日本と中国のあいだで勃発した満州事変はどのようにはじまったのでしょうか。事件に至った背景と、勃発後の日本についてみていきましょう。『大人の教養 面白いほどわかる日本史』(KADOKAWA)著者で有名予備校講師の山中裕典氏が、1930年代の社会情勢について解説します。

満州事変に至る背景と勃発後の経緯

北伐の完了後、中国ではナショナリズムが高揚し、欧米や日本から権益を取り戻す国権回収運動が進行しました。これに対し、重要な資源供給地・市場である満州は「日本の生命線」だと叫ばれ、関東軍石原莞爾らを中心に満州占領計画を立てて軍事侵略で権益を確保しようとしました。

当時、国民政府(蔣介石)は国内統一深化のため、共産党との国共内戦に注力していました。

関東軍は、奉天の郊外で満鉄の線路を爆破する柳条湖事件(1931.9)を起こし、これを中国側の策略だとして、自衛を口実に軍事行動を開始し、満州全土を占領しました(満州事変 1931~33)。これは九カ国条約に違反する可能性があり立憲民政党が与党の〔第2次若槻内閣〕は幣原外相のもとで不拡大方針をとりました。

しかし、世論やマスコミは軍の行動を支持し、事態を収拾できず総辞職しました。協調外交方針の幣原外交は、こうして終わりました。

立憲政友会が与党の〔犬養毅内閣〕に変わると、中国本土で日本軍中国軍と衝突する第1次上海事変も発生しました。

国際連盟の動向にどのように対処したのか

国民政府は、満州事変への軍事的な対応には消極的で、国際連盟に提訴しての解決を図りました。国際連盟リットン調査団を派遣し、「自衛」という日本の主張と「一方的な侵略」という中国の主張の正否を調査しました。

ところが、調査の終了前に、関東軍は清の最後の皇帝だった溥儀を執政として、満州国の建国を宣言させました。〔犬養内閣〕は、満州国を承認しないまま五・一五事件(1932)で倒れ、海軍の〔斎藤実内閣〕は、日満議定書を結んで満州国を承認しました。満州国は、日本の軍人・官僚が実権を握る、事実上の植民地でした(のち溥儀は皇帝となる)。

その後、リットン報告書日本軍の行動や満州国の存在を否定)が提出され、国際連盟の臨時総会が開催されて日本軍の撤兵を求める(ただし日本の満州権益は認める)対日勧告案が可決されると、これに反対した全権の松岡洋右らが総会から退場しました。その直後に日本は国際連盟脱退を通告し、国際的孤立の道を歩むことになります

最終的に塘沽停戦協定(1933)で満州事変は終結し、国民政府(蔣介石)は満州国の存在を事実上黙認しました。その後の満州国では、昭和恐慌の被害を受けた農村からの開拓移住政策が進められました。

海軍の〔岡田啓介内閣〕のとき、日本はワシントン海軍軍縮条約廃棄を通告し、ワシントン体制から離脱して大軍拡を開始しました

五・一五事件が発生したワケ

現状に危機感を抱く軍部の将校指揮官)や右翼が、既存勢力を打倒して軍217近代・現代Ⅳ中心の国家体制にする国家改造を唱えるなか、陸軍結社の桜会と右翼によるクーデタ(政党内閣打倒・軍内閣樹立)未遂事件が発生しました(〔浜口内閣〕での三月事件〔第2次若槻内閣〕での十月事件)。

さらに、立憲政友会が与党の〔犬養内閣〕のとき、井上日召が率いる血盟団が前大蔵大臣の井上準之助と三井財閥幹部の団琢磨を暗殺しました(血盟団事件 1932)。昭和恐慌が続くなか、政党内閣や財閥への不満が右翼のテロを生んだのです。

そして、海軍の青年将校らが首相の犬養毅を殺害する五・一五事件(1932.5)が発生し、内閣は総辞職しました。元老西園寺公望は次の首相に政党の党首を推薦せず、「憲政の常道」と呼ばれた政党内閣の慣行は終わりました

強められていった学問・思想に対する弾圧

共産主義者への弾圧が強まるなか(プロレタリア作家の小林多喜二が特高に殺害される事件も発生)、共産主義思想を放棄する転向が相次ぎました。また、無産政党は天皇のもとでの平等社会の実現や国家による資本主義の制限などの国家社会主義に転じ、社会大衆党は軍に接近して戦時体制に協力しました。

海軍〔斎藤実内閣〕は「挙国一致内閣」(立憲政友会員・立憲民政党員・官僚・貴族院議員・軍人が大臣となる)と呼ばれます。このとき、京都帝国大学教授滝川幸辰の自由主義的な刑法学説に対し、右翼から「共産主義的だ」と非難する声が上がり、事態を収めたい文部省(鳩山一郎文相)が京大に圧力をかけて滝川が休職処分となった、滝川事件が起きました。

海軍〔岡田啓介内閣〕では天皇機関説問題が発生しました。美濃部達吉の学説は憲法解釈の正統とされてきましたが、貴族院で「美濃部の学説は日本の国体に反する」という非難が上がり、軍部・右翼による排撃運動が激しくなると、政府は美濃部の著作を発禁処分とし、美濃部は貴族院議員辞職に追い込まれました。

そして、内閣は国体明徴声明を発し、天皇制が日本の国体であるとして、天皇機関説を否定しました。こうして、政治の力によって学問の自由が奪われ、政党政治の理論的根拠が失われたのです。

軍部によるクーデタの結果

陸軍内で、財閥や官僚など既存の勢力と結んで軍の影響力を拡大し総力戦体制をめざす統制派と、重臣や政党などの支配層を武力で排除し天皇親政をめざす皇道派との派閥争いが激化するなか、陸軍皇道派の青年将校が部隊を率いて首都を占拠し(二・二六事件1936.2)、高橋是清蔵相や斎藤実内大臣らを殺害しました。

しかし、戒厳令が発動され、昭和天皇の指示で彼らは「反乱軍」として鎮圧されました。これを機に、軍部は公然と政治介入を強めました

山中 裕典

河合塾東進ハイスクール東進衛星予備校

講師

(※写真はイメージです/PIXTA)