諏訪敦彦、黒沢清らに師事し、東京藝術大学大学院の修了制作『小さな声で囁いて』(18)が国際的にも高く評価された山本英。そんな新進気鋭の監督が、2019年に起きた新宿ホスト殺人未遂事件にインスパイアされ、韓国出身の脚本家イ・ナウォンと共に紡いだ鮮烈な愛の物語『熱のあとに』が公開された。第28回釜山国際映画祭に正式出品され、第21回東京フィルメックスで「New Director Award」を受賞した話題作。主演を務めた橋本愛が演じるのは、愛したホストを刺し殺そうとした過去を持ち、たとえ世界を敵に回しても自分の信じる愛を守り通そうとする沙苗。全身全霊で沙苗を演じきった橋本に、「演じる俳優しか知りえない境地」について語ってもらった。

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愛したホスト、隼人(水上恒司)を刺し殺そうとした沙苗(橋本)は、数年の服役後、お見合いで出会った健太(仲野太賀)と結婚する。平穏な結婚生活が始まったと思っていた矢先、謎めいた隣人の女、足立(木竜麻生)が現れる。普通の生活へ引き戻してくれる健太の温もりを受け取りながらも、隼人への想いを抱き続ける沙苗は“愛し方”の結末にたどり着く。

この日、フリルやレースを何重にも重ねたtanakadaisukeのドレスを身に纏い、ビビッドな赤色の髪で取材陣の前に現れた橋本。生粋のファッショニスタでもある“橋本愛”という人間の感性が見事に爆発していて、「溢れ出す彼女の生命力を、もう誰にも止められない」と思えるほどの輝きと迫力に満ちていた。それはどこか沙苗という難役を見事に演じ切ったからこそたどり着いた新境地のようにも見え、この役柄が橋本に及ぼした影響の大きさについて、なおさら興味を搔き立てられた。

■「沙苗の中のいろんな感情が彼女にとっての“愛”なのではと?と考えることが役作りのスタート」

映画冒頭、血まみれで倒れている恋人を、タバコを吸いながら見下ろし、消火用スプリンクラーから降り注ぐ水に打たれながら不敵な笑みを浮かべる沙苗。狂気とも思える“愛”をはらんだ沙苗の姿は、愛人の男性を絞殺し、局部を切り取った事件で知られる阿部定のようだった。聞くと、橋本自身もこの役を演じる過程で、「まるで神のお告げでもあるかように」阿部定について調べた夜があったという。

「愛するが故に人を刺したり、人を傷つける。普段生きているなかでその感覚に行きつくような瞬間は私にはないので、それはいったいどういう感覚なんだろうと。いろいろ探っていくなかで、どこか運命的に阿部定さんの事件にも行きつきました。『あれは“純愛”なんかじゃなくて“怒り”じゃん!』と思ったんですよね。沙苗の中にももちろん怒りの感情はあるけれど、阿部定さんのそれとはまた違う“執着”であったり、“哀しみ”であったりもする。彼女の中にはいろんな複雑な感情が渦巻いていて、それを“愛”だと沙苗は捉えているのではないか?そう考えたのが、今回の沙苗の役作りのスタート地点でした」

たとえ自身の理解を越えた突飛な行動を取る1ミリも共感できない役柄であったとしても、カメラの前で少なくとも数週間は沙苗として生きる以上、どこかに感情移入できる糸口をみつけて役を作っていくのが俳優の仕事でもある。だが、橋本はそもそもどんな役柄を演じる場合でも、「共感できるかどうか」については必ずしも重視してはいないという。

■「私にとって唯一確かなものは“いま”だから、役を演じるうえでの共感は必要としていないのかも」

「共感って、実はそれほど大したことではないと思います。たぶん私は共感することのほうが苦手で、自分自身の感情や過去の記憶みたいなものを、うまく使うことができないんですよ。たとえば『あ、この感じは10年前くらいに自分も感じたことがあるな』と思ったとしても、いまの自分にないものは何も使えないんです。私にとって唯一確かなものは、“いま”だから。そのうえで、もしもいまの自分が共感できたとしても、やっぱりその役柄と私とでは生きてきた背景が違うので。そういう意味では、私の場合はそもそも演じるうえで、自分自身をあまり必要としていないのかもしれないですね」

「準備段階で沙苗の感情をいろいろと掘り下げていくなかで、『やっとここまで来れた!』と実感できた瞬間があったんです。沙苗が精神科医(木野花)を前にして“私にとっての愛とは――”と、まくし立てる長台詞があるんですが、『これを私は全部本当のこととして言えるな』と感じた時に、『あぁ、これなら大丈夫だ』と思えたんです」

さらに橋本は、「誰かに向かって自分の愛を主張しつづけなければいられない」沙苗という人物について「自分の輪郭がどこか溶けそうになることを固辞しているんじゃないか」と分析する。「言葉にせずとも安心して生きられるなら、誰とも語り合う必要はないと私は思うんですけど、彼女の場合はその都度言葉にしてそれを誰かに示さないと、形を保っていられなかった状態だったのかなとも思っていて。なぜなら自分が絶対的に正しいと信じる愛を、誰ひとりとして理解しようとしてくれないから。『私はこんなにも正気なのに、なぜか狂気とみなされてしまう』という状態に、沙苗はずっと苦しんでいたんじゃないかと思います」

共感ではなく、冷静に分析することで、どこまでも役に寄り添う橋本。では、実際に役を演じている最中の俳優の心身の状態は、いったいどんなことになっているのだろうか。冒頭のタバコのシーンを引き合いに出し、訊いてみた。

■「自分の中身が“空洞”になる感覚になったのは、初めての経験」

「私の場合は、たとえセリフを何も話していない時であっても、心の中では演じている役としての言葉が、止めどなく流れているんです。モノローグが延々と続いているかのように。でも、水に打たれながらタバコを吸っていた場面では、なぜか沙苗の思考みたいなものが全部なくなって。“ただそこにいる”という感覚だけが残った。あんな不思議な感覚になったのは、初めての経験でした」

「そもそも心の声って、私の中には二層あって。表層は実際に声になって聞こえてくる言葉なんですが、二層目はほぼ概念に近い状態の言葉で。それは声としては聞こえてこないんです。日常生活においても、口には出さないだけで、心の中ではいろいろ思っていることが誰しもあったりしますよね。だからこそ、『演じているときもずっとモノローグがある状態じゃないとダメだ』って、以前は思っていたんですけど、今回演じたあのシーンでは、言葉はなくて、自分の中身が“空洞”だったんですよ。もしかするとあの時は、心の二層目にある概念だけの状態だったのかもしれません」

取材の終わり、「沙苗が歩き方が妙に気になった」と感想を伝えると、橋本は「わぁ、嬉しい!」と声を上げ、「あれは、私の中でのダンスをしたつもりなんですよ」と語り出した。

橋本が以前、TV番組で田中泯と対談していたことを思い出して尋ねると、「私は泯さんの踊りも大好きなので、素人ながらにちょっと真似するみたいな感じもあるんです。沙苗って、歩く時も、立つ時も、座る時も、これは踊らなきゃだめだなと思って。それは毎回意識してましたね」

取材部屋に現れたときの橋本を一目見たときに、「まるで橋本愛が爆発しているかのようだ」と感じた理由が腑に落ちた。“いま”を生きている橋本愛は、取材の合間も隙を見て大好きなチョコレートを食べ、いつ何時も踊っているのだ。

「本当ですか!?そう見えます?いや嬉しい!そうなんです。最近、私めちゃくちゃ踊ってるんですよ!コンテンポラリーダンスの舞台を控えていて、実際にもしょっちゅう踊っているし、確かにいまも踊ってる(笑)。これまでは『踊りたい!』という気持ちだけが先行している状態だったんですが、徐々に『踊りとは何か?』ということが自分自身の身体の中に入ってきているのを実感しています。だから私、いますごく楽しいんです」

取材・文/渡邊玲子

『熱のあとに』に主演した橋本愛にインタビュー!/撮影/杉映貴子 ヘア/夛田恵子 メイク/NOBUKO MAEKAWA スタイリスト/清水奈緒美