【気仙沼発】ストックホルムで出会い、ロンドンで5年間暮らした後に帰国した三浦夫妻だが、ニューヨークに11年、サンタフェに3年、ロサンゼルスに17年滞在し、それぞれにアトリエをもち、まさに世界を股にかけて活躍してこられた。そんな三浦さんたちが再び日本に戻ってきたのは2018年のこと。永年さんの故郷、登米市に宮城芸術文化館を開いたのだ。そしてさらに新たなステージを求め、23年9月、気仙沼市に再び宮城芸術文化館を開館。永年さんの父君の出身地であり、ドイツの港町キール出身のティニさんにとってもなじみのあるこの漁港の町で、新たな文化を育もうとしている。(本紙主幹・奥田芳恵)

画像付きの記事はこちら




●マーブル・ペーパーの

コレクションは世界一



芳恵 ノーベル文学賞の賞状に水がかかってしまい、川端夫人から展覧会への貸し出しを断られたというお話でしたが、その賞状はどうなったのでしょうか。

三浦 ノーベル文学賞の賞状は、基本的には紙製ではなく、パーチメント(羊皮紙)でつくられているんです。そのため、修復が可能です。事情を聞いたティニは、その賞状を3週間かけてきれいに修復しました。

芳恵 それはよかったですね。

三浦 それで気に入ってもらえたのか、川端さんの奥様にはずいぶん懇意にしていただきました。

芳恵 ところで、三浦さんご自身もマーブル・ペーパーのアーティストでいらっしゃいますが、いつごろから制作に携わるようになったのですか。

三浦 日本に帰った30歳すぎからですね。自己流で制作するとともに、ティニと一緒にマーブル・ペーパーのコレクションもしました。おそらくコレクションとしては世界一で、大英博物館やルーブル美術館よりもたくさん集めていると思います。

 それで、1988年に『魅惑のマーブル・ペーパー』という本を自費出版したのです。マーブル・ペーパーの歴史と制作方法を解説したもので、コレクションした67種類のマーブル・ペーパーの紹介とつくり方も収録しています。ところが、この本を見たロンドンのある出版社の社長が「これはウソだ!」と文句をつけてきました。

芳恵 なぜウソだと?

三浦 「私がそんなにたくさんのコレクションをしているわけがない」と言うわけです。そこで、実際に見せるとその社長はひどく驚き、その場で英語版を出すことが決まりました。フランス語版、ドイツ語版も出すことになり、最終的にこの本は8バージョンも出版されたのです。

芳恵 マーブル・ペーパーは、日本に古くから伝わる墨流しの技法が源流といわれているそうですが、具体的にはどのようにつくるのですか。

三浦 私はここまで独学でやってきましたが、たとえばふつうの水に墨を流しても、そのままでは比重の高い墨が沈んでしまいますから、水にいろいろなものを混ぜてみるわけです。そして、絵の具にしても、顔料、染料、アクリル絵の具、油絵具などいろいろな種類があり、温度、湿度、紙質などによっても仕上がりは異なってきます。

芳恵 いろいろなパターンを試していくのですね。

三浦 そうしたもののデータをとって、計算してつくるわけです。だから偶然性による表現ではなく、再現性があります。つまり、これと同じものを50枚、100枚ほしいというニーズに応えられる技術に裏打ちされているのです。おそらく、それができるのは私だけだと思います。

芳恵 この技術の後継者は、どなたかおられるのですか。

三浦 米国に製本装幀大学という大学院大学をつくりましたから、そこで学ぶ人が受け継いでいくと思います。


●谷村新司さんとの縁と

悲しい別れ



芳恵 23年10月8日にシンガー・ソングライターの谷村新司さんが亡くなりました。生前、三浦さんご夫妻と交友があったとうかがっています。

三浦 谷村さんと出会ったのは、30年ほど前のことです。谷村さんがデビュー25周年を記念して自選・自書した25曲の歌詞集「旅立ち」をつくる際、ティニにその製本と装幀を依頼したのがきっかけです。その制作工程は、95年にNHK-BSの文化の日特集「美しい本との出会い」という番組で紹介され、そこに谷村さんと私たち夫婦が出演しました。

 番組制作に半年以上かかりましたが、その間に私は谷村さんに「もう一つ書いてよ」と頼んだところ快諾してくれました。それならば谷村さんにギャフンと言わせるような最高の紙に書いてもらおうと、越前和紙の人間国宝岩野市兵衛さんと岩野平三郎さんのところまで足を運び、「これ以上の紙はない」というほどの紙を手に入れたのです。

芳恵 それが、こちらにあるものなのですね。谷村さんの文字はとても丁寧で、きれいに真っすぐ書かれるのですね。

三浦 誤字・脱字がまったくなく、書き損じもありませんでした。それに、自分用の歌詞集は25編だったのに、私たちには30編の詞を書いてくれたのです。最高の紙を提供したら、最高の仕上がりで返してくれました。

芳恵 それにしても谷村さんの突然の訃報は、私たちにとっても大きなショックでした。

三浦 谷村さんと私たち夫婦の共通の友人で、NHKの番組を担当してくれた映画監督の保坂延彦さんから(23年)4月頃に連絡があり「谷村さんは夏までもたないかもしれない」と告げられていましたが、その言葉を信じたくはありませんでしたね。

 私たちのために書いていただいた歌詞集はまだ製本していないため、とくにその存在を公にしていませんでした。でも、彼に哀悼の意を表すために何ができるかと考えたとき、これを公開するべきだと思いました。おそらく、谷村さんが遺した直筆のものは色紙以外にないからです。谷村さんはどんな字で詞を書いていたのか、広く知ってもらえればと考えています。

 11月23日には、ここ宮城芸術文化館で追悼コンサートを開きました。先ほどお話ししたNHK-BSの「美しい本との出会い」を見ていただき、その後は地元のアーティスト・ミュージシャンの演奏で谷村さんをしのびました。

芳恵 今後は、この気仙沼でどんな活動をされていかれますか。

三浦 もうあまり計画を立てず、行き当たりばったりで楽しもうと思います。楽しむといっても、せっかく気仙沼に移り住んできたのですから、気仙沼市民の方々と一緒に楽しみたいですね。

 たとえば、この宮城芸術文化館でコンサートを開くのもいいでしょう。クラシックの優れた音楽家も地元に少なくないですし、クラシックに限らず、ジャズやフォークのコンサート、あるいは映画会を開くのもいいですね。また、公民館を利用した巡回美術展も考えられます。そうした文化活動を続けていければと思いますが、もちろんそれで儲けようなどとは一切思っていませんよ(笑)。

芳恵 三浦さんにとっての新たな土地で、新たな仲間と楽しむ様子が目に浮かんできます。どうかこれからもお元気でご活躍ください。


●こぼれ話



 12月下旬、アウターの帽子をすっぽりかぶり、雪交じりの冷たい風を防御しながら、肩をすくめて歩く。BRT気仙沼線の南気仙沼駅から宮城芸術文化館へは、15分ほどの道のりだ。東北の冬はまだまだ本格化していない。それでもこの外気のひんやり感は、都心のそれとは違って、徒歩で向かうには少し気合がいる。気仙沼駅には、鉄道とBRTが同じホームに乗り入れている。BRTとは、バス・ラピッド・トランジット(Bus Rapid Transit)の略で、バス専用道、バスレーンなどを組み合わせたバスシステムのことだ。気仙沼線は、東日本大震災で甚大な被害を受けた。その復旧には時間がかかる見込みだったため、早期に利便性の高いBRTの運行が開始されたのだ。バスだけど専用道をノンストップで走るBRTは、電車のようなバスのような…まさにいいとこ取りだ。

 世界で活躍してこられた三浦永年さんとティニ・ミウラさんの夫妻が、この気仙沼の地でなんともカラフルで美しいマーブル・ペーパーの世界を展開している。かつて単行本の編集者を務めていたとき、私は担当した書籍のジャケットデザインや、見返しの色・素材、帯の色などを考えるのがとても好きな工程だった。しかし、マーブル・ペーパーを目にしたことはなく、取材時までその存在を知らなかった。現代のようにカラー印刷の技術がなかった時代、マーブル・ペーパーで書籍に彩りを添えて楽しんできたのだろうと想像すると、とてもワクワクする。

 永年さん制作のマーブル・ペーパーや、ティニさんが装丁した本などは、繊細さの中にダイナミックな要素も感じられ、エネルギー溢れる文化館となっている。終始、永年さんがティニさんを気遣い、とても仲睦まじい様子が伝わってくる。外の寒さとはうって変わって、お二人の温かさが幸せな空間を作り出している。この文化館のもう一つの魅力のように感じる。取材中、学生らしき二人の女性が文化館を訪れ、感動した様子で作品を見て回っていた。「近くに住んでいるので、またゆっくり来たい」とにっこり笑顔で三浦さん夫妻に話しかけていた。「ここに住んでいる人たちと一緒に楽しみたい」という永年さんの願いは、ちゃんと届いているようだ。

 帰り際、ティニさんが制作した製本装幀本140点の作品集「世界の巨匠 ティニ・ミウラの手造り豪華本」をいただいた。永年さんが作品集の編集に携わり、また、永年さん制作のマーブル・ペーパーが本の見返しに使用されている。出会って2日目にプロポーズをしてから今日まで、こうして二人三脚で各国を歩んで来られたのだろう。これからは、お二人の作品と芸術を愛する心で、市民の皆さんと楽しく気仙沼の地で新たな文化を育まれることを祈念いたします。(奥田芳恵)

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)

<1000分の第343回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
2023.12.20/宮城県気仙沼市の宮城芸術文化館にて