「監督の名前で劇場に映画を観に行く」というのは、ある時代までの映画好きにとってはあまりにも当たり前のこと、近年乱用され気味の言葉で言うなら「内面化」されていることで、この連載「映画のことは監督に訊け」もタイトルからわかるように、まさにそのような規範や行動原理に則ったものであることは言うまでもない。敏感な人ならば『Playback』(12)以降、あるいはどんなに鈍感な人でも『きみの鳥はうたえる』(18)以降、国内の映画好きにとって三宅唱の名前はそのように機能してきたし、どの作品も例外なくそうした期待に応えてきた。

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一方で、三宅唱監督のここまでの歩みは、それ以前の時代に信頼と支持を集めてきた日本の映画作家の歩みとは違って、作家としての評価やキャリアに応じた製作規模の拡大であったり、わかりやすいトライ&エラーの繰り返しであったりとは無縁のまま、インディペンデント的な姿勢を保ちながら、どこか超然とした、あるいは飄々とした、少々とらえどころのないフィルモグラフィーを更新してきたようにも見えた。だからこそ、「監督の名前で劇場に映画を観に行く」観客以外にも広くアピールするであろう座組で製作された今作『夜明けのすべて』のタイミングでまず確認をしたかったのは、三宅唱自身による監督としての自己像だった。

印象的だったのは、三宅唱が映画作りへの向き合い方を語る際、その一人称がしばしば「自分」ではなく「自分たち」であることだった。それは、もちろんそのままチームとしての映画作りを意味しているわけだが、それだけでなく、映画という大きなものを前にした時の個の小ささに自覚的な、三宅唱監督の映画への謙虚さを表しているのではないだろうか。インタビュー中に「すべてのもの、すべての人は、イメージ通りじゃないよねっていうものを、映画では撮りたい」と語っていたように、自分が三宅唱監督に抱えていたイメージもまた、ただのイメージでしかなかったのだろう。

パニック障害やPMS(月経前症候群)というシリアスな題材を扱った『夜明けのすべて』も、その題材に繊細かつ真摯に向き合いながらも、そうした病名から我々が受け取るであろうイメージからはまったく想像のできない道筋を経由して、思いもしなかった心の場所へと観客を連れて行ってくれる作品だ。2022年の前作『ケイコ 目を澄ませて』に続いて、本作も今年を代表する日本映画としてその歴史に刻まれることになるだろう。そして、世界中でさらに多くの「三宅唱の名前で劇場に映画を観に行く」観客を生みだしていくに違いない。

■「『ケイコ 目を澄ませて』を超える超えないみたいな考えは捨ててやろう、という会話がありました」(三宅)

――監督のフィルモグラフィーを振り返りつつ、新作をどう位置づけていくかというのがこの連載の一つのテーマなんですが、三宅監督にとって今回の『夜明けのすべて』は、結果的に30代最後の作品ということになりますよね?

三宅「はい、そうですね。次の作品を撮影する頃には40代に入っちゃうんで。ああ、人生あっという間だな!」

――(笑)。

三宅「でも、フィルモグラフィー全体の中での位置づけは、自分では考えてないです。作品を撮る際はその都度、目の前の1本に必死なので」

――はい。

三宅「短期的に言っても、前後はあまり関係なくて。『ケイコ 目を澄ませて』で自分たちのチームがある達成をしたという自覚はありましたが、そんなに間を置かずに『夜明けのすべて』の撮影に入ることになり、でもそこで、『ケイコ 目を澄ませて』を超える超えないみたいに思われるかもしれないけど自分たちはそういう考えは捨ててやろう、という会話がありました。そういうことを自分たちで思うのは、下品だし、本質的ではないし、と。重要なのは、『夜明けのすべて』をいい作品にするためにはどうしたらいいのか、そのためにベストの準備やベストな進め方をしていくことだというのは、スタッフ間で共有していたことです」

――なるほど。事実確認をしておくと、『夜明けのすべて』の撮影が始まったのは、『ケイコ 目を澄ませて』が完成したタイミングと公開されたタイミングの間だったということですね?

三宅「そうです。『ケイコ 目を澄ませて』が公開されたのは、『夜明けのすべて』の撮影をしている真っ最中で。『ケイコ 目を澄ませて』の初日舞台挨拶をしたのは、『夜明けのすべての』の終盤の撮休日でした」

――『ケイコ 目を澄ませて』が複数の映画賞を受賞したことも含め非常に高く評価されたこと、そして多くの観客から支持されたことについて、いまはどのように受け止めていますか?

三宅「それはもう、岸井ゆきのさんを間近でみていた者として、撮影中から『これは伝わるぞ』というのは思っていましたし、そして、実際にたくさんの人に伝わってくれたというのは、なんだろうな、自分の心の中のなにかが折られずに済んでよかったなっていう思いです」

――なるほど。

三宅「一方で、いまの日本の状況、これは映画界だけじゃなくて日本社会全体の状況としてですけど、やっぱり映画を観る人は減ってきてるんだな、と」

――はい。

三宅「『ケイコ 目を澄ませて』は確かに高い評価も受けましたし、深く刺さったという反応をもらえると1つ1つ本当に感激するというか、とてもうれしく思っているんですけど、欲を言えば、もっとみてほしい、まだまだだ、とも思っています」

――それは自分も思いました。それこそ、10年前だったら、あれだけ圧倒的な評価を得た作品だったら、もっとたくさんの人が映画館に押しかけていたように思います。それは、以前に比べてもさらに映画ジャーナリズムの力がなくなってきているという話でもあるわけですが。

三宅「そうですね。その背景には、コロナ禍以降の生活様式の変化というのもあるでしょうし。『ケイコ 目を澄ませて』単体の話ではなく、日本では周りを見渡しても、洋画邦画問わず、いまは極端な数字になってきてますよね。お客さんが入る作品はさらにたくさん入るようになって、お客さんが入らない作品はさらに入らなくなっている。映画館を取り巻くそういう状況を――地域によって抱えている問題は違うので一概には言えないですけど――『ケイコ 目を澄ませて』を通して客観的に再確認することができたという感じはあります。今回の『夜明けのすべて』は、またちょっと違う公開体制になるので、世の中がどう見えるのか楽しみにしているところです」

■「そもそも、自分の人生に関して計画性がないタイプの人間でして」(三宅)

――三宅監督の名前が広く知られるきっかけになった作品としては、『ケイコ 目を澄ませて』以前の作品では『きみの鳥はうたえる』があったわけですけど。あの作品の時点で、もう現在の日本映画界で何本の指に入るというか、本当に、5本よりも少ないぐらいのポジションにつけていて――。

三宅「ほかの方の名前も挙げてもらえますか?(笑)」

――いや、挙げてもいいんですけど(苦笑)。それで、「『きみの鳥はうたえる』の次回作だ!」って意気込んで『ワイルドツアー』の試写に行ったら…。

三宅「ええ、最初の試写に来てくださいましたね」

――はい(笑)。あの時もまた、制作期間が重なっていたこととかもあると思うんですけど、作品の制作規模というか、そもそもの企画の座組的にも、商業映画の枠からちょっと外れたような作品で。作品自体はとてもすばらしかったんですけど、野心を持った映画作家のキャリアデザイン的な意味では、「ああ、ここで畳み掛けてくれるわけではないんだ」という勝手な印象があって。

三宅「なるほど、なるほど。僕にとって映画を撮るというのは、個人の野心がどうこうというより、やっぱり題材との出会い、人との出会いありきかなと思います。題材およびその制作体制や予算規模においてベストを尽くすのが精一杯で、前後のキャリアまで考える余裕がないというか、そもそも、自分の人生に関して計画性がないタイプの人間でして。計画ってせっかく立てても大抵崩れるし、それで嫌な思いするのも面倒だし、じゃあそもそも計画は立てないぞ、みたいな(笑)。これまでなんとか運良く撮り続けられてきただけで、自分の映画監督としてのキャリアを思い描こうみたいなことは、ここ数年どころか、最初から考えないでやってきたっていうのが正直なところです」

――はい。

三宅「『ワイルドツアー』の次は、(Netflixドラマシリーズの)『呪怨:呪いの家』のオファーがきて。そういうのってコントロールできないことですし不思議な流れだなあと他人事みたいに思いながら乗ってみました。それに、『ワイルドツアー』は制作規模こそ小さい作品でしたけど、これまでで最も贅沢な制作環境ではあって」

――それは、自由が効くという意味で?

三宅「最初から自由というより、一番プレッシャーがかかる仕事だと思ったからこそ、自由の効く作り方を追求できたという感じですかね。山口の地元に住んでいる中高生と一緒に撮るというのはあまりにも責任重大で、でもアートセンター(山口情報芸術センターYCAM)との仕事というのもあって、こっちの都合や習慣ではなく、あくまでも被写体や環境に合わせて撮影体制を柔軟に組めました。どれだけ予算があっても、実はそれはなかなか達成できない贅沢さだなと思います。あの作品をやれたのは本当にラッキーでした。今回の『夜明けのすべて』も、作家的野心でどうこうしようというよりは、とにかく題材に沿ったことをやる。中身はもちろん、撮影体制においてもなるべくそうする。それが自分にとっての野心だったかなと思っています」

――なるほど。

三宅「もっと人生やキャリアについて考えたほうがいいんでしょうか(笑)」

――いやいや(笑)。ただ、単純に『ケイコ 目を澄ませて』も『夜明けのすべて』も、いわゆる受け仕事じゃないですか。

三宅「そうですね」

――もちろん、自分でこの原作をやりたいと企画を立ち上げたりどこかに持ち込むこともあるわけで、原作もの=受け仕事というわけではないですが、それらの作品は原作があるだけではなく、基本的にはオファーを受けて始まった作品ですよね。三宅さんくらいの監督だったら、自分で脚本を書く書かないは別にして、「これを映画にしたい」と言ったら、人もお金も集まるんじゃないかと想像しちゃうのですが。

三宅「ああ、なるほど」

――逆に言うと、「いまの三宅監督にもそれができないんだったら誰ができるの?」っていう(笑)。

三宅「あけすけにしゃべらせてもらうと、いまのところ、ありがたいことにオファーが続いているので、その中から取捨選択を――取捨選択っていうと語弊があるな――、向いてないと思う作品やタイミングが合わないものはお断りもしつつ、ここ数年は、オファーを受けた企画の調べ物や勉強だけで自分の日常は目一杯になっちゃっているというのが正直なところです。ただ、おっしゃってくださったように、おそらく自分が『こういう映画を撮りたい』と動いたら、それが通る企画はあると思います。でも、ある意味、これまではそこから逃げ回っていたんですかね。そのための努力を怠る――怠るというか、運よくやりたいと思える企画が外からやってくるのが続いたから、自分からオリジナルの企画を進める余裕も、必要も、まあ欲求もなかったと。自分の意図しないところから球が飛んできて、『おお、これはどういうチャレンジになるだろう?』って思えるのも映画監督という仕事のおもしろいところだ、なんて都合よく捉えたりもして」

――なるほど。

三宅「ただ、実はいま進めている企画はどれも自分発信の企画なんですが」

――あ、そうなんですね。

三宅「はい。だから、ちょうどそういう意味では今後変化していくところはあると思います」

――変化という意味では、今回のように松村北斗さんと上白石萌音さんという、テレビでもなじみのある役者さん、そして大きな事務所に所属している役者さんを、がっつり主演に据えて作品を撮るのは初めての経験ですよね?もちろん、これまでも名の知られた役者さんとも仕事をされてますが、どちらかというと三宅監督の作品に出演した後に大きな作品も出るようになった方が多かった。

三宅「中国映画で主演をしてきた直後の染谷(将太)さんとの仕事というはありましたけど、いわゆる大きい事務所に所属している方という意味では、そうかもしれません」

――さっき「逃げ回っていた」とおっしゃってましたけど、そこからもこれまでは逃げてたりしてたのでしょうか?

三宅「いえ、それはなかったですね。『逃げ回っていた』というのは、自分で企画を出すことから逃げていたかも、という意味です。そういうキャスト案の企画のオファーがこれまで全然なかっただけで、今回はじめて縁がありました。だから、これといった気負いもなく、いろんなきっかけでたくさんの人が観てくれることになるのかな、というだけでしたかね。もちろん役者さんだけじゃなくて、瀬尾まいこさんもベストセラー作家ですし」

――そうですね。

三宅「これまでの作品よりも大きなマーケットを前提に仕事をするんだなっていうのは、撮影に入る前に多少は思ったような、どうだったか…。上白石さんは『舞妓はレディ』に一観客として泣きに泣かされましたし、そういう意味で、すごい人とご一緒することになったなという想いはありましたけど、2人とも僕の中ではすぐに『山添くんと藤沢さん』にばっちりだなと見えてました。撮影が終わったいまは、2人がスターとして眩しくも見えますけどね」

■「『夜明けのすべて』の特徴の一つは、“生きにくさ”を抱えている2人に病名がついていること」(宇野)

――『夜明けのすべて』の企画に惹かれた一番の理由はどこにあったんですか?

三宅「とにかく、この小説の主人公の2人がおもしろいというところです。それがなかったら、どれだけテーマやほかの部分に惹かれても、最後までは乗り切れないものだと思います。この2人だからずっと、最後まで乗れた。最初の段階で直感的に掴まれてしまったので、そこからは早かったですね。あとは、どうして自分はこの2人に惹かれたのか?をゆっくり噛み砕いていく作業で、シナリオを書くことを通してそれを発見していった感じです」

――最近の日本映画の傾向として感じるのは――これはテレビドラマもそうなんですが、“生きにくさ”を抱えた20代や30代という登場人物がとても増えてることなんですよね。それについては時代の必然というのもあるだろうし、個人的にもいろいろと思うところはあるのですが、『夜明けのすべて』の特徴の一つは、“生きにくさ”を抱えている2人に病名がついていることです。単なる、漠然とした“生きにくさ”ではなく。

三宅「自分がこの題材に惹かれたのは、PMSパニック障害そのものというより、それを、いわば体育会系的な努力だったり、あるいは恋愛によって解決するのでもない、これまでとは違うかたちで、『ああなのかな?』『こうなのかな?』って試行錯誤しながら2人が自分のことや相手のことを考えているところに、愛嬌を感じたというか、すごく愛着が湧いたんですね。2人は別に恋愛するわけでもないし、無理に仲良くなろうとすら別にしておらず、その関係性はドライと言えばドライなんですけど、そこに曰く言い難い魅力があって」

――その登場人物たちの“名付け得ぬ関係性”みたいな部分に関しては、まさに三宅監督っぽい題材だなと思いました。

三宅「そうですね。でも、自分としては本を読んでる時に『出た!“名付け得ぬ関係”だ!』と思ったりしてるわけではないです(笑)。単にニコニコ読んで『ああ、おもしろかった!』みたいなことで。もしこの物語が仮に、これだけ苦しんだとか、これだけつらいことがあるんだとか、そういうことしか書かれていなかったとしたら、それは、映画にしてる場合じゃないと思ったかもしれない」

――それは本当にその通りだと思います。

三宅「『こうしてみよう』『ああしてみよう』とやっていく過程に、楽しい瞬間だったり、喜びだったりがある。もちろん、もがけばもがくほど苦しくなることもあったうえで、この物語にはとてもポジティブな魅力を感じたんです。単純に、こういう人を映画のなかで見てみたいという。ファーストシーンを例にするなら、ある日バス停で倒れて苦しんでいる人を見かけたとして、その人にそっと近づいて追っていったら、(結果的に)楽しいこともたくさん見つけることができたというようなイメージですね」

――題材の重さに対して、作品のトーンは非常に楽しげというか、軽やかですよね。そこは『ケイコ 目を澄ませて』とも少し違う。

三宅「瀬尾さんの小説に惹かれたのがまさにそこですね。ユーモアなどの力によって、いろんな『思い込み』から解放されていくような、そういう気持ちよさがあると思います。そもそも、苦しみはもう現実で十分というか、わざわざお金を払って時間を使ってまで、『こんな苦しみが世間にはあります』で終わるものはいち観客としてはあんまり見たくない。その先の、突破口みたいなものを見たいと思っています」

――でも、きっと観客によってはいろんなツボがあって、『夜明けのすべて』も、もちろん楽しいだけの作品ではない。

三宅「もちろんそうです」

――自分が観ていて胸が苦しくなったのは、2人が抱えている病気の直接的な描写ではなく、上白石さん演じる藤沢さんが、職場の同僚に気を遣っていつもお菓子や差し入れをたびたび買っていくじゃないですか。ああいう日常の風景って、あまり映画やドラマで見たことがなくて。

三宅「そうですね。登場人物がその場で苦しんだり悩んだりして、『これが正解なんじゃないか?』と思っていろんなアクションを起こしていて。そのアクションは端から見たら正解じゃないかもしれないけれど、とにかくアクションを起こしている。誰かに迷惑をかけちゃったり、トラブルを起こしてしまった時に、いろんな方法のうちどのアクションを選ぶのか、というのが彼女の個性で。同僚がパニック障害だとわかった時に『どうしよう?』って思って、そこで起こす最初のアクションだったり。映画全体は全然派手じゃないし、この作品をアクション映画として売ることは絶対にできないですけど(笑)、物語を前に進めているのは、一つ一つその都度決断して、そこで起こされるアクションなんです。もしそれが間違っていたら、また次のアクションを起こせばいいや、みたいな感じで」

――そこがさっき言った「軽やか」という印象につながっているのかもしれないです。

三宅「そうですね。意外と、ずっと登場人物が動いている。それが、もしかしたらこの映画を貫いている原理かもしれないです。原理というか、おもしろさというか」

■「“言葉を撮る映画”になるだろうなというのは、最初から思っていたことです」(三宅)

――あと、この作品はわりと長めの藤沢さんのモノローグで始まるじゃないですか。それが、三宅監督の作品としては珍しいと思ったんですけど。

三宅「そうですね、『きみの鳥はうたえる』にもタイトルが出る前後にモノローグがありましたけど、あれともちょっと違いますね」

――はい。終盤にも、それこそ『夜明けのすべて』というタイトルにもつながるような、作品のテーマそのものを言語化しているモノローグがある。

三宅「はい」

――映画の見方の一つとして、あまりテーマを作中で言語化しない方がいいという考え方があるじゃないですか。それを、映画的なリテラシーが非常に高い三宅さんが敢えてやっている理由が知りたくて。

三宅「ああ、なんだろう。ざっくばらんに言うと、“おしゃべりって楽しいよね”っていうことが出発点というか、核にある物語だと思うんですね。単なるおしゃべりじゃなくて、何気ない言葉の交換一つ一つにも、そこにはちゃんと意味がある。なので、“言葉を撮る映画”になるだろうなというのは、最初から思っていたことです。これまでの自作ではやってきてないことだから、意外に思われるのかもしれません」

――特に前作『ケイコ 目を澄ませて』との対比でいうと、ケイコはほとんどしゃべらなかったじゃないですか。

三宅「その比較は特に意識してなかったです。比べる必要もなかったので。あと、テーマを作品内で言語化するという点では、勇気をもらえるのは例えばリチャード・リンクレイターの映画ですね。リンクレーターの作品は、どこかで必ず誰かががっつりテーマをしゃべってますよね」

――言われてみれば、そうかもしれません。

三宅「その台詞によって、作品全体の見通しも良くなるし、映画がそれでおもしろくなくなるわけではまったくない。シチュエーションと言葉をちゃんと選べば映画がより豊かになるというのは、もちろんリンクレイターの作品だけじゃなく、古典映画の中にもたくさんありますし、これまで自分の映画でやってこなかったのは、単にそういう題材じゃなかったということだと思います」

――今作の公開規模であったりとか、お客さんの中の一定数を占めるであろうキャストのファンであったりとか、そういうことをふまえてちょっと親切設計を心がけたとか、そういうことではないんですね。

三宅「それはないですね。自分たちの信じている映画っていうものをブラッシュアップしていくだけです。そのブラッシュアップのなかに、より多くの人にとって楽しめるようにということも多少は含まれているとは思いますが、作品の外部の理由によってそれを変えるようなことはないです」

――いずれにせよ、『ケイコ 目を澄ませて』の時点でも十分に、次作がどんな作品になるかまったく予想がつかなかったんですけど、今回の作品でさらにその幅は広がりましたね。

三宅「次がわかられたら、つまんないじゃないですか(笑)。僕自身もわかんないですし、そう思われてるとしたらラッキーですね」

■「あからさまな政治性や思想性を帯びさせないというのが、一つの作家性になっている」(宇野)

――ただ、『ケイコ 目を澄ませて』では潰れかけの小さなボクシングジム、『夜明けのすべて』では町の小さな工場と、いずれも、もしそれがなくなったとしても多くの人には気づかれないような舞台設定の物語で。現在の新自由主義社会の中で追いやられている立場、追いやられかねない立場の側に立っているということが、特に近作からは伺えるわけですが。

三宅「そうですね」

――一方で、映画作家がそういう立場に寄り添おうとすると、往々にしてある種の政治性や思想性みたいなものを帯びてくるケースがよく見られるわけですけど、三宅監督の作品は、そこに新自由主義に対する疑義は込めながらも、あからさまな政治性や思想性を帯びさせないというのが、一つの作家性になっていると自分は思っているのですが。

三宅「そう感じていただけるのはありがたいし、自分の政治性は明確にあるんですけど、こと映画では、それを表現するのは、題材の選択ではなくて扱い方というか、あくまで演出の過程においてであって、となると、まあ目には見えづらいですかね(笑)。一応ちょっと説明すると、例えば小さなジムだとか、古い町工場だとか、そういうものに多くの人が抱くイメージってあると思うんですね」

――はい。

三宅「でも、そのイメージはただのイメージ、いわば『ただの思い込み』というやつであって、現実はそんなものには収まらない、さまざなな違う姿であるはずなんです。例えば身体がデカくて威圧的な男がいたとして、もちろん、中身もそのまま通りのヤツもいると思うんですけど、別にそのイメージを強化するような、いわばプロパガンダを撮っても全然おもしろくない。映画を観るおもしろさって、一般的な思い込みではこうだけど実はこうだったのかとか、こんな面もあるんだよねっていう、最初のイメージが解体されていって、新しいものを発見する驚きや喜びにあるものだと思うので。だから、作品の舞台としてどういう場所を選択するかということよりも、そういう場所が目の前にあった時に、その場所や、そこにいる人たちをどうやって演出していくかっていうところに、自分の政治性が発揮されているんじゃないかなって思いますね」

――なにを選択するかではなく、それをどう見ているかってことですね。

三宅「はい。だから、失われつつあるものに対する郷愁みたいなものが、別に強いわけじゃないです」

――すごくよくわかります。潰れそうな小さな町工場が出てきて、そこに債権者が取り立てくるみたいな、そういうわかりやすいところには絶対に回収されない。

三宅「よくスタッフたちと冗談で話すのは、『俺たちは宇宙人のつもりで撮ろう』ってことで」

――宇宙人?

三宅「自分が北海道出身というのもあると思うんですけど、いまでもどこか一般的な日本社会のことは“内地”だと思っていて。北海道出身であることを別に自分のアイデンティティだともそこまで思ってないんですが、そういう外からの視点」

――へえ!

三宅「だから、宇宙人の目でも、動物の目でもいいんですけど、つまり、自分の住んでいる場所の言語的な価値観というか、日本語のコンテクストにおける価値観とは全然違うところから映画を撮ってみたいという気持ちがあって。それはシネフィリーに言えば、“キャメラの目”みたいな言い方にあたりますけど、もうちょっと硬くない言い方に変えて(笑)、宇宙人が地球を探検してるつもりでカメラの先にあるものを見てみようって。そうすると、言葉の意味にあまりとらわれず、いろんなことのコンテクストだとか、ジャンルの“お約束”やクリシェからも自由になって、フラットに、純粋に興味深い音とか光とか、興味深いアクションが見えてくるはずという、まあおまじないみたいなものですけど」

――確かに三宅監督の作品って、シネフィル的な評価ももちろんされているわけですけど、そこからも微妙にずれているというか。なるほど、そう言われてみるとその秘密に触れたような気がしますね。

三宅「そういう視点からおもしろく見えるものがあるというのは、いつも思ってることです」

――それが同じ題材を扱った他の監督の作品とは、いつも明確に違うことがやれている理由の一つなのかもしれませんね。

三宅「僕は絶対ケイコにはなれないわけですし、『夜明けのすべて』でも、2人の境遇それぞれのポイントポイントでは似たような経験をしたことはありますけど、絶対にわからないところがある。そういう意味では、通常の主観ショット的な感情移入の語りとは、違うかたちで映画を語ろうとしてる、あの2人を観ようとしてるのかなと思うんですけど」

――うんうん。

三宅「だから、あくまでも自分は主人公の近くにいる人間の一人であって、目の前にそういう友達がいて、その人になって泣くことはできないけど、その人を身近に感じて、一緒に笑ったり泣いたりすることはできる。あくまでも自分は自分というか、いち観客の位置にしかいられないと思うんで」

――今回の主人公2人に関しても、もちろん同じような症状を持っている方は共感できるポイントもあると思いますけど、そこで感動するんじゃなくて、2人が何気ないやり取りをしている、それに第三者として感動してしまうんですよね。山添くん(松村北斗)の部屋を藤沢さんが出る前に、ポテチの袋を逆さまにして飲むシーンであったりとか。

三宅「いいですよね(笑)」

――それにつっこむことなくただ見ている山添くんも含めて、2人の間には建前ではなく、本当に恋愛感情がないことが、あのシーン一発でわかるっていう。まあ、自分の場合、それは三宅監督の見事な演出に感動してるわけですが(笑)。

三宅「(笑)。もっと感情移入に巻き込むシステムとして映画を作ることもできるだろうし、そのための技術も発達してるわけですが、自分はそうじゃない映画の使い方をしたくて。話が飛躍するようですけど、男女がいればそれは当然恋愛を目指すよねというのが『メジャー』な考え方だとしたら、それはやっぱりカッコつきのメジャー』な、狭い考え方だと思うんですね。それに対して、恋愛を目標としない関係をいわば自由だとすると、この物語の本質というか魅力は、メジャーかマイナーかという捉え方とはまったく関係ない、アンチメジャーですらないところにあると思っていました。もしこの物語が男女の恋愛を描くものだったら、どこか『メジャー』っぽい作り方をしたかもしれませんけど、題材がそうじゃないので」

■「どこまでいっても第三者でしかないのが映画の限界だし、映画のおもしろさだと思うんですよね」(三宅)

――たまたまかもしれないですが、『呪怨:呪いの家』も陰惨な話だったし、『ケイコ 目を澄ませて』の主人公も聴覚障害を持っているという設定だし、『夜明けのすべて』の2人も具体的な病気を患っている。傾向として言えるのは、三宅監督が(主人公に)「なれない」と言う時のなれない存在が、弱者の側によりがちだというのはどう分析されますか?例えば大金持ちで共感性が欠如しているような主人公の映画とかも、世の中にはあるわけじゃないすか。

三宅「ああ、そういうのもやりたいっすね! (F・スコット・)フィッツジェラルドの小説みたいな、金持ちのどうでもいい恋愛話とか超撮りたい(笑)」

――じゃあ、こうして続いているのはたまたまという感じなんですね。

三宅「そうですし、正確に言うと、自分はそもそも弱者とは見てないっていう感じかもしれません。わざわざこう言うのも変なくらい、あたりまえに、ただただ惹かれて撮るっていう」

――そうかそうか

三宅「もし自分の周りの友達にパニック障害の症状が出た時に、そこで第三者としてなにができるのかが大事だなと。当事者気分を味わうみたいな方法もあるけれど、どこまでいっても第三者でしかないのが映画の限界だし、映画のおもしろさだと思うんですよね。映画なんてはなから全部他人事なわけですから。実話だろうがなんだろうが映画になればフィクションだし、でも他人事なのにもかかわらず第三者としていつの間にか巻き込まれていくっていうのがおもしろさかなと思います」

――海外の観客のことはどの程度意識されてますか?

三宅「誰かと比べてる感じですか(笑)?」

――そういうわけじゃないですけど(笑)、日本を舞台に映画を撮ること、あるいは日本語の映画を撮ることに対して、あまり気負ってないというか。

三宅「例えばドメスティックなジョークとかは絶対に伝わらないものもあるから、避けることはあります。ただ、ちっちゃいころからずっとアメリカ映画を観てきて、アメリカ映画だとローカルでしか通じないギャグも許されて、それが結果おもしろいってこともあるから。それは羨ましいなとは思いますけど」

――自分みたいな仕事をしている人間が、そういうジョークをせっせと解説してっていう構造がありますよね(笑)。

三宅「そうですね。あと、自分の場合は最初に劇場公開した作品から、国際映画祭などを通して海外の観客にも出会えたので、特に気負いもないというか、気負い出したらきりがないんで、気負ってないんですかね(笑)」

■「僕は、グローバリズムとか、メジャーとか日本映画界とか、そういう『大きな物語』みたいなものは、あるようでないと思っている」(三宅)

――そういう三宅監督の戦略のなさというのは、さっき話したような新自由主義、あるいはグローバリズムへの疑義みたいなものとも結びついてるのかなって、ちょっと感じるんですけど。

三宅「その都度その都度、作品ごとにどこに向かっていくかっていうのは考えてはいるつもりなんですけどね…ああ、なるほど、質問の意味がわかりました。僕は、グローバリズムとか、メジャーとか日本映画界とか、そういう『大きな物語』みたいなものは、あるようでないと思っている。そんなのそもそも認めてないし、みたいな(笑)。だからアンチともちょっと違うスタンスで。そのせいでわかりづらいんですかね。当然、日本を代表するなんて気もないし。アナーキーに、というと大袈裟ですけど、自分なりに、いまの時代にどんな題材を取り上げるべきだろうとか、興味深いけどいまやってもあまり意味がないよねとか、そういうことはすごく考えますよ」

――今回の『夜明けのすべて』は、日本ではメジャー映画とも言えるわけですが、海外に出ればアートハウス映画の枠組に入れられるわけで、そういうねじれもそこには生じるわけですよね。

三宅「そうですね」

――現在って、「日本映画の未来は?」とか言ってる以前に、「映画の未来は?」ってことを考えなくてはいけない時代だと思うんですね、それこそ実写のフランチャイズじゃないある程度の予算がかかる映画なんて、いまでは配信プラットフォームから資金を引っ張ってこないとなかなか作れないみたいなことになってるわけですよね。そうした現状をふまえて、映画界の未来、展望みたいなものに関してはどのように考えてますか?

三宅「ちょっと雑な言い方になってしまいますが、自分が生きてる間は、映画はおそらくまだなくならない。そういう楽観がまず大きくあります。ただ、自分より年下の監督を見ていると、自分の世代が映画を撮る時もそんなにめちゃくちゃチャンスが転がっていたわけじゃなかったですが、僕の10個下、20個下の監督たちって、既存の枠組の中で世に出たいという場合なら、大変だろうなとは思いますけどね。でも、どうにでも自由に撮れるっちゃ撮れるから、そこで勝手にやる人が続けていくんだと思います」

――今後、映画の上映環境がどうなってるかもわからないですしね。

三宅「映画の世界に回ってくる資本は有限ですから、それは年齢が下だろうが上だろうが、いい映画を作る人間が映画を撮ればいいと思うんで、それは世代とは関係ないですけど。今年、アジアの10都市ぐらい、わりと長期的に滞在して」

――10都市はすごいですね。

三宅「韓国のムジュとソウル、それから上海、浙江省の浙江伝媒学院、武漢、成都、北京、香港、台北、クアラルンプールですかね」

――それは『ケイコ 目を澄ませて』を持っていったんですか?

三宅「そうです。それに加えて中国の4都市では、各地の有志の自主上映団体がオンラインで連携をとって、僕の特集上映というのをドーンと、初期の作品や短編も含めてやってくれて。そこで思ったのは、これは他の人もとっくに同じことを言ってますけど、やっぱり日本のアートハウス系の映画館の存在というのは、自分たちが思ってきた以上に重要だったんだなってことです。自分のような人間がいま映画を撮れていることの基盤には、明確にその存在がある。アジアの他の国にはそういう環境がこれまでほとんどなく、自主上映団体のような形で続いている。もちろん、それぞれの国の映画界には日本にない側面もたくさんあって、例えば中国映画の俳優のギャラを聞くと、もうぶったまげましたけど」

――うんうん。

三宅「それと、今回つくづく思ったのは、こんなにも人間の欲望ってマーケットに規定されるんだなってことで」

――産業と文化の関係ですよね。

三宅「そうです。中国の本屋に行くと『えっ、こんな本の翻訳までしてるの?』と驚くわけですよ。『一体こんな本、誰が買うの?』と思っちゃうような、日本でも部数が伸びなさそうな本が翻訳されている。でも、『うちの国では、なんか出せばそれなりの人口がいるんで買う人がいるんです』と。“これをやっても売れないかもな”と思う国と、“これをやったら売れるかもな”と思う国とでは、質はともかくとして、描ける夢の量やヴァリエーションが違ってきますよね。小さい世界の大きいマスを取ろうとするのがドメスティックな仕事だと定義するなら、そうじゃなくて、大きい世界を意識しながら今まで通り質のいいものを作れば、きっとどこかに届くはずだ、と思える。大きいマーケットででっかく売ろうとすると、それは巨大資本と組まなければいけないわけですけど、日本の外にマーケット自体はあるぞと。興味を持ってくれる人が、この国とこの国とこの国に何人はいるよねっていうことさえわかっていれば、自分の比較的小さい映画でも成立させることができるかもなっていうことを、今回いろんな国で上映してもらって実感しましたね」

――それは勇気づけられることですよね。

三宅「あと、どこに行っても『濱口監督と仲がいいんですよね?』って言われる。濱口監督がでっかい道を開拓してくれたんで、こっちは歩きやすくてしょうがないっていう(笑)。それは冗談として、映画の中身と絡めて話しますと、かつての山添くんは確かに『メジャー』な社会にいたと思うし、本人もそこから離れて初めてそれに気づいて、自分の居場所はここじゃないって苦しんだと思うんですね。藤沢さんも、『自分なんか』と卑下してしまっているようにも見える。でも途中で2人とも、あくまでかっこ付きのメジャー、かっこ付きのマイナーだった、『思い込み』だったと気づく。それに、いま2人がいる会社が別に『アンチメジャー』でもない。世界はそんな単純じゃないというか、光石さんと渋川さんの演じた役はつながっているわけだし、会社みたいな空気は藤沢さんの母の通院先にも流れている。

同じように、いまの時代に映画を作る自分もそこに重ねるなら、『夜明けのすべて』は“メジャー”でも“アンチメジャー”でもなく、単に、新しくておもしろいものが作りたくて挑んだ映画で、いままでもそうだし今後もそうする、という感じかなと思います。ただまあ、人生いくらコントロールできないことばかりと言っても波に流され続けちゃうのもシャクですし、メジャーか否かはただのドメスティックな尺度だというのも疲れるし、コマーシャルフィルムかアートフィルムかという分類は国際的にはあると認めざるを得ないし(笑)、多少は腰据えてやるべきことをみださめたいと思って、やっとオリジナルの題材も企画開発するべく勉強しているところです」

取材・文/宇野維正

宇野維正の「映画のことは監督に訊け」最新回は、『夜明けのすべて』の三宅唱監督/撮影/黒羽政士