楽を聴いていました。絵を描くのも好きで、イラン国内を旅行したときに見たものを描いたりしていましたね。

10代中盤で出会った向井秀徳の影響

15歳ぐらいからは少し背伸びする気持ちが出てきたんでしょうね。昔の音楽に惹かれる気持ちが芽生えてきて。鳥取の叔母が熱心に洋楽を聴いていたので、The JamとかThe Clashを教えてもらいました。The Jamは後期が好きで、「That's Entertainment」が入っているベスト盤をよく聴いていました。初期のアルバム「In The City」も好きでしたけど。あと、叔父がボブ・マーリーのようなレゲエやスカが好きで、The Specialsあたりを教えてもらいました。母はQueenが大好きだったので、その影響で私もよく聴いていました。

高校に行き始めても、なかなか周りの人たちと、うまくしゃべることができなくて。ちょうどその頃、映画「真夜中の弥次さん喜多さん」(2005年)を観たんです。音楽がめちゃくちゃカッコよくて、「これは誰なんだろう?」と調べて行き着いたのがZAZEN BOYS。「これだ!」という感覚があって、熱心に聴きました。「CRAZY DAYS CRAZY FEELING」のミュージックビデオで初めて向井秀徳さんのビジュアルを見たんですけど、当時の向井さんは丸坊主で、その頃の私には本物のお坊さんみたいに見えたんです(笑)。

イランにいた頃から海外の文化はすごく素敵だなと思っていたし、憧れもあったんですけど、「これは自分の身に合うものじゃない」という感覚がどこかにあって。イランにいた頃、姉とも「あの服は素敵だけど、自分たちには似合わないよね。じゃあ何を着ればいいんだろう?」という話をよくしていました。そういうことが海外で生活しているときの大きな課題というか、クエスチョンとしてありました。外国の音楽を聴き始めたときも、「同じことをやっても何か違うんだよな」と感じていて。自分には自分のネイティブな感覚がどこかにあるはずだと思っていました。だからこそ、向井さんの音楽を聴いて「こういう合体のさせ方もあるのか」とビビッときたんでしょうね。自分の出自に由来するものと外国から入ってきた音楽を合体させる感覚は、のちの自分にとってのモデルになったと思うし、向井さんからの影響は今の自分にもすごくあると思います。NUMBER GIRLも好きでしたし。

あと、地元の「柏まつり」でねぶたに触れた影響も大きいと思います。高校に行かなくなって、その代わりに行き始めたフリースクールで「柏まつり」のねぶたに参加することになって。絵を描くのが得意だったので、ねぶたの美術部門をやることになったんです。「柏まつり」で祭囃子の人たちと一緒に練り歩く機会があったんですけど、目立ちたがり根性みたいな部分もあって、気持ちよかったんですよね。祭囃子を聴いていると何かがみなぎってくる感じがありました。

初めて組んだバンドでRCサクセションをコピー

18歳の頃にドラムを叩くようになって、友人たちとバンドを始めました。フリースクールにドラムがあるのは知っていたんですけど、ある日、「できるんじゃね?」とふざけて叩いてみたら、意外と叩けたんですよ。ギターを弾けるスタッフもいたし、そこから音楽を演奏するのが楽しくなってきて。そのバンドではRCサクセションコピーしていました。演奏していた曲は「わかってもらえるさ」と「君が僕を知ってる」。たぶん私が選曲したんじゃないかな。女性の友達が歌っていたので、声のイメージにあわせたり、皆で一緒に歌える曲がいいと思ったのかもしれないですね。

その頃からライブにも少しずつ行くようになりました。最初に行ったライブは、おそらくJetの日本武道館公演。当時はArctic Monkeysも好きで、ドラムコピーしていました。オリジナル曲を書き始めたのもその頃。最初に書いたのはふざけた感じの曲でしたね。それこそThe Jamの「In The City」みたいなパンクぽい曲調で。ギターを初めて弾いたのはイランにいたときです。ジョン・レノンが大好きな担任の先生にギターを貸してもらって弾いたのが最初。そこからしばらく空いて、バンドを始めた頃に改めてギターを弾くようになりました。歌い始めたのは20歳の頃。ドラムを叩いていたのとは別のバンドをやり始めて、そこで歌い始めました。当時演奏していたのはNUMBER GIRLの「IGGY POP FAN CLUB」とか、くるりの「ロックンロール」「ばらの花」。あとはオリジナル曲も少し。その頃は全然喉が開いてなかったし、今とはだいぶ歌い方も違っていたと思います。ただ、がんばって叫んでいくうちにだんだん喉が開いていった。

当時フリースクールに来ていたボランティアの方が面白い人だったんです。エグい感じのジャズが好きな人で、その方にRadioheadの「Kid A」(2000年)を教えてもらったんですよ。Radioheadは「Kid A」と「Amnesiac」(2001年)あたりが好きで。特に「Kid A」は大きかった。フリースクールから自宅まで歩いて30分くらいかかるんだけど、ある日、帰宅中に「Kid A」を聴きながら歩いていたら躁状態みたいになってきたんですよ。曲調的には全然そんな感じはないんですけど、爛々としてきて。音楽でそういう状態になるんだなと初めて思ったことは覚えています。家に着いて母親に「すごいよ、お母さん!」と訴えたんですけど、全然わかってもらえなくて(笑)。

あと、フリースクールのボランティアの方が「YOKOHAMA本牧ジャズ祭」に連れていってくれたとき、村上"ポンタ"秀一さんがやっていたPONTA BOXが出ていて。ライブって人が多いから緊張するし、それまであまり楽しめた覚えがなかったんですけど、そのときライブで初めて自分の心身が躍動するような感じがあったんです。自分がそれまで聴いていたロックとは別の世界があるんだなと気付かされました。

「SMAP×SMAP」で歌うレディー・ガガの衝撃

今思えば、テレビでレディー・ガガを見たことも重要なポイントだった気もします。自分が作る歌の方向性というか、誰に向けてどういう感じで歌うのか、そのモデルが「SMAP×SMAP」に出たときのレディー・ガガにあったと思います。「Born This Way」(2011年)のプロモーションで来日していて、「You And I」を歌ったんですよ。東日本大震災が起きた年だったんだけど、テレビの前にいる人たちに直接歌いかけているような、まさに音楽で人々をエンパワーメントしている感じがして。こういうポップスの形があるんだなと衝撃を受けました。あのアルバムは今でもすごく好きです。

バンドを始めたものの、続けるのはなかなか大変で。アコースティックギター1本で1人でやってみようかと思ったんですけど、当時Arcade Fireやボン・イヴェールから受けた影響も大きかったです。特にボン・イヴェールの1stアルバム「For Emma, Forever Ago」(2008年)は大きかったですね。Arcade Fireはいわゆる“ロックバンド”というよりも、いろんな楽器を奏でる人たちが集まっている音楽集団のような感じで、バンドスタイルでやるのであれば、自分でもこういうふうにできないかなと考えるようになりました。

24歳のとき、三鷹のライブハウス「おんがくのじかん」で初めて本格的な弾き語りライブをやりました。自分で作った音源を「おんがくのじかん」に送ったら店主の菊地さんが「すごいですね」みたいな感じで返してくれて。それまではライブといっても友達の前でしかやってなかったし、みんな私のことを知っているわけですよね。自分のことをまったく知らない人に音楽だけが先に届くという経験をしたことがなかったんですよ。すごく重要な経験でした。

最近聴いているのはアンビエント

新旧問わずいろんな音楽を聴きますけど、最近は新譜を細かくチェックできてないんですよね。私は自分の好きな傾向の音楽と同じくらい、街で流れているような音楽にも興味があるんですよ。自分とは別のカテゴリーとは全然思っていないというか。それこそ以前であればレディー・ガガもそうだし、NewJeansとか今のK-POPも気になりますね。そういえば先日、新曲をバンドメンバーとやっているとき、「この曲のリズムをNewJeansみたいにしたいんですよ」と言ったら唖然とされました(笑)。

ちなみに最近はアンビエントばかり聴いています。ウィリアム・バシンスキーの作品が好きで。あとはブライアン・イーノとか。職業病的なこともあるのかもしれないけど、言葉やコード、リズムから無意識に意味や意義を読み取ろうとしちゃうところがあるんです。今の自分にはそういうことを考えるのがあまり気持ちのいいことだとは思えなくて。アンビエントを頻繁に聴くようになる前はNewJeansばかり聴いていて、もしかしたら、自分はそこから何かを聴き取ろうとしていたのかもしれません。ちょっと前はジョニ・ミッチェルばかり聴いてました。2000年に出たオーケストラと一緒に作った「Both Sides Now」というアルバムをよく聴いていて。ジョニ・ミッチェルはあんまり通ってなかったんですけど、「こんなによかったんだ」と思って最近聴き漁っています。

尊敬するミュージシャンはbutajiさん、イ・ランさん、青葉市子さん。3人とも以前弾き語りツアーでご一緒したことがあって、尊敬しているし、仲がいい、と私は思ってる人たちです(笑)。同じ課題に取り組んでいる同志という感覚もあります。個々で作品を作っているけれど、広い目で見ると「同じものに手をかけている」っていうイメージ。同志であり、尊敬できる同僚みたいな感じですね。

今、新しいアルバムを作ってるんですよ。自分で言うのもなんですが、すごくいい曲ができました(笑)。ひさびさにみんなで「おー!」となるやつができた感じ。前のアルバムとはだいぶ違う感じになりそうです。ただ、今までの作品を少しずつ内包しているとも思いますね。そのうえで新しい形にはなってるかな。

折坂悠太(オリサカユウタ)

平成元年鳥取県生まれのシンガーソングライター。幼少期をロシアイランで過ごし、帰国後は千葉県に移る。2013年にギターの弾き語りでライブ活動を開始。2014年に自主制作のミニアルバム「あけぼの」を発表する。2015年に「のろしレコード」の立ち上げに参加。2016年には1stアルバム「たむけ」をリリースする。2018年10月に2ndアルバム「平成」を発表。2019年8月にフジテレビ系ドラマ「監察医 朝顔」の主題歌に書き下ろした楽曲「朝顔」を配信リリース。2020年4月にbutajiとの共作曲「トーチ」、同年11月に映画「泣く子はいねぇが」の主題歌「春」を発表。2021年3月に「朝顔」を表題曲としたミニアルバムを発売した。同年10月に3rdアルバム「心理」をリリース。2023年10月、自らの歌詞をまとめた書籍「折坂悠太 (歌)詞集『あなたは私と話した事があるだろうか』」を上梓した。同年12月に、BS-TBSのドラマ「天狗の台所」に主題歌として提供した楽曲「人人」を配信リリース。2024年4月15日の大阪・BIGCATを皮切りに、大阪・福岡・愛知・東京の4都市を回るバンド形式でのツアー「折坂悠太 ツアー2024 あいず」がスタートする。

折坂悠太の音楽履歴書