川崎フロンターレU-12時代の板倉少年

現在、アジア杯で日本代表の守備の要として活躍する板倉をはじめ、数々の日本代表選手を輩出してきた川崎フロンターレジュニアU-12)。板倉少年が厳しい規律と練習の中で育んだものとは? 前回に引き続き、本人が当時を振り返る。

■厳格な指導で生まれた自立の力

2022年のW杯以来、カタールに帰ってきた。目的はもちろんアジア杯での優勝だ。とはいえ、何度も言うことだけど、簡単な試合なんてひとつもない。予選グループリーグがまさにそうだった。気を引き締めていきたい。

さて、今回も引き続き川崎フロンターレアカデミーU-12)での思い出と学びについて。当時、U-12の監督だった髙﨑(康嗣)さんをはじめ、コーチ陣の指導はとても厳格だった。

サッカーの技術以前に、自立した人間の育成に力を入れていたこともあり、忘れ物なんて凡ミスをしようものなら、本気で叱られていた。10歳前後だった僕らはおびえながら細心の注意を払っていたが、どうしてもミスは避けられない。ある日、"事件"は起きてしまった。

ケガ防止のため、練習ではすね当ての装着が義務づけられていた。すね当てを着けていれば、ソックスの上からでも凸凹感は見て取れるはずだが、その日はソックスをはいただけといった様子のA君がいた。

みんなの視線は自然と彼のすねに集まる。「すね当て、忘れたんじゃない?」。コーチ陣にバレたら、連帯責任でえらい目に遭うことは必至。「いや、すね当てしてるって!」と鬼の形相で全力否定するA君に対して、ほかのメンバーは「正直に言え!」と全力で問い詰める。

結局、A君が観念してソックスを下げるとソックスの下から出てきたのは、すね当て......ではなく、薄い袋入りのポケットティッシュだった。

まあ何を言いたかったのかというと、A君が知恵を振り絞り、必死にごまかそうとするぐらい、コーチ陣からの叱責と懲罰が恐ろしかったということ(笑)。そんな指導のおかげか、遠征先での挨拶はもちろん、持ち物はきちんと整理するといったピッチ外での振る舞いは、習慣づけられた。

そんな日々を過ごしていたからこそ、僕ら1期生14人の意識が高くなるのは必然だった。中でも際立っていたのは、GKでキャプテンを務めていた深谷星太。生真面目を絵に描いたような性格で熱血漢。僕の目には髙﨑さんの分身のように見えていた。

バスでの移動中は、みんなとワイワイ会話できる唯一のタイミングなのだが、深谷ははしゃぐ僕らを容赦なく叱る。「今はバスの中だから。俺たちはフロンターレワッペンを着けてるんだ。クラブを背負っているんだぞ」と。

話せないとなると、僕にとっての暇つぶしは当時はやっていたキッズ携帯用のゲームになる。でも、いざゲームを始めると、後ろからの視線を感じるのだ。振り返ってみると、やっぱり深谷。

「携帯はなんのためにあるんだ?」。コーチ陣から、連絡以外は携帯をいじらぬよう、指導されていたからだ。いつもこんな調子だったので、僕は当時の深谷が大っ嫌いだった(笑)。

遠征からの帰り、息苦しさを感じていた僕ら"ゆるい組"は、深谷率いる"真面目組"と乗換駅でバラけると、姿が見えなくなったそばからコーラやお菓子(これらも基本的には購入禁止とされていた)を買って、気を紛らわすことも。余談だが、同期の三好康児(イングランド2部・バーミンガム)は生粋の"真面目組"だった。

■髙﨑さんの下、U-12の日本一に

軍隊並みに規律を重んじる体制だったせいか、脱落していく子もいた。かといって、僕の中にやめるという選択肢はなかった。そんなことを考える暇がないほど、毎日忙しく、とにかくガムシャラだったのだ。サッカーのある生活が当たり前だったから、一生懸命前に進む以外なかったのかもしれない。

もうひとつ、僕がやめなかった理由としては、髙﨑さんをはじめ、コーチ陣の指導が決して理不尽なものではなかったから。厳しかったけど、僕らと同じ目線に立って、積極的に意見交換の場は設けてくれた。

プレー中、ことあるごとに「今、どういう考えでこのプレーしたわけ?」と聞かれ、僕らには自分の考えを伝える機会が与えられるのだ。髙﨑さんたちからは口酸っぱく言われた。「常に考えながらプレーしろ」と。

おのずと、発言力と思考力が身についた。そのおかげか、結果もついてくるようになり、08年、川崎フロンターレU-12は10~12歳の少年少女を対象とする国際大会「ダノンネーションズカップ」の日本大会で優勝、日の丸を背負ってフランスでの本大会に出場し、10位という成績を収めた。初めて世界を相手に戦った記憶は鮮明に覚えている。

あれから十数年、今でも髙﨑さんや同期とはたまに集まって、ごはんを食べる。「髙﨑さん、あの頃マジで怖かったっすよ」と僕が振り返れば、髙﨑さんは「そうだったかなぁ?」と(笑)。深谷とも、今ではなんでも話せるぐらいの大の親友になった。

アカデミーで学んだ発言力と思考力のおかげで、僕は自分の意思をはっきり伝えられるプレーヤーになれた。中高生になると、時には主張が激しくなり、監督やコーチとぶつかることもあったが、それでも髙﨑さんの指導がなければ、現在のように海外で渡り合うことはできなかったと思う。

海外ではとにかく自分の意見を求められるからだ。当時の指導が長い年月を経て、プロ生活に生きている実感はある。フロンターレアカデミーは僕にとって永遠の存在だ。

構成・文/高橋史門 撮影/山上徳幸 写真/本人提供

板倉滉が川崎F・ジュニアの”鬼教育”から得た学び