その旋律に触れたとき、儚げなのに身を任せられる安心感に包まれた。『月光』――ピアニストのDAKOKU氏(48)がキングレコードから発売した楽曲だ。

 DAKOKU氏には作曲家、ピアニストのほかに、放課後等デイサービスなどを運営する福祉施設の運営責任者としての顔もある。幼少期から音楽に親しんだピアニストが障害者福祉と出会うまでの軌跡は、あまりに波乱に満ちていた。

 DAKOKU氏がピアノと出会ったのは幼少期。一緒に暮らしていた祖父がピアノに引き合わせたのだという。

◆祖父の厳しい指導に耐えかねて夜逃げを決行

祖父はピアニストを断念して別の学問で大学教授まで上り詰めた人で、指導は非常に厳しいものでした。間違えたらゲンコツは当たり前で、決められたピアノの練習時間中は、トイレへ行くのにも許可が必要でした。私の練習中はいつも後ろで腕を組んでいて、威圧感がありました。今思い返してもスパルタ教育だったと感じます。祖父がピアノをさせたかったのは私だけで、妹は強要されることはありませんでした。男でピアニストというのが、祖父にとってステータスだったのかもしれません

 音楽修業が奏功してDAKOKU氏は音楽の名門・国立音楽大学へと入学するが、その前に一騒動あった。

私が高校3年生の頃、祖父母の旅行中に、父母が私と妹を連れて、祖父から夜逃げをしました。理由は、祖父の私に対する指導が行き過ぎていたからです。当時、あまりに暴力がひどく、顔に生傷が絶えず、口腔内から出血することもしばしばありました。特に母はそれが我慢ならなかったらしく、私たちは母の親戚の自宅に身を隠しながら、母の名義で購入した物件に移り住みました。祖母はとても良くしてくれたので、旅行から帰ったら家族がいない状態になっていて、きっと驚いたのではないかと思います」

◆「音楽をやって何になるのだろうか」と思い悩む

 もちろん、青春を捧げたピアノは夜逃げする際にもクレーン車で運び出すほど大切に扱った。だが音大入学後、DAKOKU氏は悩みの入口に立つことになる。

「当時は、『なんとかして音楽で身を立てなければ』と焦っていました。しかし全国から集められた音楽エリートは猛者揃いで、彼らの才能に比べて自分が見劣りすると嘆いては、音楽の勉強よりも『音楽をやって何になるのだろうか』とか『自分には才能があるのだろうか』ということを考えるようになっていました

◆両親の離婚で一家離散。ピアノも売却

 悩める芸術家の繊細な心はまさに小舟。その小舟をさらに荒波が襲う。

大学2、3年のときに両親が離婚し、それに伴って家族は離散しました。私は大学を辞め、独り暮らしをしながら細々とアルバイトで食いつなぐ日々になりました。新しく建てた家には母が住み、父は祖父母と暮らしていた元の家に戻る形になりました。私たちの夜逃げからほどなくして祖父は亡くなったようで、祖母だけが残っていたのです。母はローンを抱えて、経済的に非常に困窮しているように見えました。そのため私は、金になりそうな楽器などを次々に売り払い、最後はピアノを売って、母を助けようと試みました。

 当時の私には、文字通り何も残っていませんでした。30歳目前まで、私はたまに音楽をやりながらも『ここまでの苦労をして一つの芸を身につけて、結局、社会には通用しないのではないか』という疑念に苛まされ続ける日常を生きました。ときには作曲の先生に師事しながら音楽を続けようとしましたが、劣等感や不安感が拭えるまでにはなりませんでした」

◆シングルマザーと結婚するも「自分に幻滅」

 だが29歳のある日、DAKOKU氏の人生は曲がり角を迎える。

ある女性と出会って意気投合し、結婚することになったのです。彼女はひとりの子どもを育てるシングルマザーでした。正直、自分も『人の人生を背負う立場になれば、鬱々と悩むこともないかな』と踏ん切るきっかけを探していた面がなくはありません。しかし夫であるとともに父親にもなれた日々は、それなりに充実していました」

 だが養子に対して自分が抱いた感情によって、DAKOKU氏は再び悩んでしまう。

「父親であればできて当たり前のはずの、一緒に入浴すること、汚物を処理することなどに対して、どうしても抵抗を感じてしまう自分を発見してしまったのです。養子ではありますがきちんと愛情をもって向き合っていたつもりでも、『自分は本能的に持つべき親心さえ持てないのか』と自分に幻滅しました」

◆生まれた娘は「重度の知的障害」で…

 そこでDAKOKU氏はひとつの結論に行き着いた。

「自分の子どもを作ろうと思ったんです。そうすれば、何か変わるかもしれない。幸運にも子どもが生まれたのですが、娘は先天的に脳内奇形があって、重度の知的障害がありました。自分が先に死んだ場合、この子はどうしていくのだろうという不安が常につきまといました」

 話すことはおろか、座ることもできない娘。しかし医療の発達によって、わずかに光明はみえた。

娘は頭蓋骨のなかに突起があって、それが脳を分断するような形になっていたようです。開頭手術をすることによって、遅延している発達が少し促されるかもしれない――医師からはそう伝えられました。あわせて、その手術の影響で、てんかん発作が起きやすくなるリスクも説明されました。私は、娘の将来が少しでも拓けるならと祈る気持ちで、手術を選択しました

◆勤め先から追放、そして離婚することに

 術後経過は概ね良好で、DAKOKU氏の娘は「パパ」「好き」などの単語を発するまでになったという。さらに、座ることさえままならなかった娘が走ることができるようになった。だが医師の懸念どおり、てんかん発作は頻繁にみられるようになった。

 良いことばかりも続かない。DAKOKU氏は役員として勤めていた企業を追放されてしまった。

「41、42歳の頃、社内のトラブルに巻き込まれ、会社を去ることになってしまいました。1年近く、自宅にこもって音楽をやっていたと思います。また以前のように、音楽と向き合うことで『音楽に何か意味があるのだろうか』と再び隘路(あいろ)に入ってしまいました。しかし、そこで発見したこともあります。娘が音楽に乗って楽しそうにダンスをしているのです。歌詞も合っていないしリズムがズレていることはあるけれど、とても楽しそうに身体を動かすのです。私は『音楽の理論や技術を知らない人さえも思わず楽しい気分にさせるのが音楽の魅力なのではないか』と思うようになりました。誤解を恐れずに言えば、理屈にがんじがらめになっている健常者よりも、何も知らない障害者のほうがよほど音楽を楽しんでいると思うのです

 音楽と障害者をつなぐ仕事がしたい――その希望に押し出されるようにして、DAKOKU氏は前述の福祉事務所への転職を果たす。

「しかし順風満帆とはいきませんでした。今度は私生活で、妻と離婚したのです。離婚のショックよりも、妻に引き取られた娘のことが気がかりでした。私は娘をはじめとする、障害を抱えて生まれた子に届く音楽を作ろうと奮い立たせて生きてきたため、娘との別れはとてもつらかったです」

◆早世した娘から教えてもらったこと

 さらに悪いことに、別居など比にならない悲しみがDAKOKU氏を襲う。

2023年10月、就寝中にてんかん発作が起きたようで、うつ伏せに寝ていた娘は窒息死してしまいました。享年15歳でした。今でも、自分のなかで整理がつきません」

 自らの拠り所としていた音楽の意義を疑った時期もあり、しかしその音楽に娘とともに救われた。にもかかわらず、娘には永劫会えない。失意のなかにいる現在のDAKOKU氏を支えるモチベーションは何か。

重度知的障害を抱えて生まれた娘は、その駆け抜けた15年間で私にさまざまなことを教えてくれました。音楽を聴いてノリノリになったり、あるいは高尚な表情を見せたり、いろいろな気分に浸らせてくれますが、その真髄が『人を癒やす力』に溢れていること。そして、音楽は難しい理屈を知らなくても楽しめること。障害を抱える子が起こしたパニックを落ち着かせるためのCalm down musicを勉強したこともあります。また私は障害を抱える子どもたちが好む音楽だけではなく、嫌いなコード進行なども研究しています。そしてそれらを避けるように作った楽曲が、『月光』であり、他の私の音楽なのです」

◆通常のコンサートは“マナー”が重視されがちだが…

 DAKOKU氏は障害者が音楽に触れる機会の少ない実情を指摘したうえで、こんな試みを明かす。
 
コンサートであっても演奏会であっても、通常は演者の邪魔にならないよう“マナー”が重視されますよね。障害者は曲の盛り上がりに応じて感じる興奮を抑えることができないため、少なくとも通常の音楽イベントに参加することは不向きだとされています。私は、障害を抱える子どもやその家族が参加できる音楽イベントを成功させたいと考えています。演奏者はプロのアーティストで、曲中に奇声を発しても、踊りだしても、手拍子をしても、はたまた壇上に上がっても、それを異常なことと捉えない空間。そんな場所を作りたいと考えています。実は現在、その構想は進みつつあります。まずは私の住む静岡県から準備をしていくつもりなんです」

 そう話すDAKOKU氏に、音楽について思い悩む以前の面影はない。“何のための音楽なのか?” 学生時代から悩み続けた問いの解は、満足に言葉を持たないで産まれた娘が示してくれた。言葉によるやり取りを超えて娘から受け取ったものの意味は、途方もなく重い。その宝物を抱えて、障害を抱える娘の仲間たちに届ける旋律を浮かび上がらせる。それは多くの聴く人々の魂を癒やし、DAKOKU氏さえも癒やし、そして眠りについた娘への壮大なレクイエムにもなるかもしれない。

<取材・文/黒島暁生>

【黒島暁生】
ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki