2023年10月1日東京都最低賃金が41円引き上げられ、時間額1,113円となりました。このように、正規雇用と、正規と比較して賃金の低い非正規雇用との賃金格差が埋まっていく一方で、経済全体の賃金上昇率は停滞を続けています。本記事では、元IMF(国際通貨基金)エコノミスト東京都立大学経済経営学部教授の宮本弘曉氏による著書『一人負けニッポンの勝機 世界インフレと日本の未来』(ウェッジ社)から、日本の賃金が低迷を続ける原因と、インフレと賃金上昇率の関係について解説します。

日本の平均賃金が停滞する根本原因

日本の平均賃金が停滞している一因として、非正規雇用者の急増があげられます。正規雇用者に比べて、非正規雇用者の賃金は低いため、非正規雇用者のシェアが高まることで、全体の賃金が抑えられているのです。

この状況は、次のような例を考えるとわかりやすいと思います。

正規雇用者しかいない経済を想定してみてください。彼らの時給が2000円だとすれば、経済全体の平均賃金も時給2000円になります。しかし、労働者の半分が非正規雇用になった場合、非正規雇用者の時給が1000円だとすると、経済全体の平均賃金は1500円に低下します。

このように、正規雇用者に比べて相対的に賃金が低い非正規社員が増えることで、経済全体の賃金は押し下げられるのです。

かつては雇用者の7人に1人だったが…

では、日本で非正規雇用者はどれくらい存在しているのでしょうか? 図表1をご覧ください。

約40年間で非正規雇用者は大きく増加したことがわかります。1984年には、非正規雇用者数は約600万人で全雇用者の15.4%を占めていましたが、2022年には2101万人に増え、そのシェアは36.9%に上昇しています。

かつては雇用者の7人に1人だった非正規雇用者は、今や雇用者の3人に1人となっているのです。なお、コロナ禍により非正規雇用のシェアはわずかに減少しています。これは特に女性の正規雇用が医療分野などで増えたためです。

非正規雇用者が増えた原因

非正規雇用者が増えた背景には、労働需要側と供給側の要因、そして制度的な要因が関与しています。

まず、労働需要側の要因としては、バブル経済崩壊後、日本経済が長期にわたって停滞する中、企業は増大する不確実性に対応すべく、雇用の調整コストが低い非正規雇用者を用いるようになったことが挙げられます。

これには、正規雇用者は一度雇ってしまうと解雇しにくい日本の雇用慣行も影響しています。また、製造業のシェアが減少し、柔軟な労働シフトが求められるサービス産業のシェアが拡大したことも、非正規雇用者増加の一因と指摘されています。

非正規雇用に対する需要が高まることで、彼らの賃金が上昇する効果がありますが、同時に非正規雇用者の供給も増えたために、賃金はそれほど上昇しませんでした。

次に、労働供給側の要因として、仕事よりも生活を重視したり、家事だけでなく仕事もバランスよくしたいなど、働き方の柔軟性を求める労働者が増加したことが挙げられます。また、退職後、非正規雇用として働く高齢者、とりわけ1947年から49年生まれの「団塊の世代」、も増えています。

ライフスタイルや価値観の多様化により、正規雇用ではなく非正規雇用を望む人が増えている一方で、正規雇用を希望しているにもかかわらず、期せずして非正規雇用者として働いている人も少なくありません。

2022年には、約210万人が「正規の職員・従業員の仕事がないから」という理由で非正規雇用者として働いています。これは非正規雇用者の約1割にあたります。

さらに、制度的な要因により非正規雇用者が増えたことも指摘されています。1990年代以降、有期雇用や人材派遣業務に関する規制が徐々に緩和されたことや、正規雇用者と非正規労働者の雇用保護に差があることが影響しています。

正規・非正規の「賃金格差」は縮まるも、経済全体の賃金は停滞

それでは、正規と非正規の賃金の違いについて見ていきましょう。

先ほど、厚生労働省令和4年賃金構造基本統計調査」から、正社員・正職員の月額平均給与は32万8000円で、一方で正社員・正職員以外の月給は22万1300円で、非正規の月給は正規の月給よりも35%以上低くなっていることを見ました。

正社員は基本給が労働時間によって大きく変わらないのに対して、非正規社員の賃金は時給ベースで労働時間に応じて支払われることが多いので、時給でも比べておきましょう。

図表2は正規雇用者と非正規雇用者の時給の推移を見たものです。

所定内給与額を所定内実労働時間数で割った時給を見ると、2022年には正社員の時給1976円に対し、非正規社員の時給は1375円で、正社員の7割程度となっています。所定外給与やボーナスなどの特別給与額を含めた場合は、非正規社員の賃金は正社員の6割程度になります。

ただし、正社員と非正規社員の賃金格差は縮小傾向にあります。2005年から2022年にかけて、正社員の時給は3%上がったのに対して、非正規社員の時給は18%上昇しています。この結果、正規の時給に対する賃金ギャップの割合は39%から31%に縮小しています。

なお、正規・非正規ともに賃金は増加傾向にあるものの、相対的に賃金が低い非正規雇用者の割合が大幅に高まったことで、経済全体の賃金の上昇率は抑制されています。

インフレと賃金の関係

インフレ率も、名目賃金に影響を与える要因のひとつです。物価の上昇は、労働者が購買力を保つために企業に賃上げを要求することにつながります。逆に、物価が下がると、企業は収益を保つために、賃金を引き下げるかもしれません。

また、実際のインフレ率だけでなく、インフレ予想も賃金に影響を与える可能性があります。

図表3は、OECD加盟国における2000年から2019年までの平均的なインフレ率と名目賃金 上昇率の関係を示したものです。インフレ率と名目賃金上昇率の間にはプラスの関係があることがわかります。

労働者インフレを予想→賃上げ→インフレ」という、自己実現的な因果構造

ここで重要なのは、インフレ率と賃金上昇率の正の関係が、物価の上昇によって賃金が上がるという因果関係だけでなく、逆に賃金が上がることで物価が上がるという因果関係も考えられるということです。

例えば、企業の売上が増えて、賃金が上がった場合を考えてみましょう。この場合、家計の懐に余裕ができるため、需要が増加します。そして、需要の増加は物価上昇につながります。つまり、賃金が上がることで、物価が上昇するというルートも存在するというわけです。

物価の上昇が、賃金の上昇につながるのか、あるいは賃金の上昇が物価の上昇につながるのかという問題は、「鶏が先か、卵が先か」という関係に似ていますが、そこで重要となるのが、インフレ予想です。

物価の上昇により、労働者が賃上げを要求する場合を考えてみましょう。この時、彼らは現在のインフレによる賃金の実質的な低下をカバーするだけでなく、今後もインフレが続くことを見越して、さらなる賃上げを要求することが考えられます。

なぜなら、インフレが急速に進行する中では、たとえ一度賃金が上がっても、すぐに生活が苦しくなることが予想されるからです。

このように、賃上げの要求時には、実際のインフレ率とともに、将来のインフレ率が重要な役割を果たします。

例えば、労働者が将来のインフレ率を2%と予想し、その分の賃上げを要求するとしましょう。賃上げが実現すれば、それに伴い人件費も増加し、企業はコストを商品やサービスの価格に転嫁することになります。

結果として、労働者の当初の予想通り2%のインフレが実現することになります。つまり、労働者の予想インフレ率が実際のインフレ率を決定づけ、自己実現的な現象が起こります。

もし労働者インフレ予想が安定的であれば、労働者の賃上げ要求も同様に安定し、結果として、物価上昇も安定的となります。

日本では「インフレ率」も「賃金上昇率」も低いまま

ここで、再び図表3に目を向けてみましょう。この図では、日本が左下の角に位置しています。

これは、日本が低いインフレ率と賃金上昇率を同時に抱えていることを示しています。それに対して、他のOECD諸国の多くでは、インフレ率と賃金上昇率が共に2%程度となっています。

これが意味するところは、日本はインフレ率と賃金上昇率が共に低い「均衡」にあるのに対して、他の国では物価も賃金も緩やかに上昇する「均衡」にあるということです。

宮本 弘曉

東京都立大学経済経営学部

教授

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