2023年、阪神タイガースは38年ぶり2度目の日本一に輝きました。この大躍進の背景には、前回日本一となった1985年との共通点があったと、元阪神タイガース掛布雅之氏はいいます。掛布氏の著書『常勝タイガースへの道 阪神の伝統と未来』(PHP研究所)より、阪神が優勝を成し遂げた要因をみていきましょう。

選手を通して見る「つなぐ意識」で打席に臨んだ結果

2023年の阪神リーグ優勝の要因は何かと問われれば、多くのファンは強力な投手陣だと答えるだろう。

日本一となった1985年阪神タイガースも、シーズン219本塁打が話題となったが、基本は「守り勝つ野球」だった。

23年は、本塁打数こそ少ないものの、打線においても85年と同じものがあった。それは「つなぐ意識」である。4球数が優勝の要因としてメディアにクローズアップされたが、4球というのは、次の打者につなげる気持ちから生まれるものである。4球を選ぼうと思って打席に入る打者はいない。4球で1塁に行こうと思った時点で、消極的な気持ちが芽生え、バットが出てこなくなってしまうのだ。

4球という結果だけを見るのではなく、その過程で打者がどのような意識をもち、打線になったのかを注目すべきだろう。

23年は、8番の木浪聖也、1番近本光司、2番中野拓夢が見事に打線として機能した。巨人の原辰徳監督(23年シーズンで退任)は「3番、4番、5番のクリーンナップが打つのは当たり前じゃないですか。1番嫌なのは8番からつなげられて上位打線に回って取られる1点。これは結構効くんですよね」と言っていた。

また、4番の大山悠輔は、本塁打こそ20本に満たないものの、最高出塁率のタイトルを獲得した。4番打者で出塁率トップとは、いかに大山がつなぐ意識で打席に臨んでいたのかを表す数字だ。そして勝利打点もかなり多い。シーズン前に岡田監督は、大山に勝利打点王(81年〜88年まで。89年〜2000年まではセ・リーグ特別賞)になることを厳命していたのだ。「あのタイトルはものすごい価値あったと思うけどな。勝利を決めた打点やからな」と岡田監督は、シーズン前に報道陣に語っていた。

佐藤輝明は、苦しんだ時期もあったが、8月、9月は打率3割以上を打ち、復調してきた。そして、セ・リーグ優勝を決めた9月14日、佐藤の打球が、バックスクリーンに放たれた。

蘇る1985年の記憶

そのとき、私は、85年のあの日の出来事を思い出していた。

85年4月17日甲子園球場の漆黒の夜空に、白球が3発連続で舞い上がった。その後、語り継がれる3番=ランディ・バース、4番=掛布雅之、5番=岡田彰布の阪神クリーンナップによる「バックスクリーン3連発」である。

その日、阪神は巨人とのシーズン初対決となった甲子園での3連戦の2試合目だった。巨人に2点リードされた7回裏で2死1、2塁のチャンスを迎える。

巨人のピッチャーは、快速球で注目される若きエース槙原寛己。そこに登場したのが、史上最強の助っ人として知られる3番打者のバースだった。バースは甘く入ったストレート気味のシュートをとらえ、バックスクリーンへ逆転の3ランホームランを放った。

次に打席に入った私は、ホームランの勢いを借りることよりも、槙原と1対1での勝負をしたいという思いが強かった。1ボール1ストライクからの3球目。内角高めのストレートがやや詰まったものの左手で押し込み、バックスクリーン横の左翼側に放り込むと、それがホームランになった。

続く5番打者の岡田は、バースにはストレート気味のシュート、私にはストレートを打たれたことから、「(槙原は)インコースのストレートは投げてこないだろう」と予測し、スライダーに狙いを定めたという。すると、2球目をフルスイング。岡田のソロホームランは、前の2球を追いかけるようにバックスクリーン方向に飛んでいった。

この出来事は、四半世紀以上経った今でも、阪神ファンの間で語られることとなる「伝説の3連発」だった。さらに、「バックスクリーン3連発」があった85年シーズンは、阪神が21年ぶりのリーグ優勝を果たし、その後2リーグ制になって以降初の日本1に輝いたことから、阪神を勢いづかせた出来事として語られることもある。

本連載では「初代ミスタータイガース藤村富美男さんから金本知憲まで、阪神球団史を彩ってきた強打者たちについて語ることで、阪神打線に息づく魂を探ってみたい。そして、そこからさらに現在の阪神というチームについて語ってみたい。そこには「勝つ伝統」を携たずさえた常勝チームとして進むべき道があると信じている。

掛布雅之

プロ野球解説者・評論家

(※写真はイメージです/PIXTA)