「潮風テーブル」(喜多嶋隆/KADOKAWA)第2回【全5回】

湘南の港町にある素朴な魚介レストラン「ツボ屋」、別名「ビンボー食堂」。店主である女性・海果が、中学生の少女・愛や町の人々の助けを借りて細々と経営している。町が観光客で賑わい稼ぎ時となる夏、大型台風の到来やライバル店のオープンなどが重なり未だかつてないピンチを迎えてしまう。「お前には用がない」と戦力外通告された過去をもつ海果と、家族がバラバラになってしまった愛――それぞれが心の傷を抱えながらも、いまの自分の居場所を守るために奔走する。心温まるヒューマンドラマと美味しそうな料理の数々が魅力的な「潮風テーブル」の冒頭部分をお届け!

※2023年9月30日掲載、ダ・ヴィンチWebの転載記事です

■2. エーちゃんは、ひどく調子っぱずれ

「何!?」とわたし。

「1階だよ!」と愛。

わたしたちは、ベッドから出た。幸い、停電はしていない。恐る恐る、1階に降りる……。

店は、大丈夫。何も起きていない。その奥にある風呂場に行く……。そこで、わたしたちはかたまり、口を半開きにしていた。

お風呂場の壁に穴が開き、ボートの先端が突っ込んでいた。

「これって……」とわたし。

「砂浜に捨ててあるボート……」と愛。

うちの店から歩いて20秒で森戸海岸の砂浜に出る。

そこには、古いボートが捨てられている。貸しボートで使われていたボートだ。

その朽ちかけたボートたちは、砂浜に重ねて捨てられている。

その1艘が、強風にあおられ、飛んできたらしい。

ボートは、運ぶのが楽なようにFRPという樹脂で出来ている。あまり重くはない。

そんなボートが、台風の風にあおられて飛んできて、お風呂場の壁に突っ込んだらしい。

「はあ……」とわたし。

愛も、口を半開きのまま、その光景を見ている。

呆然……。

「ぶったまげたな、こりゃ」

とオジさん。苦笑いしながら言った。

翌朝の10時。台風は、もう関東地方を行き過ぎ、三陸沖に……。

愛と仲のいい同級生が、トモちゃんという子だ。彼女の家は、葉山で工務店をやっている。

そこで、朝一番、愛がトモちゃんに電話した。

〈風呂場の壁に、ボートが突っ込んだ。なんとかして〉と……。

そしていま、トモちゃんのお父さんが、工務店の若い衆を二人連れて、来てくれたのだ。

「まあ、このボートは大人二人で楽々運べるぐらい軽いから、あのすごい強風にあおられて飛んできても不思議ないなあ」

とトモちゃんのお父さん。

もう、若い衆たちが壁に突っ込んでいるボートを撤去しはじめた。家の壁が、メリメリと音を立てて崩れる……。

「修理には4、5日かかるなあ、建材を用意しなきゃならないし」

とトモちゃんのお父さんは言った。

とりあえず、壁に突っ込んでいるボートは撤去された。けれど、壁にはすごく大きな穴があいている。穴というよりは、風呂場の壁の一部がなくなったと言える。

工務店の若い人たちが、そこに目隠しのブルーシートを張りはじめた。

「覗かれないかなあ……」

と愛。もそもそと下着を脱ぎながら言った。

「大丈夫じゃない?」とわたし。頭からTシャツをすっぽりと脱いだ。

夜の9時過ぎ。

わたしたちは、お風呂に入ろうとしていた。

今日1日、台風の後片付けをした。潮と砂まみれになった店の窓や壁を洗ったり、飛び散ったバケツなどを拾い集めたり……。

そんな1日が終わると、汗びっしょり。お風呂に入らないわけにはいかない。

けれど、お風呂の壁には大きな穴があいている。

工務店の人がブルーシートを養生テープで貼ってくれていたけれど……。

「覗いたりする物好き、いないよ」

わたしは言った。

お風呂の外は、細い道。昼間は観光客が行き来するけど、夜のこんな時間に通る人はほとんどいない。

わたしは服を脱ぎ、バスタブに入った。愛も裸になり入ってくる。

この家を作ったわたしのお爺ちゃんは、元漁師。海の仕事から帰るとお風呂に入るのが楽しみだった。

なので、バスタブはかなり大きい。わたしと愛は、そのお湯に首までつかり、

「ああ……」と一息ついた。

その歌声が聞こえたのは、10分後。

なんか、オッサンの歌声が近づいてくる。たぶん〈エーちゃん〉こと矢沢永吉の曲……。

ただし、えらく調子が外れている。エーちゃん本人が聞いたら嘆くだろう。

オッサンは、どうやらひどく酔っ払っているようだ……。やがて、ブルーシートの前で立ち止まったようだ。

ろれつの回らない声で、

なんだこれ」と言い、ブルーシートをはがそうとした。バリッとテープがはがれかかる。

「あ!」

と首までお湯につかっていた愛。バスタブで立ち上がろうとした。

けれど、オッサンが、店のノレンを分けるようにシートをめくった方が早かった。

「きゃ!」

と愛。バスタブの中で叫んだ。上半身は、お湯から出ている。

愛を見たオッサンは、とっくに60歳を過ぎてるだろう。

陽灼けした坊主頭に、はちまき。その目の焦点がまるで合っていない。「あ、風呂場か」とつぶやいた。相変わらずろれつが回っていない。

愛は、あわてて胸を隠そうとした。けれど、オッサンは、

「ごめんな、坊や」と愛に言った。

また調子っぱずれで〈エーちゃん〉らしい曲を歌いながら、よろけた足どりで歩き去っていく……。

「見られた……」

と愛がつぶやいた。その顔が完熟トマトのように赤い。

わたしは笑いながら、「スッポンポンを見られたわけじゃないんだし、どうってことないよ」と言った。

見られたのは、おヘソから上。しかも、相手はベロベロに酔っぱらったオッサンだ。

でも、愛はふくれっ面

「でも……坊やって言われた……」

と口をとがらせてつぶやいた。わたしは、また笑い声を上げた。

愛は、いま髪を後ろで束ねている。

基本的に痩せていて、中2にしては、胸の膨らみがほとんどない。

ベロベロに酔っぱらったオッサンが、そんな愛の上半身をチラッと見て〈坊や〉と言ったのも不思議ではない。

けれど、愛は納得していない表情。鼻までお湯に浸かった。

お湯に、ぶくぶくと泡が立っている……。

「〈坊や〉かよ……」と一郎。

「愛にはちょっと可哀想だが、思い切り笑えるな」と言った。

午前11時。魚市場では、まだ台風の後片付けをしている。

海にはまだうねりが残っている。漁船はみな、岸壁に舫われている。

しかと思って一人で来てみたのだけど、魚もイカも落ちていない。

わたしは、一郎に昨夜の出来事をさらりと話したところだった。ひどく酔っ払ったオッサンに風呂場を覗かれた事。そのときの愛の様子など……。

聞いた一郎は笑い続け、

「ドジな愛らしいな」と言った。そして、「風呂の修理がまだなら、うちで風呂に入ればいいよ」と言ってくれた。

そこへ、魚市場で働いてるらしい10代の男がきた。

「一郎さん、船の増し舫い、そろそろ解きますか?」と訊いてきた。

「そうだな、やろう」と一郎。

彼は、この漁協では青年部長という立場だと聞いた事がある。若手のリーダーという事らしい。一郎はわたしに、

「じゃ、夕方、風呂に入りに来いよ」と言い船の方に歩いて行く。

一郎の家に行くのは、初めてだった。

鐙摺の漁港から、歩いて1分。

コンクリートブロックの塀に囲まれた、ごく普通の二階家。

家のわきに、古いブイや漁網が積み重ねてある。漁師の家らしさはそれぐらいのものだ。

「入って」と一郎。わたしと愛は、リビングルームに入った。

いま、お父さんもお母さんもいない。

「親父たち、まだ定置網や刺し網の修理をやってるんだ。風呂に湯を入れといたから、入っていい」

と一郎。わたしはうなずく。愛に、

「先に入っていいよ」と言った。愛は、うなずく。タオルなどを持ち、風呂場に入っていく……。

「すごいトロフィー……」

わたしは、思わずつぶやいた。

かなり広いリビングの隅。たくさんのトロフィーや写真が飾ってある。

それは、野球選手としての一郎が獲得してきたものらしい。

「こういうの飾るってあまり好きじゃないんだけど、親父やお袋がどうしてもって言ってさ……」と一郎。わたしはうなずき、それを眺めた。

中学時代の大会優勝トロフィー。高校時代のトロフィーがいくつも……。

そして、優勝旗を持ってチームメイトと撮った記念写真。

さらに、ドラフト会議プロ野球入団が決まったときのものだろう。横浜のチーム・ユニフォームを着て、球団の代表らしいおじさんと握手してる写真……。

そんな、トロフィーや額に入った写真がいくつも並んでいる。

それを眺めていたわたしは、その斜め後ろにある1枚の額に気づいた。

ほかの額に隠れるように、そっと置かれている額……。

「これは?」とつぶやいて、わたしはそれを手にした。手にして、思わず無言……。

そこには、一郎と愛が並んで写っていた。

「潮風テーブル(角川文庫)」(喜多嶋隆/KADOKAWA)