◆被災地で見た光景

 飴細工のように曲がった電信柱が、揺れの激しかったことを物語っている。地面に垂れ下がった電線は降り頻る雪に埋もれてしまった。この時期は寒鰤で賑わうという漁港には、人っこ一人いない。みな高台の中学校に避難したのだという。月明かりだけが頼りの闇夜のなか、津波のために防波堤に打ち付けられた小さな漁船が、風と波に軋む音だけが響き渡っている。

 山に目を向けると、はるか遠くの方に灯りが見える。あれが避難所となっているという中学校だろう。スマホの地図をみると、車で5分で着くらしい。しかし、避難所に続く山道は崖崩れや道路陥没で思うように前に進めない。前日に自衛隊による啓開があったというが、それは自衛隊車両を前提とした道路疎通だ。よもやスタッドレスタイヤだけが頼りのこんな小さな車が、土砂に片輪乗り上げつつ前に進むわけにもいかない。やむなくルートを切り替えて、違う道を進む。結局、避難所に到着するのに1時間半かかってしまった。

 避難所ではボランティア有志による炊き出しが始まっていた。今日のメニューはうどん。外気温計はマイナス4度を示している。寒い日に暖かいうどんは何よりのご馳走だろう。

 炊き出し場は中学校の校舎の裏手にあたり、そこから先は、平時は教職員向けの駐車場として使われるスペースとなっている。いまは被災者の車が溢れかえるように停まっている。高台になっていて、駐車場のはじからは、先ほどまで我々がいた漁港が見下ろせる。目と鼻の先でしかない。この高台に向かうつづれ折りの道を、2度3度曲がればすぐにつく距離だ。なるほどスマホのナビのいうとおり、平時なら5分もかからずに到着するだろう。

「あの港、こんなに近いんですね」

と、隣でトランクの荷物を整理していた被災者の高齢男性に声をかけた。

自衛隊は昨日、一回来たきりや。物も置いていかん。道をどないかしてくれたらええのだが、他のことで忙しいんやろう。もう1週間もこのままじゃ」

 少し待って欲しい。先ほど校庭で大釜をつかってうどんを茹でていたあのボランティア団体は、自衛隊より前にここに到着したというのだろうか。

「そうよ。あの人らだけやない。トイレ設置してくれたのも、新潟県のなんとかいう市役所の人。自衛隊やのうてな。その次に来たのが、携帯の会社。電波塔の修繕にな。で、陸電(北陸電力のこと)がきよって、で、自衛隊や」

 事態がうまく飲み込めない。その人の顔を見つめてしまった。あの漁港を見下ろしておられる。

「船も、みてみ。あのまま置いておくしかない。どうなるんやろうのう。このままじゃ、捨てられたようなもんだわ」

◆「捨てられた」としか思えない

 発災6日後の1月7日に金沢に到着し、1月9日にかけての足掛け3日間、能登地震の被災地を巡った。現場はどこも凄惨だ。大火となった輪島、家屋倒壊で壊滅的な被害をうけた珠洲だけではない。入りくんだ海岸線を有する能登町沿岸部は、文字通り「津々浦々」それぞれ違った凄惨な被害実態がある。穴水、七尾、和倉温泉付近でさえ家屋倒壊など深刻な被害は発生している。

 確かに被害の濃淡はある。山地、丘陵地、平野部、入江など能登半島独特の多様性にとんだ地形のせいでもあるが、なによりも今回の地震が、断層型かつ直下型だったことが大きい。プレート型地震でありかつ沖合で発生した東日本大震災の被害は、例えていえば、「極めて大きな鈍器で、背中を強打され、しばらく気絶し、生死の淵を彷徨った」という被害だ。能登地震はそうではない。「鋭利な刃物で全身を細かく瞬間的に切り刻まれた」ような被害だ。切り傷の深さはそれぞれ違うし、切り傷の場所によって痛みも出血も違う。おそらく、被害実態の全容把握にはかなりの時間が必要だろう。

 そのためだろうか、被災地をへ巡ると、さきほどの被災者高齢男性のように、「捨てられたようなもんだ」と口にする人に出くわす。そして実際に、どう考えても「捨てられた」としか思えない場面に出くわす。前述のように、私が被災地取材を敢行したのは1月7日から9日にかけて、発災後1週間近く経っている。その日に「今日、はじめて自衛隊の車両を見たよ」「今日、はじめて、県庁の人が避難所に来たよ」という被災者がいる始末なのだ。

 確かに私自身、それほど被災地取材の経験を重ねたわけでもない。比較対象を豊富に有しているわけでないことは認める。しかし発災後1週間で初めて公的機関につながっただの、発災後1週間で初めて自衛隊の車両をみかけただのという話は、他の比較対象を持ち出すまでもなく「異常」と断定していいだろう。初動の遅れは明らかだ。

 初動の遅れに対する批判への対応も目を覆うばかりの惨状を呈している。1月10日の『毎日新聞』朝刊に掲載された「自衛隊派遣、増員が容易でない背景 能登半島地震熊本地震の差」と題された記事によると、自衛隊幹部は初動の遅れに対する批判に対し、「陸の孤島と言われている半島での未曽有の震災。一番起きてほしくない場所で起こった」と答えているという。これは言い訳にならないだろう。敵は常に「一番起きてほしくない場所」を狙って上陸してくるはずではないか。自衛隊が待ち構える場所に上陸してくる敵などいるはずがない。

 さらにいえば、政府がこれまで数十年にわたって累積数兆円の予算を注ぎ込んできた「南海トラフ地震」対策の主要地は、伊豆半島であり、知多半島であり、紀伊半島であり、すべて「半島」ではないか。それらをすべて「陸の孤島」として「一番起きてほしくない場所」と規定するのならば、これまでの政府の地震対策は全て無駄であったということになる。

◆当事者能力のない馳浩知事

 石川県庁もおかしい。馳浩石川県知事が初めて震災に関する記者会見を行ったのは、1月10日になってから。1月1日の誤記ではない。間違いなく1月10日だ。発災後9日たって、ようやく被災県の首長が記者会見をしたというのだから驚くほかあるまい。

 内容もお粗末そのもの。なんと発災後9日目の初記者会見で、馳浩知事は「現場を見たい」と発言しているのだ。これまで現場視察もせずに、なにをどう対応していたというのか。そして、なぜか会見の途中で「SDGsの大切さ」を滔々と語り始めてもいる。紋切り型の美辞麗句を持ち出さねば座持ちさえできないということなのだろう。もはや馳浩知事に当事者能力のないことは明らかだ。

 馳浩氏は、奥田敬和系の前職知事およびその後継知事を嫌った森喜朗氏によって2022年の知事選に擁立された。横車とも言うべき森氏の行動に対し、自民党石川県連は反発した。しかしそれを安倍晋三が力でねじ伏せようとした。そうした経緯を経て、知事選挙で自民党は三分裂することになる。そして僅差で馳氏が勝利し、知事の座を掴んだ。馳氏を支援した自民党の県議会議員はほとんどいない。その後の県議選でも、馳氏はいわゆる「刺客候補」を反馳派自民県議の選挙区に送り込んだものの、ことごとく返り討ちにあっている。

 こうしたことから、馳氏は自民党系知事でありながら、自民党が多数を占める県議会に足場を持たない。この政治的不安定さが、石川県庁の初動の遅れに影響しているとの指摘もあるが、そうではあるまい。単に、馳知事が無能なのだ。

 しかしそうした無能な人物を知事に据えたのは森喜朗氏や安倍晋三氏の政治判断であった事実は揺るがない。永田町の政治の都合――今回の場合は、森喜朗氏の個人的な好悪の感情でしかないが――で、結果論的にではあるが、およそ非常時の指揮対応能力のない卑小な人物が、首長となってしまった。それこそが、石川県庁の初動の遅れの原因だろう。

 馳浩氏知事選擁立の政治的責任を負うべき一方の当事者である安倍晋三氏はすでに死去した。生き残った森喜朗氏は、清和会裏金事件の報道が過熱した昨年末になぜか急遽、高級老人ホームに夫婦そろって入居したという。いまごろ、暖炉の火にでもあたりながら、テレビが映し出す故郷・石川県の被災の様子を、おしどり夫婦と謳われた智恵子夫人の手を握りながら眺めているのだろう。幸せな老後を寿いでおこう。

 無能ゆえに責任を感じることさえできない馳浩知事。幽明界を異にする安倍晋三氏。老人ホームの瀟洒な塀の向こうで温かい老後を過ごす森喜朗氏。この三人が政治的責任を負うことはもはやなかろう。

 今日も、初動の遅れを回復することもなく、明後日の方向を向いた震災対応が続いている。テレビやネットニュースは、つぎつぎと死者数の増加を伝え、震災関連死さえ急増している。

「このままじゃ、捨てられたようなもんだわ」

 あの被災者の声が、森喜朗氏の耳に届くことは、もはやあるまい。

<取材・文/菅野完 初出:月刊日本2024年2月号

―[月刊日本]―


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