トラディション
『トラディション』((講談社

 新宿や横浜でキャバクラに勤めたことのある作家の鈴木涼美氏は、エッセイでも小説でも論考でも、夜の繁華街に生きる女性たちの生態を余すところなく描いてきた。新刊小説『トラディション』(講談社)もまた、歓楽街ホストクラブを舞台にした中編だ。主人公は兄を頼ってホストクラブの受付で働くことになった女性の〈私〉で、途中から店の金勘定の担当に変わる。舞台は歌舞伎町……と自動的に思い込んでしまうが、明言はされていない。特定の地名を出すことで読者のイメージが狭まってしまう、と鈴木氏は考えたに違いない。

 ホストに貢ぐ太い客ではなく、受付や金勘定をする女性を主人公に設定したのは、連夜の狂騒をフラットに観察する第三者的な視点が必要だったからだろう。女性客=〈姫〉たちのご乱心を〈私〉は他人事のように冷静に見つめている。華やかな世界の裏方として、やや醒めた視線でこの街の実状を照射する、そんな存在だ。

〈私〉の視点を通して、他の街では非常識でもこの街では常識である慣習の特異さが浮き彫りになる。例えばホストクラブでの売掛。数百万、数千万に及ぶこともある会計をツケにして、のちに女性客が金銭を支払うと約束をする。当然、借金を苦にして姿をくらます客も少なからずいる。

 一方で、店の入り口で万札の入った分厚い封筒だけを置いて、ホストには会わず、席にもつかずに出て行く客もいる。〈私〉の小学校時代からの旧友である祥子もまた、夜の世界に迷い込み、その淀んだ空気にすっかり同化してしまった女性のひとり。彼女の心情の描写も鋭利かつ繊細である。鈴木氏は、先述の特異なならわしに慣れてしまった彼女たちの行状を、観察者=〈私〉を通して微に入り細に入り綴ってゆく。

 また、行間から「匂い」が浮き立って漂ってくるような小説でもある。それも、むせかえるような濃厚で濃密な匂い、あるいは「臭い」だ。〈私〉が働く歓楽街の7階にあるホストクラブの店の入り口には、さまざまな匂いが現れては消える。

彼の顔の辺りはいつも、女のつける化粧品の匂いがする。正確に言えば、男相手に商売する女と女相手に商売する男が表面をこすりつけ合う時にできる、化粧品と煙草と石鹸と体液が混ざったような匂いだ。

湿気のない嬢の長い髪が、ホテルのシャンプーの匂いを辺りにまき散らすので、男の体液がついてしまった箇所だけ急いで洗ってやってきたのだと私は想像する

姫たちの置いていった匂いと、男たちが持ち帰ってきた臭いが焼酎の中に溶けこんだようで、さらに7階から地上に着くまでの間に4回止まり、その都度少しずつ違う匂いが混ざり込むので、私はいつも反射的に息を止める。

 こうした匂いの背景に想像をたくましくすると、〈姫〉の愉しそうな表情や会話がありありと脳裏に浮かんでくる。あまり好きな言葉ではないが、本書を読むと、彼女たちにとってホストクラブは〈姫〉が承認欲求や自己肯定感を手っ取り早く調達できる場所なのだと思う。

 会社や学校や家庭に居場所がなくても、ここに来れば落ち着く。アメリカの社会学者レイ・オルデンバーグは、「サード・プレイス」という言葉を使って、そうした拠り所の必要性を説いている。ストレスフルな社会において、リラックスできる場所を持つことで、責任感などから解放されるのだと彼は言う。まさに〈姫〉たちが憩い、寛ぎ、談笑するホストクラブこそ、サード・プレイスそのものではないか。

 拝金主義的な見方をされることもあるホストクラブだが、いろいろな種類の病み/闇を持つ女性たちにとっては、セーフティーネットとして機能している側面もある。本書を読むとそう実感する。

 ただ、足りないものをお金で補って満足するという行為は、負のループに陥りやすい。一度欠落が埋まったらまた別の欠落が生まれる。より高い金額を払うことで上限のハードルはどんどん上がり、更なる高額を投入せざるをえない。ただ、本書では〈姫〉たちが一方的に搾取されるという描き方はされていない。不思議と悲壮感がないのである。

 むろん、ホストに振り回され、生活が荒れた女性たちは、ホストクラブありきで生活がまわることもある。先述した〈私〉の 幼馴染の祥子もまた、ホストにハマって人生が大きく変わってしまった女性のひとりだ。特に、終盤で祥子が巻き込まれた事故の凄惨さといったら、宇多田ヒカル的に言うなら「BADモード」に他ならない。

 その幕引きは、決して後味が良いとは言えない。だが、酷薄な現実を巧みに切り取りながらも、一流のフィクションに仕立て上げた鈴木氏の手腕には唸らざるを得ない。過去に二度芥川賞候補になった鈴木氏。本作は最終候補に残らなかったが、抜きんでた才能が迸る傑作なのは間違いない。

文=土佐有明

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彼の顔はいつも女のつける化粧品の匂いがする…。ホストクラブを生き場所にする女たちの渇望を描いた小説