F1命のフェラーリの「泥系」ラリーマシン! 288GTO誕生の影にあった308GTBとは

この記事をまとめると

■ミケロットによってラリーカーに仕立てられたフェラーリ308がある

■FIAグループ4ホモロゲーションを取得した308GTBグループ4はターマックにて優勝を果たしたこともあった

■最終的に308GTBグループ4はグループBのホモロゲを取得した308GTBグループBへと進化した

F1の活動資金のためにロードカーを売るフェラーリのビジネス

 エンツォ・フェラーリが、同社のロードカーは「スクーデリアフェラーリの資金源」くらいにしか考えていなかったのは有名な話。となると、ゴリゴリのF1原理主義者たるエンツォにとって、ロードカーのレースは「ありえない」わけで、彼の情熱はすべてF1に注がれたといっても過言ではありません。これが、フェラーリのレース=F1という強固なイメージを形成していて、F1以外のレース活動が「大昔の記念碑」かのように映ってしまうゆえんかもしれません。

泥と砂利にまみれたフェラーリがあった

 そうはいっても、マラネロの経営層や各国のフェラーリディーラーにとって、ロードカーは飯のタネ。ずっと零細企業だったフェラーリはロードカーが売れてくれないと、F1活動どころか会社自体を売らなきゃならないほどひっ迫していたのです。そこで、少しでも宣伝しようとル・マンスポーツカーレースにワークス参戦したものの「V12以外はフェラーリにあらず」なんて命令が下るものですから、わりと面倒だったことも事実かと。

 もっと面倒だったのは、1968年フェラーリを傘下に収めたフィアットの存在だったかもしれません。なにしろ、同社の総帥ジャンニ・アニエリはエンツォ同様にレースの成績にこだわりつつ、市販車の売上げにもかなり口をはさんだのだそうです。時代的には365や512、あるいはV8エンジンを搭載した308なんかも「じゃんじゃん売れ!」だったわけで、経営陣はF1やルマンよりも実質的な売り上げが期待できるラリー参戦を目論んだのでした。

泥と砂利にまみれたフェラーリがあった

 むろん、このアイディアにエンツォがいい顔をするわけがありません。よって、フェラーリのラリーは建前上すべてプライベーターによる参戦だと押し通しました。ですが、水面下ではマラネロの協力どころか、「それってワークスじゃん!」ってほどの体制があったことは言うまでもないでしょう。

 たとえば、308をラリーカーに仕立てた「ミケロット」は、マラネロから技術情報が提供されている唯一のファクトリー。どういうわけかエンツォはミケロットのことを可愛がっていたようで、308ラリーをはじめとしたロードカーのチューン&カスタムを許していたのです。

泥と砂利にまみれたフェラーリがあった

 ちなみに、ミケロットはスーパーカー選手権やスーパーGTにエントリーしたV8レーサー348やF40など)のベースマシンも製作し、場合によってはマラネロに代わって販売マネジメントまで担っていました。

 さて、フェラーリ1975年にパリサロンで308を発表すると、早くも1976年にはFIAのグループ4ホモロゲーションを取得。ラリーシーンではトップカテゴリーに位置していましたが、改造範囲はさして広いものではありませんでした。このレギュレーションにそって、ミケロットが11台のラリーカーを製作したのですが、さすがにしっかり作りこんであります

泥と砂利にまみれたフェラーリがあった

 まず、エンジンルームを拡大し主にチタンを用いたパイプフレームでリヤセクションの補強とメンテナンス性を大幅に向上させました。そして、3リッターのV8DOHC2バルブエンジンは高圧縮化、バルブタイミングの見直しといったチューニングに加え、キャブレターからクーゲルフィッシャーの機械式燃料噴射に変更。その結果、ノーマルの255馬力から、288、ないし330馬力へとパワーアップされています。

泥と砂利にまみれたフェラーリがあった

 308といえば、初期のグラスファイバーボディを思い出す方も少なくないでしょうが、グループ4マシンもすべてグラスファイバーボディを使用しています。勇ましいオーバーフェンダーが追加され、後の288GTOの面影すら漂うもの。また、お気づきのとおり車高がいくらか上げられ、ついでにブレーキの前後バランスも室内から調節可能にされています。

 なお、308グループ4は、ラリーカーといってもターマック(舗装路)に強かったようで、1982年にはツール・ド・フランス、ラリー・デュ・ヴァールといった泥んこの少ないレースで優勝。ドライバーはフランス人のジャンクロードアンドリューで、彼は512BBでル・マンにも出場した経緯もあります。

308ラリーでの知見は288GTOの製作にフィードバックされた!?

 次いで、308はグループBのホモロゲを取得。ただし、黎明期のレギュレーションなので、カスタム内容はグループ4とさして変わるものではありませんでした。4台が製作され、うち3台がクワトロバルボーレ、すなわち4バルブDOHCエンジンが搭載され、残りはグループ4で使った2バルブエンジンが選ばれています。

泥と砂利にまみれたフェラーリがあった

 4バルブエンジンは400馬力までチューンアップされたものの、ミケロットによれば信頼性を確保したかったとのことで、実際の最高出力は310馬力とファインチューンにとどまりました。

泥と砂利にまみれたフェラーリがあった

 一方で、サスペンションは大幅なカスタムが施され、グループ4よりも大きく太いタイヤ&ホイールが装着され、ターマックでの速さ、コントロール性能がより高まりました。

 また、グループBといえば、魔改造なみのボディワークがお馴染みですが、1982/83年のルールはそこまで至っておらず、しかもホモロゲはスチールボディに与えられていたために、グループ4マシンと同様のオーバーフェンダーくらいしかアイキャッチはありません。なお、1984年モンツァラリーでは、リヤウイングを装着して、名手ワルデガルドが3位に食い込む好成績を残しています。

泥と砂利にまみれたフェラーリがあった

 また、ミケロットはどんどん変更され、過激になっていくグループBのレギュレーションに応えるべく、308GTMというレーシングカーも3台だけ製作しました。車名のMはミケロットの頭文字ですが、残念ながらマラネロ本体がグループBに本腰を入れ始めてしまったために、さほど活躍の場は与えられなく姿を消しています。

 もっとも、V8エンジンを縦置きにして前後オーバーハングを切り詰めたスタイルや、カーボンボディの採用による640kgという驚異的な車重など、後のグループBマシン288GTOに多大なる影響を与えたことは言うまでもないでしょう。

 仮にグループBラリーが本格化していれば、308ラリーの子孫だった288GTOが活躍していたことは確かであって、いまよりもずっとラリーシーンでフェラーリの姿を見られたことでしょう。

泥と砂利にまみれたフェラーリがあった

 それを、エンツォが草葉の陰で見ていたとしたら、はたしてどんな顔をしていたのか、想像するだけでニヤニヤしてしまいます。

泥と砂利にまみれたフェラーリがあった

泥と砂利にまみれたフェラーリがあった

泥と砂利にまみれたフェラーリがあった

泥と砂利にまみれたフェラーリがあった

泥と砂利にまみれたフェラーリがあった

泥と砂利にまみれたフェラーリがあった

F1命のフェラーリの「泥系」ラリーマシン! 288GTO誕生の影にあった308GTBとは