青森県に所在する陸上自衛隊の部隊は毎年、八甲田山の裾野で冬季演習を行っています。これは戦技の向上を図るだけでなく、120年ほど前に起きた旧陸軍の大量遭難事件の慰霊も兼ねているそう。今回、密着取材してきました。

120年ほど前に起きた悲劇の大量遭難事故

2024年2月1日青森県にある八甲田山の裾野で、陸上自衛隊第9師団の第5普通科連隊による「八甲田演習」が行われました。

この演習は、冬季における戦技(戦闘技術)の向上と、あらゆる地形・気象を克服して任務を完遂するための精神を養うために毎年行われている、いわば恒例の訓練ですが、映画や小説にもなった「八甲田山雪中行軍遭難事件」の犠牲者に対する慰霊、そして遺訓を学ぶ機会としても捉えられています。

この事件は日露戦争直前の1902(明治35)年1月、当時、青森市に所在していた旧日本陸軍の歩兵第5連隊を襲った惨劇です。この雪中行軍には210名の将兵が参加したものの、そのうち199名が帰らぬ人となっています。

そもそも、歩兵第5連隊は1874(明治7)年に、現在の青森県立青森高等学校がある場所で創設された部隊です。1894(明治27)年に勃発した日清戦争では、遼東半島から台湾に転進、台南攻撃に参加するなど多くの戦場をくぐり抜け、日本側の勝利に貢献しました。

その一方で、日清戦争における冬季戦闘で苦戦した旧日本陸軍は、この時の経験を踏まえて、来るべき対ロシア戦に向けた準備を進めます。

歩兵第5連隊は、冬季にロシア軍が日本に侵攻し、日本海沿いの鉄道が不通になった際、人力のソリで代替ルートを使った物資運搬が可能かどうか調査を行おうとしました。それが、この八甲田における遭難事故に繋がったのです。

1902(明治35)年1月24日、対ロシア戦を研究する目的で雪中行軍に参加した歩兵第5連隊の総数210名の将兵は、青森市街から田代温泉(青森市駒込)までの約20kmを1泊2日で踏破する予定でした。

そのため、持っていた装備は、1日分の食料と薪などの燃料、そして調理をする大釜など計1.2t分。これを14台のソリに分けて運ぶ計画でした。なお、ソリ1台あたりの重量はおよそ80kgだったそうです。

青森第5連隊の10倍以上を無事踏破した奇跡の部隊

1週間ほど前の1月18日に行われた事前訓練は好天に恵まれたものの、天候が急激に悪化することで知られている八甲田周辺では、本番である出発当日は暴風雨の兆しがすでに表れていました。

さらに、将兵の装備は10年ほど前の日清戦争時とほぼ変わらない、寒さには脆弱なもののまま。それに加えて、軍医からは「露営地では寝ないように」との指示もあったといわれています。

そして、さらに事態を悪化させた原因として「現地住民による案内人の拒否」「山奥の温泉地で1泊して帰るだけ」といった、厳冬期の雪山に入っていくにはあまりにも雑で無謀な計画だったことも、残された資料によって明らかになっています。

こうした天候による悪条件と、準備不足が積み重なり、210名中199名が命を落としてしまったのです。

他方、時同じくして八甲田を目指すもうひとつの部隊がありました。それが青森県西部の弘前市に連隊本部を置いていた歩兵第31連隊(当時)です。

歩兵第31連隊は、日清戦争後の1896(明治29)年に創設された部隊で、偶然にも同じ日に弘前を出発し、十和田湖、三本木、田代、青森、浪岡を経由し、弘前へ戻る、総延長約224km、11泊12日間の雪中行軍を計画していました。

ただ、歩兵第5連隊がほぼ壊滅したのに対して、歩兵第31連隊は総勢37名の精鋭だけが参加し、住民による案内人を付けていたほか、宿泊や食事などはあらかじめ現地住民に協力を求められないか役場に依頼するなどしていました。また、凍傷や低体温を予防するための準備も入念に行われていたため、歩兵第5連隊よりも長期間、長距離の雪中行軍だったにも関わらず、途中で負傷し帰還した1名を除き、全員が無事に弘前まで戻っています。

こうした歴史を持つ旧日本陸軍の歩兵第5連隊と同じ部隊ナンバーを持つ陸上自衛隊の第5普通科連隊。この時期になると、歩兵第5連隊が残した遺訓を受け継ぐため、毎年のように雪中行進訓練を行っているのです。

体感温度はマイナス20度? 2024年の八甲田演習

今回の冬季演習のルートは約7.5km。隊員は約20kgの装備を背負い、列を組んで歩き始めます。

行進開始時の気温は持参した温度計でマイナス6度。歩き進め高度を上げていくほど気温は下がっていきます。最終的な気温は手元の温度計でマイナス8度、スマートフォンの天気アプリではマイナス12度と表示されていました。なお、当日は視界を奪うほどの暴風雪であったため、体感温度はもしかしたらマイナス20度を下回っていたかもしれません。

それでも、問題なく踏破できたのは、120年ほど前の遭難事件当時とは全く異なる装備を持っていたからです。

現在の陸上自衛隊が持つ冬季装備は、当時とは比較にならないほど快適に進化しています。戦闘防寒服は透湿防水性を持ち、インナーも保温力に長けています。全てを適切に装着すれば、マイナス30度のなかでも行動できるように設計されているともいわれています。

また、自衛隊のスキーは一般的なスキーと異なり、革靴にかかとが浮くタイプの、いわゆるクロスカントリースタイルのスキーです。これは、慣れている隊員は余裕があるものの、不慣れな若年隊員には歩くだけでも大変な装備でもあります。

しかし、それでも雪中では段違いに行動力が上がります。ちなみに、不慣れな若年隊員も先輩隊員からのアドバイスを受けて踏破していました。彼らは、最初こそ不安そうな表情でしたが、最後には笑顔を見せてくれました。

なお、今年の行進訓練は、この後に大きな訓練が控えているということで、例年行う雪中野営は取り止めとなっていました。そのため、行事そのものは雪中行軍の生存者の1人である後藤伍長の銅像に敬礼を捧げて締めくくられています。

今回、筆者(武若雅哉:軍事フォトライター)は第9師団および青森駐屯地の広報担当者の協力を得て全行程に同行させてもらいましたが、厳冬期における八甲田山麓の厳しさを、身をもって体感することができ、冬季装備と事前計画の重要性を再認識させられました。

最後に、この場をお借りして、犠牲となった199名の将兵に対し、改めて追悼の意を表します。

冬季装備を背負って更新する隊員の後方を雪上車が追従する。雪上車は途中から別ルートで進むため、支援が受けられるのは前半だけだ(武若雅哉撮影)。