歴史上「ハイパーインフレ」は何度も起きており、その原因は「紙幣の大量発行」だといわれています。では原因がはっきりしているのに未然に防ぐことができないのは、なぜなのでしょうか。本記事では、お金の向こう研究所の代表を務める田内学氏の著書『きみのお金は誰のため:ボスが教えてくれた「お金の謎」と「社会のしくみ」』(東洋経済新報社)から一部抜粋し、ハイパーインフレの本質について考えてみましょう。
あらすじ
キレイごとが嫌いな中学2年生の佐久間優斗は「年収の高い仕事」に就きたいと考えていた。しかし、下校中に偶然出会った銀行員の久能七海とともに「錬金術師」が住むと噂の大きな屋敷に入ると、そこで不思議な老人「ボス」と対面する。
ボスは大富豪だが、「お金自体には価値がない」「お金で解決できる問題はない」「みんなでお金を貯めても意味がない」と語り、彼の話を聞いて「お金の正体」を理解できた人には、屋敷そのものを譲渡するという。図らずも優斗と七海はその候補者となり、ボスが語る「お金の話」を聞くことに……。
登場人物
優斗……中学2年生の男子。トンカツ屋の次男。キレイごとを言う大人が嫌い。働くのは結局のところ「お金のため」だと思っている。ボスの「お金の話」を聞くために、七海とともに屋敷へと通う。
七海……アメリカの投資銀行の東京支店で働く優秀な女性。当初の目的は投資で儲ける方法をボスから学ぶことだったが、現在はボスの「お金の話」を聞くために屋敷へと通う。
ボス……「錬金術師が住んでいる」と噂の大きな屋敷に住む初老の男性。関西弁で話す。1億円分の札束を「しょせんは10キロの紙切れ」と言い放つなど、お金に対する独自の理論を持つ大富豪。
お金を過信する国の末路
「先週のサッカーの試合はどないやったんや?」
ボスが聞いてきたのは、彼の部屋を訪れたときだった。
「惜しかったです。ほんの少しの差だったんですけど、負けちゃいました」
7対1という、サッカーとは思えない点差だったとは、恥ずかしくて言えない。
「少しってどれくらいなんや?」
意外にも食いついてくるボスに、優斗は違う話をしてごまかした。
「ていうか、うちのサッカー部の監督も、お金を払ってえらそうにする客と同じだと思うんですよね」
七海がクスッと笑い、「なによ、それ?」と返した。
「ほら、お金の力は選ぶ力って話していたじゃないですか。監督って、選手や作戦を選ぶでしょ。うちの監督は、いつも無茶な指示を出して、それができないとすぐ怒るんですよ。本人はリフティングもろくにできないくせに……。それって、えらそうにする客と同じですよね」
ボスは洋酒入りの紅茶を片手に、感心して聞いていた。
「ハイパーインフレ」の本質
「それは、なかなかの見立てやな。お金を払う側と受け取る側の関係は、まさに監督と選手みたいなもんや。監督が息巻いても、実行するのは選手。お金がどれだけあってもあかん。それを知らずにお金の力を過信すると、国さえも破滅させかねへん」
そう言うと、ティーカップを置いて、ポケットから何かを取り出した。
「今日は、これを見てほしいんや」
ボスがテーブルの上に置いたのは、1枚の紙幣だった。ところが、普通の紙幣とは様子が違う。
「これって、大金じゃないですか⁉」
目を丸くして、優斗はすぐに桁を数える。
「一、十、百、千、万……百兆!? これ、百兆ドル札?」
「正確には百兆ジンバブエドルや」
今度は、2人の様子を遠巻きに眺めていた七海が反応する。
「ジンバブエは、2003年以降しばらくハイパーインフレが続きましたよね」
「さすがに、よう知っとるな。物価が急激に高騰して、紙幣が価値を失って紙くず同然になったんや。この紙幣は一円の価値もあらへん。こういったハイパーインフレは歴史的に何度も起きている。いちばん有名なのは、第一次大戦後のドイツやな」
「僕、そのときの写真、本で見ましたよ」
知っている話が出てきて、優斗はうれしくなった。この前訪れた図書館で読んだ本にも、ドイツのハイパーインフレの話が書かれていた。
「買い物に行くのに、手押し車に大量のお金を積んで運んでいたんですよね。だけど欲しいものはほとんど買えなくて、苦しい生活だったって」
優斗の話にうなずきながら、ボスはその紙幣を手に取り、宣言でもするかのように声を張り上げた。
「この紙幣こそが、お金こそが力やと信じ込んだ人間の愚かさの象徴や」
ボルテージが上がるボスに対して、七海は落ち着いた声でたずねる。
「一般的には、ハイパーインフレは、紙幣の大量発行が原因と言われていますが、そうではないとおっしゃるんですね」
「本質はそこやない。お金への過信がこんなバカげた紙幣を生み出したんや。そこで、考えてほしい問題がある。今回のは難問やで」
難問という単語に反応した優斗は、ボスの言葉を待ち構えた。
紙幣で穴埋めできない生産力
ボスは靴を脱いで、イスの上であぐらをかいていた。
「ここに100人が暮らしている国があるとしよか。みんな、朝晩合わせてパンを毎日2個ずつ食べていたんや。あるとき、パンの価格が高騰して、国民全員が不満を訴えた。『値上がりのせいで、パンが1個しか買われへん。解決してくれ』とな。そこで政府は、パンが買えるように、お金を印刷して配ったんや。せやけど解決しなかった。それはどうしてやろか」
優斗は面食らった。「問題はそれだけ?」と言いそうになる。お金が足りないなら、配れば当然解決するはずだ。考えようにも何の手がかりもない。
静かになった部屋で、優斗は考えあぐねていた。やがて、こめかみに指をあてていた七海が、ぽつりと疑問を口にした。
「どうして、パンが高騰したのでしょうか。職業病なのか、価格が動いた理由が気になってしまいますね」
「なかなか鋭い指摘やな。1つヒントを出すと、パンの数に注目することや」
ボスに言われて、優斗もさっそく考えてみる。1人2個食べていたのが1個になる。みんなで200個買えていたのが100個に減る。しかし、それ以上は何をどう考えればいいのかわからない。
そのとき、「あっ」という高い声とともに、七海が茶色い髪をかきあげた。
「災害が起きて、パンの生産が減ったんですね」
優斗はイスからずり落ちそうになった。まさか彼女が冗談を言うとは思わなかったのだ。
「勝手に災害を起こさないでくださいよ」とつっこもうとしたとき、ボスがパチパチパチと大きく手をたたいた。
「すばらしい。大正解や」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。災害なんて言ってなかったですよ」
不思議がる優斗に、七海が順を追って説明してくれた。
「もともと生産されていたパンは200個だったのよね。ところが、価格が高騰したあとでは、実際に売られたのは100個だけ。あまっているパンがあれば、売るべきよね。だけど、それがないということは……」
七海は一瞬言葉を止め、優斗の目を見つめる。
「災害か何かの事情で、パンの生産量が100個に減っていたんじゃない? だから、お金を配っても、国民にパンが2個ずつ行き渡らない。お金を配れば配るほど、パンを求めてみんながお金を払おうとするから、価格だけは上がるんだけど、問題は解決しないのよ」
「うわっ。そっか……」
優斗は悔しさのあまり頭を抱えた。名探偵に先を越される刑事の気持ちがわかった気がした。
『お金は偉いのか?』…疑問に対するボスの答え
「わからなくなったら、サクマドルの話(紙幣自体には何かを生み出す力はないという話)を思い出すことや。お金はただの紙切れや。お金の力に惑わされたらあかんで」
ボスの言うとおりだ。サクマドルを配るだけで食料不足が解決するはずがない。ところが、お金と聞くと何か特別な力でもあるような気がしてしまう。ボスが、さらに解説を続ける。
「ハイパーインフレで失敗する国は、生産力の不足をお金という紙切れで穴埋めできると勘違いした国や。しかし、お金が直接パンに化けるわけやない。自然の恵みや働く人たちがおって、生産力があるから作れるんや。ジンバブエの生活が苦しくなったのは、お金が増えすぎたからやない。物が作れない状況にあったからや」
ひととおり解説が終わると、あぐらをかいていたボスが座り直した。そして、「さて、優斗くん」と改まった声を出した。
「100人の国の話には続きがあるんや。お金がえらいと信じる人たちは、もっとお金を配れと叫んでデモ行進をした。しかし、他の人たちは災害で壊れたパン工場をせっせと修理した。どっちの行動が正しいか。もう明白やろ。これが、『お金はえらいのか?』という君の質問への答えや」
トンカツ屋のえらそうな客が、お金を配れと叫ぶまぬけな人たちに重なった。そして、工場を修理している人たちの中に両親の姿が見えた。
胸の中の鉛玉が少し溶けた気がした。
田内 学
お金の向こう研究所
代表
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