どうしてこうも素直に喜べないものなのだろうか。どうして芸能人の祝福すべき話題にはいつも変なケチがつくのか……。



宮沢氷魚 ファースト写真集 『Next Journey』(集英社



 彼らが芸能人だから、好き勝手に騒いでいいわけではない。子どもが生まれることはめでたいし、結婚のあり方も時代に合わせて変化していく必要がある。


「イケメンとドラマ」をこよなく愛するコラムニスト・加賀谷健が、宮沢氷魚と黒島結菜の発表に考えることとは。


◆知性と感性の不思議な資質
 クラシック音楽の厳格な観点から見ると日曜劇場さよならエストロ~父と私のアパッシオナート~』(TBS)は、多分にリアリティが欠けていているように思うが、主演の西島秀俊芦田愛菜他、俳優たちのにぎやかな演技はそれなりに楽しめてしまう。


 放送開始間もなく、まだまだ存在感はそこまでではないにしろ、市役所職員にして市民オーケストラトランペット奏者役の宮沢氷魚は、バツグンのポテンシャルだと思う。


 知性と感性。そのどちらもあわせ持った宮沢の才能は、どんなキャラクターを演じても仕上がりよく見える。とても不思議な資質なのだが、そんな宮沢がまさに才能通り、あるいは才能を裏書きすようなトピックをもたらしてくれた。


◆子どもができたら結婚届?
 2024年1月16日黒島結菜との間に第一子を授かったことを発表したのだ。宮沢、黒島ともに直筆署名入りの丁寧な文面でコメントしている。注目すべきは、婚姻届を提出する予定は、今のところはないということ。


 するとネット上では、「子どもが産まれるのに、婚姻届を出さないのは無責任」といった類の意見が見られた。でもこれは冷静に考えると、余計なお節介もいいところではないか。


 そもそも子どもができたら婚姻届を出さなきゃならない決まりがあるのか。ないに決まってる。本人たちがよくよく考えて決めたことなのだ。彼らの自由というか、静かに祝福するのが最低限の人情だろうし、外野が口を挟むことではない。


◆責任がない理由にはならない




 できちゃった結婚を略した「でき婚」が流行語となって久しい。竹野内豊と広末涼子によるトレンディなドラマ『できちゃった結婚』(フジテレビ)が放送されたのが、2001年。できちゃった結婚した夫婦の離婚率の高さなど、マイナスイメージが未だに尾を引いている。


 こうした流行からすでに25年以上が経過している。元号も改元されている。時代の進み方が特に加速度的な現代、さすがにそんな昔の価値観を尺度に物を言われても困ってしまう。


 この際、現代人なりにバージョンアップされた価値観を持たなければ。「新しい家族の形」などというもっともらしい形容も胡散臭い。


 その意味でも宮沢と黒島の発表は、改めるきっかけとなるのではないか。別に婚姻とか入籍という形式に縛られないからといって、責任がない理由にはならない。文面にある通り、確かなパートナーとして、責任のベクトルがお互いに向いているのだから、まったく問題はないはず。


◆誠実な態度と嘘のなさ
 つまり、宮沢は責任がある人だと筆者は言いたいのだが、その人格は俳優であることとほとんどイコールになっている。


 映画でもドラマでも、カメラの前で俳優は嘘がつけない。いや演技というものはフィクション(ドラマ)の中の嘘ではあるのだが、演技の良し悪しはすべて俳優の誠実な態度にかかっている。


 ドラマ作品なら、『さよならエストロ』だけでなく、ムロツヨシ主演の『ドラフトキング』(WOWOW)の宮沢はまさに嘘のない演技だった。そしてこの嘘のなさを裏付けているのが、特徴的な琥珀色の瞳。


 それは元THE BOOMヴォーカルだった父・宮沢和史譲りの色。その輝きが、誰の目にも明らかなまばゆさで、はっきりと責任の証明にさえなっていると思うのだ。


 あらゆる出演作品のあらゆる瞬間で、宮沢が提示してくる切実な演技は、婚姻届を提出することよりもよっぽど真実味がある。あの琥珀色の瞳を覗き込めば、これだけは疑いの余地がない。


<文/加賀谷健>


【加賀谷健】音楽プロダクションで企画プロデュースの傍ら、大学時代から夢中の「イケメンと映画」をテーマにコラムを執筆している。ジャンルを問わない雑食性を活かして「BANGER!!!」他寄稿中。日本大学芸術学部映画学科監督コース卒業。Twitter:@1895cu