星野仙一
星野仙一

【連載④・松岡功祐80歳の野球バカ一代記】

九州学院から明治大学へ入学。そしてかの有名な島岡吉郎監督の薫陶を受け、社会人野球を経てプロ野球の世界へ飛び込んだ。11年間プレーした後はスコアラー、コーチ、スカウトなどを歴任、現在は佼成学園野球部コーチとしてノックバットを握るのが松岡功祐、この連載の主役である。

つねに第一線に立ち続け、"現役"として60年余にわたり日本野球を支え続けてきた「ミスタージャパニーズベースボール」が、日本野球の表から裏まで語り、勝利や栄冠の陰に隠れた真実を掘り下げていく本連載。今回は、ルーキーイヤーに123試合もの出場を果たし、一年目から大活躍できたことの裏話と、あの「大投手」3人から打った全3ホームランを振り返る。

【写真】若き日の江夏豊や堀内恒夫たち

■プロ1年目にレギュラーを獲得

松岡が入団した大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)の監督は、西鉄ライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)を3年連続日本一に導き、魔術師の異名をとった三原脩だった。1960年にも大洋を日本一に導いた名将だ。

その三原の口から、松岡のプロ野球人生を左右する言葉が漏れた。

「打撃練習の時、外国人選手や体の大きな選手はボンボン打球を飛ばすじゃないですか。僕なんか力がないから全然ダメ。ずいぶんと見劣りしたと思います。でも、練習が終わったあとにケージ裏で三原さんにこう言われました。『まっつぁんは実戦向きだから大きいのを打つことないよ』と。そのひと言がものすごく自信になりました。三原さんは6月に休養されて、ヘッドコーチ別当薫さんに代わってしまいましたが」

その1967年長嶋茂雄王貞治に率いられた巨人はリーグ3連覇と、3年連続となる日本一を目指していた。大洋には通算193勝の秋山登、"天秤打法"の近藤和彦などスター選手がいたものの、Bクラスに甘んじることが多かった。

「プロに入った時には、レベルの違いに驚きました。当時は春のキャンプでも10勝投手がバッティングピッチャーとして投げていましたから、僕なんか詰まってばかりで手が腫(は)れて......。でも、ほかの選手は簡単に柵越えするんですよ。『なんや、これ?』と思いました」

名将から実戦向きと太鼓判を押された松岡は少しずつ力を発揮していくのだが、そのスタートは波乱含みだった。

キャンプ初日、練習の最後に70メートル走が10本あったのですが、3本目を走ったら右足の太ももを肉離れして、パーンとひっくり返りました。痛くて歩けなくて、ボール拾いもできないくらいでした」

ここでも松岡は幸運に恵まれた。

「チームにひとりしかいないトレーナーが、私と同じ九州の長崎は五島列島出身の方でして。『2週間で治してやる』と言われたんですが、鍼とかマッサージとかいろいろな治療をしてもらって、オープン戦には間に合いました」

松岡はショートのレギュラーポジションを獲得。130試合のうち123試合に出場した。即戦力の期待に応える活躍だった。

「僕は『試合になったらやってるぞ』と思っていました。たいして素質のある選手ではありませんでしたから、取柄は元気だけ。島岡さんに教えてもらった気持ちでプレーを続けました。

この年は規定打席に到達して、打率は.244。デッドボールを食らったせいで7試合くらい休みましたけど、それ以外は全部出ました」

江夏豊
江夏豊

阪神タイガースの1年目の左腕、江夏豊が12勝(13敗)を挙げ、シーズン最多三振(225)記録を更新したものの、新人王は打率.299武上四郎サンケイアトムズ、現東京ヤクルトスワローズ)が手にした。

このふたりに次ぐ成績を残した松岡は、プロ2年目も116試合に出場(打率.220)したが、このシーズン以降、ベンチを温めることが多くなった。

1973年ドラフト会議山下大輔慶応義塾大学)が1位指名を受けて入団。山下は東京六大学で通算102安打を放った好打者だったが、守備に自信を持っていた松岡も認める名手でもあった。

「うまいと言われるショートはたくさんいるけど、山下がピカイチじゃないですか。どんな打球が飛んできても必ず、グラブが下にある。捕る~投げるの連動が素晴らしくて、どんなに難しい打球でも簡単にさばく。本当に簡単に捕って、投げているように見えました

山下大輔(左)
山下大輔(左)

山下の守備を見た瞬間に『これはうまい! かなわない』と思いました。と同時に、『負けたくない』という気持ちを強くしました。彼が大洋に来てくれたから、僕はプロ野球選手として長生きできたんです。彼は、まったくセンスが違う。僕には元気しかないけど、チームが落ち込んだ時は出番が回ってくる」

松岡はバイプレイヤーとして11年間プレーして、800試合に出場。358安打、打率.229という成績を残して1977年ユニフォームを脱いだ。

■大投手から放った現役通算3本のホームラン

松岡が現役時代に放ったホームランはわずか3本。だが、いずれも相手は日本プロ野球に名を残す名投手だ。

「プロ2年目の1968年川崎球場で江夏くんから打ちました。1年目はストレートばかりだったんですけど、2年目にキュッと曲がるカーブを覚えて見違えるようになりました。もともとコントロールは抜群だったので。

僕は1・2・3のタイミングで思い切って振ったんです。そうしたら打球が飛んでいって、スタンドのギリギリのところに入りました」

1968年の江夏は49試合、329イニングに登板して、25勝(26完投、8完封!)12敗、防御率2.13。奪三振401(シーズン最多)という成績を残している。

「2本目も同じ年。今度は巨人の堀内恒夫くんから打ちました。堀内くんもストレートが速くて、落差のあるカーブを持っている。カーブは打てそうにないから、ストレートに狙いを定めて、また『1・2・3』で振りました。

センターに飛んだ打球をセンターの高田繁が突っ込んで捕ろうとしたのが、イレギュラーバウンドでもしたのか、抜けていきました。僕は必死で走りましたよ」

堀内恒夫
堀内恒夫

当時、ホームランが出たあとには、スポンサーだったカネボウにちなんで鐘がカンカンと鳴り、噴水が上がっていた。ランニングホームランだと思っていたのだが、松岡がホームインしたにもかかわらず、場内は静かなままだった。

「なかなか鐘が鳴らないから、ベンチで近藤和彦さんに『おい功祐、今のワンヒットワンエラーやで』と言われました。しばらく経ってから鐘が鳴った時は大爆笑が起こりました」

そして3本目のホームランが飛び出したのは1976年、松岡が引退する1年前のことだ。

中日ドラゴンズの本拠地だったナゴヤ球場で、星野仙一から打ちました。その日は星野の調子がよくて完封負けを食らいそうになっていたところで、僕に出番が回ってきました。1球目はインコースを突かれてストライク。『次はスライダーだな』とヤマを張ってまた『1・2・3』で振りました(笑)。それまで飛んだことのないレフトのスタンドにライナーで飛んでいきましたよ」

 星野は明治大学の後輩に当たり、冗談を言い合える仲だった。ふたりの関係性を知るキャッチャーは、松岡がホームベースを踏んだ時、マスクの下で笑っていたという。

「お互いが引退してからも星野に会うと、『あの時はホームランをありがとう!』と言いました。そのたびに、『功祐さんに打たれた、打たれた』って悔しがる(笑)。『3本しか打ってないうちの1本がおまえからだぞ』と言って笑い合いました」

江夏は1976年南海ホークスに移籍。1978年からは広島東洋カーププレーし、抑えの切り札としてチームの連覇(1979年1980年)に貢献している。1984年に引退するまでに、206勝、193セーブを積み重ねた。

また、堀内はジャイアンツの常勝時代に活躍したエース。1966年ドラフト1位で巨人に入団した堀内は、プロ1年目に16勝を挙げたあと、13年連続でふたケタ勝利を記録している。通算178完投・37完封という数字が、堀内の投手としての能力の高さを証明している。1980年には200勝を達成している。

1968年ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団した星野は、1982年に引退するまでに500試合登板、146勝121敗、防御率3・60という成績を残した。1974年には15勝10セーブの活躍で巨人のリーグ10連覇、10年連続日本一を阻んでいる。対巨人戦の35勝(31敗)は史上6位だ。

「スピードガンのない時代でしたけど、江夏くん、堀内くんは間違いなく150キロ以上出ていましたね。そのうえに、"魔球"のような変化球も持っていた。星野の球速は130キロ台でも、気持ちがすごかった。なぜか、ストレートがムチャクチャ速く見えましたよ」

3人の大投手から放った3本のホームラン。これもまた、松岡にとって大きな勲章であることは間違いない。

第5回へつづく。次回配信は2024年2月10日(土)を予定しています。

■松岡功祐(まつおかこうすけ)

1943年熊本県生まれ。三冠王村上宗隆の母校である九州学院高から明治大、社会人野球のサッポロビールを経て、1966年ドラフト会議大洋ホエールズから1位指名を受けプロ野球入り。11年間プレーしたのち、1977年に現役引退(通算800試合出場、358安打、通算打率.229)。その後、大洋のスコアラー、コーチをつとめたあと、1990年にスカウト転身。2007年に横浜退団後は、中国の天津ライオンズ明治大学中日ドラゴンズコーチを続け、明大時代の4年間で20人の選手をプロ野球に送り出した(ドラフト1位が5人)。中日時代には選手寮・昇竜館の館長もつとめた。独立リーグの熊本サラマンダーズ総合コーチを経て、80歳になった今も佼成学園野球部コーチとしてノックバットを振っている。

取材・文/元永知宏

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