正欲
©2021 朝井リョウ新潮社  ©2023「正欲」製作委員会

 朝井リョウの第34回柴田錬三郎賞受賞作『正欲』(新潮社)が、映画『あゝ、荒野』『前科者』の岸善幸監督によって映画化された。稲垣吾郎新垣結衣、磯村勇斗らが出演し、Vaundyが映画主題歌を初めて手掛けたことでも話題を呼んでいる。先頃行われた第36回東京国際映画祭では、最優秀監督賞と観客賞をW受賞した。

 本作は、現代の日本で生きる5人の姿を描いた群像劇。登校拒否になった幼い息子が動画配信にハマっていき困惑する検事、他人と共有できない“欲”を抱えた寝具販売店員、日々に希望を見出せずに「死ぬために生きている」その同級生の人生が、少しずつ交錯していく。そこに生まれるのは救済でもあり、衝突も避けられず――最終的に、ある衝撃的な結末が待ち構えている。「多様性」を謳う社会で、その実情や実態はどうなのだろう? マイノリティとマジョリティの間にある壁や軋轢、溝を切々と訴えかける力作だ。

 これまで多くの映像化が行われてきた朝井リョウの作品群。映画化されたのは、『桐島、部活やめるってよ』(集英社)、『何者」(新潮社)、『チア男子!!』(集英社)、『少女は卒業しない』(集英社)、そして『正欲』の5作。これらに共通して言えるのは、群像劇、あるいは群像劇的な複数の人物にフォーカスした物語であることだ。また、『正欲』以外は学生の物語であり、「桐島~」はバレー部のキャプテンの退部、『何者』は就職活動、「少女~」は卒業といった出来事が、それぞれの胸をさざめかせてゆく――といった物語が展開する。つまり、ある空間やコミュニティ下で共通の“事件”に直面した人々の“反応の違い”を描き出すのが得意な作家であるということ。

 それに対して『正欲』は、「学校内」のように舞台が限定されているわけではない。それぞれの人物が共通の“事件”に遭遇したところから話が始まるわけでもない。しかし群像劇形式ではある。となるとそこに浮かび上がるのは何か。社会や、時代だ。本作で各登場人物に共通しているのは、同じ現代・同じ日本に生きていること。つまり、先に挙げた共通体験としての“事件”が、本作においては社会的な課題や時代の風というものにまで拡大するのだ。そのうえで本作は「多様性」をテーマにしており、そういった意味では過去の映画化作品と比べてより広い層の読者に、リアルタイムに訴えかける物語といえる。

 先に挙げた作品以外でも、短編小説集『どうしても生きてる』(幻冬舎)は個々のエピソードは独立しているが、「生きづらさを抱えた人々」というテーマが通底しており、『正欲』もその発展形とみることができるかもしれない。ただ、『正欲』の特長であり、映画『正欲』のストロングポイントのひとつといえるのは、「この世界・社会に馴染めない人“だけ”」を描いていないということだ。

正欲
©2021 朝井リョウ新潮社  ©2023「正欲」製作委員会

 映画『正欲』では、稲垣吾郎が演じる検事・啓喜を「主人公」と定義している。彼は厳格な検事であり、社会や己が定めた“ルール”にはみ出す人物を糾弾する人物だ。自分の中に堅牢な「普通」を定めており、それ以外の人々を「異常」「特殊」と断定して生きてきた。そんな彼は、息子が登校拒否→動画配信者になることをどうしても認められない。自分の理想とはかけ離れたニュータイプの生き方だからだ。息子をマジョリティ的なレールに「矯正」しようとするが、家族との関係にどんどん亀裂が入っていき――。稲垣吾郎の見事な熱演も相まって、啓喜が変容する社会の異分子となっていくさまには哀愁すら漂っている。

 これは高瀬隼子の『おいしいごはんが食べられますように』(講談社)や年森瑛の『N/A』(文藝春秋)といった小説にもみられる特徴だが、個々人のありのまま=多様性を重視する社会で我々が排斥されていくのではないか?といったマジョリティ側の不安や不満までも描き出し、マイノリティの孤独や生きづらさ、苦しみもしっかりと見つめ、啓喜と他の登場人物との断絶や無理解といったディスコミュニケーションを提示することで、現代日本社会の歪さを丸ごと顕現させている。しかも、先に述べたように「主人公」は啓喜、つまり自分の尺度にハマらない他者を受け入れられない人物の代表というのが、なんともエグい。

 誤解を恐れずに言えば、『正欲』は観客を一定方向の感情に導く「感動作」ではない。鋭く現代の私たちの心をえぐり、自分たちが裡(うち)に抱える価値観や他者への想い――欲をあぶり出す映画なのだ。

©2021 朝井リョウ新潮社  ©2023「正欲」製作委員会
文=SYO

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朝井リョウ原作の、現代社会の歪さを見せつける群像劇。現代人の持つ“欲”をあぶりだす『正欲』の見どころとは