代替テキスト
「年をとるのは当たり前のことだから、怖がってもどうにもならない。自分のことは自分でやって、あとはセラヴィ~」とからる田村さん(撮影:高野広美)

【前編】86歳、カワイイぼっちでハッピー!オッケー! イラストレーター・田村セツコさんより続く

「生まれ変わったら、私は、もっと自由に生きたい。だから、気ままなネコの絵を描きました」
「私は、生まれ変わったら歌手になりたいので、今日の絵は、憧れのジュリーです」

生徒さん一人ひとりが、本日のテーマ“生まれ変わったら?”を絵にした作品を発表するたびに、教室中から拍手が巻き起こる。

1月9日午前10時15分より、東京・西武池袋本店別館9階にある池袋コミュニティ・カレッジで開催されていた絵日記講座の名称は「ようこそ! 田村セツコハッピー絵画くらぶへ」。

講師を務めるのは、田村セツコさん(85)。1950年代後半から『りぼん』『なかよし』など少女雑誌の表紙や挿絵を手がけたイラストレーターの草分けであり、いまや世界を席巻する日本の“カワイイ”ブームの元祖的存在だ。

20年ほど前にスタートしたこの絵日記講座も、30代から70代までの受講生40人ほどが受講して、キャンセル待ちは半年以上という人気ぶりだ。さらに、発表は続く。

「私は生まれ変わったら……セツコ先生の妹になりたいです」

すると、教室のあちこちから、「私も!」という声が上がるのだった。それを受けて田村さんは、

「そしたら私は、あなたをおんぶしてあげる。もう何十年も前の話だけど、うちの妹たちも、そうやって大きくなったのよ」

その温かくもユーモラスな回答に、教室はさらにハッピーな空気に包まれるのだった。

「40人の生徒さんは、いわば自慢の娘たち。彼女たちの発想や言動には、私にとっていつも新たな発見があるの。だから先生は私じゃなくて、生徒さんたちのほう。それって、スゴイことじゃない!」

80代半ばになる現在も、日々、発見と感動の連続と話す。その気負いのない生き方が今、多くの女性たちを元気づけている。

■7歳で終戦を迎えて。女の子はお姫様の絵を描くくらいしか娯楽はなかった

1938年昭和13年2月4日、東京・目黒生まれ。物心ついたときは、戦争の真っただ中だった。

小2で栃木に疎開。洋服も、すべて器用な母親の手作りだった。

「ミシンで着物をリボン付きの洋服に仕立て直してくれたり、古いセーターの毛糸をほぐして、しゃれた柄に編み直したり。今のカワイイを生み出す私のルーツ? たしかに、そうかもしれません」

7歳で終戦を迎え、東京に戻る。絵日記を描き始めたのは、小4のときだった。

「女の子は誰でも、紙やノートの切れ端に、お姫様の絵を描くくらいしか娯楽がなかったの。

私は小学校だけで4回も転校するなかで、友達がいるのかどうかもわからなくなって、秘密のノートに自分の気持ちを書き込んだり、絵を描いたり。それ以来、小さな鉛筆とメモ帳を持ち歩く習慣ができて、いまだに続いてます」

都立八潮高校在学中に、童画家の松本かつぢ氏に弟子入りする。

「当時の少女雑誌には画家の先生たちの住所一覧が載っていて、ファンレターを送ったのがきっかけ。それから、月1で先生のお宅に通うようになりました」

松本氏の指導を受けながら、高校卒業後は銀行に就職。

「銀行勤めというのは、やっぱり長女として家計を助けたいという思いがありました。一方、かつぢ先生のところへ通い始めて1年ほどしたころ、先生から編集者を紹介されてデビューします。

とはいっても、銀行員との二足のわらじですから、お昼休み神保町の出版社にイラストを届けたりで、交通費にもならないような原稿料でした」

銀行の秘書室の仕事は楽しかったが、絵を描きたいとの思いは募るばかり。そんなある日。

「ビルの屋上から、ふと見下ろすと、ホームレス風のおじさんがゴミ拾いをしているのが目に入って。その姿が、なんとも自由でいいなぁ、と思ったんです。それで、決心がつきました」

退職することにしたが、両親は当然というか、猛反対だった。

「安定していたし、そのまま銀行にいたら、きっと縁談にも困らなかったでしょうからね(笑)」

田村さんは、ふたりの前に正座して、3つの誓いを述べていた。

「後悔はしない、愚痴は言わない、経済的負担もかけませんから」 翌日から、出版社を営業で回る日々が始まった。

■順風満帆のイラストレーターの生活から父の介護、さらに母と妹のW老老介護に奔走

「当時の少女マンガの編集部は、まだまだ完全な男性社会。私は、ひとつイラストを頼まれたら10パターンくらい描いて、『好きなものを使ってください』と、そんな努力は惜しみませんでした。古本街で海外の『エル』や映画雑誌を見て、モデルや女優さんのファッションを学んだりも」

地道な頑張りが、やがて大きな転機を引き寄せていく。

「ある画家の先生が急な高熱で、『少女クラブ』増刊号8ページ分の挿絵に穴があくというんで、編集部全員が真っ青な顔になっていた。そこで『明日の朝までに描ける?』と聞かれたから、私は『もちろんです!』と」

徹夜で仕上げて、その増刊号が発売になった途端だった。

「8つもの名だたる出版社から、『ウチにも、あんな絵を』とオファーが押し寄せたの。ようやく、やりたいことができるんだと安堵すると同時に、人生、何がきっかけになるかわからないと。私にチャンスをくれた、そのご病気をしてしまった先生には、いつもひそかに感謝しています」

22歳で『りぼん』のおしゃれページで連載がスタートしたのを皮切りに『なかよし』や『小説ジュニア』などでも活躍。30歳になるころには、彼女の描くイラストをあしらった文房具などの、いわゆる“セツコグッズ”が日本中を席巻。やがて前出の『いちご新聞』連載や、名作童話の装丁など仕事の幅も広がっていった。

ところが、順風満帆なイラストレーターとしての生活が続いていた52歳のとき、父親の一雄さんが突然倒れる。ここから、田村さんの長い家族介護の日々が始まった。

脳梗塞でした。父は病院のベッドでチューブにつながれてという、当時の典型的な延命措置を施されたケースでした。病床で娘の私に『家に帰りたい』と漏らしたときの切なさは忘れられません。

6年間、寝たきりで父は亡くなりましたが、この体験が、その後の私たち家族の介護に対する考え方に大きな影響を与えたんです」

2003年、今度は母親のキヨさんが、大腿骨を骨折。医師と入院の相談をしている最中、キヨさんはきっぱりと娘に告げた。

セツコ、私は自宅!」

一雄さんの介護体験からくる言葉であるのは、明らかだった。

「母が91歳で、私は60代後半。周囲は『老老介護で共倒れするよ』の大合唱。加えて、町田の自宅にはパーキンソン病で寝たきりの妹もいて、W介護でしたから。でも、私はあまりに反対ばかりされるから、逆に興味を持ったの(笑)。

下の世話も平気でしたよ。だって、今まで体に栄養をくれたものが役目を終えて出てくるわけだから。紙オムツを替えながら『ごくろうさま』といった思いでした」

イラストレーターという、自宅でできる仕事だったのは幸運だったかも、とふり返る。

「母親と妹の部屋の間のリビングで絵を描いたり。その妹も、私がおんぶして子守りしてたでしょう。それで、きっと骨が丈夫になっていた。おんぶの筋トレね(笑)。だから、私自身が健康だったからできたことでもあるんです」

キヨさんとの老老介護も6年続き、母は97歳で、続いて妹も天国へと旅立った。

「母は、いわば天寿を全うしましたが、妹は病床で『お姉ちゃんと原宿で暮らしたい』と言い続けましたから、最期は切ない思いも強かったです」

その深い悲しみから救ってくれたのが、冒頭の絵日記講座での出来事だったという。田村さんが、妹の危篤の報を受けて駆けつけようとするとき、一人の生徒さんが言った。

「妹さんは、まもなく美しい世界に行くんです。苦しみからも解放されるんです」

改めて、自分は周囲のさまざまな立場の“先生”たちから助けられているのだと知った、と語る。

こうして20年前から現在まで続く、田村さんひとり暮らしが始まった。

■女性ひとりでも元気に生きられるヒントが“セッちゃん”の日常のなかにあふれて

「この店は、私の“ご近所さん”のひとつで、お付き合いはもう30年近く。

母や妹の介護をしていたときには、当時飼ってた猫を預かってもらったこともありました。ここでインタビューを受けたり、片隅の小机で仕事をすることも」

原宿のビル地下にある「シーモアグラス」。

絵本やアートに出合える喫茶店として知られ、店内には田村さんの作品も飾られている。女性店主が語る。

「うちのお客さまのなかには、子供のころからのセッちゃんのファンという方もいらして、ここでバッタリということも。すると、なかには感激で突然涙する人もいて。セッちゃんは、いつも必ず相手の手を握りながら『がんばってね!』と声をかけている。誰にも分け隔てない姿は、ずっと変わりません」

シーモアグラスを出ると、田村さんは、「もうひとりのご近所さんにも会っていって」と言う。マンションの同じフロアに住む森山順子さん(77)宅にお邪魔した。

「うちのテレビはNHKが映らないって言ったでしょ。昨夜も、ここの大画面テレビで、クラシックコンサートを見せてもらったの。私と順子さん、あと数軒先に50代の気のいい男性がいて、3人でよく集まってます」

田村さんが言えば、森山さんも、

「お仕事のときもふだんも変わらない、フランクな“セツコさん”。大都会のマンションで、ひとり暮らし同士が、まるで昭和のようなご近所付き合いができるのも、彼女の人柄のおかげだと思います」

その間も田村さん、見たかった番組が録画されているはずと、テレビを操作していたが。

「ねえ、リモコンの使い方がわからないのだけど!」

女性がひとりでも元気に、ハッピーに生きていくヒントが、“セッちゃん”“セツコさん”とみんなから気安く呼びかけられる田村さんの日常のなかにあふれていた。