「潮風テーブル」(喜多嶋隆/KADOKAWA)第1回【全5回】

湘南の港町にある素朴な魚介レストラン「ツボ屋」、別名「ビンボー食堂」。店主である女性・海果が、中学生の少女・愛や町の人々の助けを借りて細々と経営している。町が観光客で賑わい稼ぎ時となる夏、大型台風の到来やライバル店のオープンなどが重なり未だかつてないピンチを迎えてしまう。「お前には用がない」と戦力外通告された過去をもつ海果と、家族がバラバラになってしまった愛――それぞれが心の傷を抱えながらも、いまの自分の居場所を守るために奔走する。心温まるヒューマンドラマと美味しそうな料理の数々が魅力的な「潮風テーブル」の冒頭部分をお届け!

※2023年9月29日掲載、ダ・ヴィンチWebの転載記事です

■1. その夏、3人は家族だった

やばい……」

わたしはテレビ画面を見てつぶやいた。

すごい台風が湘南に向かっている。

葉山。森戸海岸のそばにある魚介レストラン〈ツボ屋〉。

別名〈ビンボー食堂〉。

わたしは、今朝も4時半に起きた。近くの魚市場に行き、捨てられた魚やイカを拾うために……。

1階の店におりて、何気なくテレビをつけた。すると、アナウンサーが、

〈4日前フィリピン沖で発生した熱帯性低気圧が……〉

〈超大型の台風に発達し、急速に東日本に向かって……〉

と早口でまくしたてている。

〈この夏初めて日本を直撃するこの大型の台風は……〉とアナウンサー。天気図も映った。確かに、大きな台風が北上している。

中心部の気圧は、930ヘクトパスカル。ひどく強力で大きい。

ただ事ではない……。

まずいな……。つぶやいていると、愛が起きてきた。

愛は、きのう7月18日北海道修学旅行から帰ってきたところだ。

深夜まで、楽しかった修学旅行の話をしていた。広大なラベンダー畑にどれほど感激したか……興奮した愛の話は終わらなかった。

そのせいか、思い切り大きなアクビをしながら愛は起きてきた。

「どうかした?海果」

「台風、やばいよ」わたしはテレビを指さした。画面を見た愛も、

「うひゃ!」と声を上げた。葉山育ちの子だから、天気図を見ただけで台風の大きさが、だいたいわかるのだろう。

「今朝は魚拾えないかなあ……」と愛。

「とりあえず、港に行ってみよう」わたしは言った。

そして、愛の髪を両側で二つに結んだ。

愛は、もともと小柄で童顔。髪を二つに結ぶと、いま中学2年だけど、小学6年ぐらいにも見える。そんな愛が一緒だと、魚市場の人たちの表情もなごむのだった。

わたしたちは、拾った魚を入れるポリバケツを持って店を出た。

魚市場は慌しい雰囲気。殺気だっていた。

男の人たちが、緊張した表情で動いている。台風にそなえ、漁船を岸壁にしっかりと舫う、その作業をやっている。

「おう!」と一郎。作業をしながら、わたしたちにふり向き、

でかいな」と言った。〈台風がでかい〉という事だろう。だけれど、テキパキと動きながらも、その表情は落ち着いていた。いつものように……。

すでに、岸壁には、漁船がぎっしりと舫われている。

いつもの何倍ものロープを使って……。

これを〈増し舫い〉というのは、漁師だったお爺ちゃんに聞いた事がある。

もちろん、魚市場にはイワシ1匹落ちていない。

仕方ない。わたしたちが帰ろうとすると、

「台風、気をつけろ」と一郎。苦笑いして、「お前たちの店、ボロっちいんだから」と言った。

トントンと釘を打つ音……。

わたしと愛は、店の外に板を打ちつけていた。

一番危ないのは、出窓だ。猫のサバティーニがいつも外を見ている出窓。そこに、ありあわせの板を打ちつける。

出窓の中にいるサバティーニは、不思議そうな顔でキョロキョロしている。

そうしている間にも、風が強くなってきていた。台風が接近するとき独特の、むっと暑い風を頰に感じる。

「これで、なんとかなるかなあ……」と愛がつぶやいた。

「どうだろう」とわたし。

いちおう、危なそうな所には板を打ちつけた。けど、すでに傾いているようなボロ家だ。何が起きるかわからない。

「まあ、運を天にまかせるっきゃないよ」わたしは言った。そして、気づいた。

「耕平のところ、大丈夫なの?ビニールハウスとかあるし」

と愛に言った。

「そうだ!」と愛。

いま中二の愛には、ボーイフレンドらしきものができた。同級生の耕平だ。

家は、葉山の山側で農家をやっている。低農薬のトマトなどを、すごく安くうちの店に売ってくれている。

「連絡してみる」と愛。スマートフォンを出し、かけている。しばらくすると、

「出ない」と言った。

5分後。

わたしと愛は、3000円で買ったサビだらけの自転車二人乗り。耕平の家に向かった。

15分ぐらいで着いた。案の定、耕平は作業をしていた。

家から50メートルほど離れた所にあるビニールハウスの補強をしている。

夏の初めの陽射しが、照りつけている。

耕平は、膝たけのジャージ姿。上半身裸で作業をしていた。陽灼けしたその体は、汗びっしょりだ。

華奢な子だと思っていたけど、腕や胸には意外なほどの筋肉がついている。農作業でついた筋肉だろう。

そんな上半身裸の耕平を見て、愛の頰がふと赤くなる。視線をそらした。

ガキに見える愛も、それなりに年頃なのか……。

「手伝うわよ」とわたしが言った。耕平はちょっと考え、うなずいた。

わたしと愛は、ビニールハウスの補強を手伝いはじめた。

「お父さんは?」とわたし。

緑内障が相変わらず良くなくてさ、しょっちゅう転ぶんだ。危なくて……」と耕平。

「いま家にいるよ」と手を動かしながら言った。

その表情は、けして明るくない……。わたしたちは、手を動かし続ける……。

「耕平のやつ、偉いんだよ」と愛が話しはじめた。

5時間ほど、ビニールハウスの補強を手伝って、店に戻るところだった。

わたしは自転車を押し、愛は並んで歩いている。

「耕平が、偉い?」とわたし。愛がまた話しはじめた。

北海道修学旅行。今回のハイライトである、広々とした富良野ラベンダー畑を、全員でわいわいと歩いた。

その翌日は、日高にある農場に行ったという。そこは、低農薬で質のいい野菜を作っている農場だという。

いちおう修学旅行なので、そういう農場にも行ったのだろう。

「ほかの子たちは、木登りしたりして遊んでるんだ」と愛。「でも、耕平だけは農場の人と話し込んでた」

「農場の人と?」

「そう……。そこでは、どんな農薬をどれだけ使ってるかとか、作物の糖度を上げるためにどんな工夫をしてるかとか、いろいろ質問してた」

「へえ、確かに偉いね……」わたしは、つぶやいた。以前、耕平が、

〈大学の農学部にいきたいから〉

と言ったのを思い出していた。真剣に農業に取り組むつもりらしい。

そんな子だから、北海道の農場の人にいろいろ質問をしてたのだろう。

「アイドルやゲームの話ばっかりしてるクラスの子たちが、みんな馬鹿に見えてくる……」

愛がつぶやき、わたしもうなずいた。

そろそろ夕方。陽射しはなくなり、濃いグレーの雲が空を覆いはじめた。

頰に当たる風も、さらに強くなってきていた。台風が接近しているのを肌で感じる……。

「海果、そんな格好じゃダメだよ」と愛が言った。

夜の9時。風雨はさらに強くなってきていた。

わたしたちは、手早く、晩ご飯と片づけを終えた。

二階の部屋。猫のサバティーニと一緒にベッドに入ろうとしていた。

そのとき愛が、〈海果、そんな格好じゃダメだよ〉と言ったのだ。

エアコンは5年前に壊れたまま。暑いので、わたしは薄着だ。

下着のショーツ、そしてダブッと伸びたタンクトップをかぶっているだけだ。夏は、いつもこれで寝ているのだけど……。

「これじゃ、まずいかな……」

「まずいよ。台風で、急いで避難する事になったらどうするの」と愛が口をとがらせた。

「パンツ一枚で、上は胸がのぞいちゃいそうなダブダブのタンクトップだし……。その格好で避難所に行ったら、こっ恥ずかしくない?」と言った。

「そっか……」わたしはついつぶやいた。

確かに。

友達に言わせると、わたしはカピバラのようにボサッとしてる。だから、緊急避難まで考えていなかったのも事実だ。

「……あれは、わたしが小学4年のときでさ」と愛が口を開いた。

その頃、愛の一家は葉山の一軒家に住んでいたという。

「その夏に大きな台風がきて、家が急に浸水しちゃって、大変だったんだ」

「へえ……」

「そのとき、お父さんは下着の縞パンツしか穿いてなくて、それで家の水かきをしてると、近所の子供たちに笑われてさ……」と愛。

「で?」

「親子3人で水かきをして、なんとかなったけどね。そのときのお父さん、カッコ悪かった……」

「そっか……」わたしは、つぶやいた。

そして、ふと思っていた。

そのときは、大変だっただろう。カッコ悪かったかもしれない……。

けれど、それはそれで、ひとつの思い出なのではないのかと……。

いくら大変でも、みっともなくても、そのときの3人は、確かに1つの家族ではなかったのか……。

その翌年、お母さんは悪性リンパ腫を発症して、いまも横須賀の病院に入院している。

お父さんは、IT関係の事業がうまくいかなくなり、いまは連絡がとれなくなっている。

早い話、愛の家族はヒビ割れ、砕けてしまった。

そう思うと、その台風のときが、愛の一家が本当の家族だった最後の夏だったのかもしれない……。たぶん、間違いなく。

それを思うと、鼻の奥がツンとした……。

気をまぎらわせるためにつけているCDラジカセから、ビージーズの〈若葉のころ〉が低く流れていた。

1時間後。台風は、さらに関東に近づいているようだ。風の音がゴーゴーとすごい。

家も少し揺れている。

けど、わたしたちは、ベッドでウトウトしはじめていた。

昼間、耕平のところで手伝いをした。その疲れが出たのかもしれない。わたしは、サバティーニのヒゲを腕に感じながら、寝つこうとしていた。

そのときだった。ドーンという音と振動!地震のように、思い切り家が揺れた!

「潮風テーブル(角川文庫)」(喜多嶋隆/KADOKAWA)