JR常磐線の馬橋駅から流山駅までの5.7kmを運行する流鉄流山線。「町民鉄道」としてスタートし、108年の歴史を持つローカル鉄道は、“新線”の目覚ましい発展を横目にのんびりとした時間が流れています。でも、利用客は多いです。

元・西武鉄道の電車が走っている

流鉄流山線は、JR常磐線の馬橋駅(千葉県松戸市)から北へ、流山駅(同・流山市)までの5.7kmを結ぶ鉄道です。東京駅から馬橋駅までは最短37分と便利な距離にあり、流鉄の1日乗車券購入時にもらった「電車カード」には、「都心から一番近いローカル線」と書かれています。

短い路線ですが、流山線は長い歴史を有します。1916(大正5)年に町議会議員の秋元平八が発起人となり開業した「流山軽便鉄道」を祖としており、当時は役員・社員の大半が流山町民で、取締役も流山町長。株主の多くも町民でしたから「町民鉄道」とも呼ばれていました。その名残から、現在でも出資者に流山市が入っています。

開業当初の経営は苦しく、蒸気機関車を運行する石炭を、地域のみりん会社から借りるほどでしたが、第一次世界大戦後の好景気などもあり、線路幅をJRなどと同じ1067mmへ改軌することも実現しました。

太平洋戦争を経た1949(昭和24)年には電化も行います。この際には国鉄から電気を借りるという、全国で唯一の電化方式でした。現在は自前の変電所を所有しています。そして電化後には社名も「流山電気鉄道」→「流山電鉄」→「総武流山電鉄」と変化し、現在の「流鉄」となったのは2008(平成20)年のことです。

使用車両を見ると、西武鉄道の古い車両が使われています。これらは2009(平成21)年に「5000形」として導入された元・西武新101系電車です。編成ごとに「流星」「流馬」といった愛称が付けられていますが、命名は1978(昭和53)年に初めて西武鉄道から車両を導入した時より、公募にて行われています。

つくばエクスプレス開業で打撃…

流山線の乗客数は増え続け、1993(平成5)年には年間利用客610万人を超えました。列車本数も増発が続けられ、1996(平成8)年時点の列車本数は72往復/日でした。

順調に来た流山線ですが、2005(平成17)年のつくばエクスプレス開業の影響は大きく、以降は乗客減となりました。2024年1月現在の列車本数は64往復/日です。

全部で6駅と短い流鉄。筆者(安藤昌季:乗りものライター)は2024年1月、全駅下車の旅を実行しました。乗車したのは馬橋駅の隣駅である幸谷駅です。

同駅は1980年代、国鉄(現・JR)武蔵野線の新松戸駅に近づける形で300m移転した経歴があります。駅舎はマンション「流鉄カーサ新松戸」の1階にあり、不思議な雰囲気です。なお、駅開業時は地名が「幸谷」だったのですが、現在では地名が「新松戸」となっているので、駅名の由来が分かりにくくなっています。幸谷駅からは100mほど離れた近いところに、大きな新松戸駅が見えます。

窓口で1日乗車券を買い、ホームに出ます。ICカードは非対応で、改札はまるで昭和のよう。ちなみに東京駅から最も近いICカード非対応駅です。到着した列車にはヘッドマークが付いており、愛称はどうやら「あかぎ」号のようです。

住宅すれすれを電車が走る風景が続きます。車窓右側には田畑も見え、交換駅である小金城趾駅に到着しました。ワンマン運転の電車から女性運転士がホームに降り、行き違い列車を待ちます。

小金城趾ってどんなとこ?

「小金城趾」駅ですから、城跡が近くにあるのでしょう。駅の階段を上がると駅舎があり、レトロな窓口では定期券を買う女性客の姿もありました。流鉄は全駅が有人です。橋上駅舎はかつて「大金平県営住宅」と一体でしたが、住宅が解体されたため、現在は高い位置にポツンと建物があります。

近隣の小金城趾は徒歩10分の距離ですが、案内板はありませんでした。小金城は戦国時代1537年に築城され、後に上杉謙信による関東侵攻時などで攻撃されましたが、籠城で守り切ったそうです。その後は豊臣秀吉小田原征伐で落城し、廃城は1593年。建築物は現存せずとも、幅4m、深さ2.5mの堀は見ごたえがありました。

駅に戻り、次の鰭ヶ崎(ひれがさき)駅に向かいます。新板川が並行に走り、車窓が変化しました。板川を鉄橋で渡ると、再び市街地を縫って走ります。鰭ヶ崎駅のホームには花壇があり、自販機やトイレも設置されていました。ここからJR武蔵野線つくばエクスプレス南流山駅は、地図上では近く見えます。

下車して歩いてみると、徒歩10分の距離でした。つくばエクスプレスが、流鉄の利用に影響したことは無理もないと思います。

鰭ヶ崎駅を出るとつくばエクスプレス高架下を抜け、さらに街並みを進むと、土地が開けました。イトーヨーカドー流山店が見えると平和台駅に到着です。

「赤城」駅として開業した同駅ですが、平和不動産が開発・分譲した住宅地に合わせて、1974(昭和49)年に「平和台」駅に改められました。終点の流山駅との距離は600m程度と近く、流山駅に停車している列車が見えるほどです。

利便性の高いローカル線

平和台駅を出ると1分で終点の流山駅に到着しました。駅構内には車両基地もあり、5000形さくら」「なの花」号が休んでいました。駅ホームには流鉄カラーの自販機やキャラクターパネルも置かれています。駅舎は趣きのある建物で、改築はされているものの、一部は開業時からのものです。

市街地にも、登録有形文化財の呉服新川屋店舗や、寺田園旧店舗といった古い建物が多く、街並みの雰囲気にもマッチした駅舎です。

おおむね15~20分ごとに運転されている利便性の高さもあり、利用客はかなり多く、折り返しの列車にはすぐに乗客が乗りこんでいきました。筆者は「若葉」号に乗車し、馬橋駅まで通しで向かいます。

多くの乗客が下車したのは幸谷駅。ここから馬橋駅までも、新坂川に並行しながら進みます。新坂川さくら通りという道路も並行しており、春には美しい風景が見られるでしょう。

終点の馬橋駅には、古風な駅名標や待合室がありました。ちなみにJR常磐線と並走する馬橋~幸谷(新松戸)間の運賃は、JRが150円、流鉄が130円。流鉄の方が安いですが、所要時間はJRの方が1分少ないです。

流鉄は全線を通して「のんびり走る、癒しの路線」だと感じました。「都心から一番近いローカル線」、気軽に気分転換に来られそうです。

元・西武101系電車の流鉄5000形(2024年1月、安藤昌季撮影)。