軍部の政治介入が進み、日本は日中戦争に突入します。国民の生活を巻き込んだ「国家総動員法」の発令まで、政治経済はどのように展開されていったのでしょうか。著者『大人の教養 面白いほどわかる日本史』(KADOKAWA)より、有名予備校講師の山中裕典氏が、1930年から1940年代にかけての社会情勢について解説します。

日中戦争のはじまり

日本史で「戦時中」と呼ばれる時期には、日中戦争(1937~45)と太平洋戦争(1941~45、第二次世界大戦の一部)が重なりながら展開しました。

1941年以降に日本が戦った日中戦争太平洋戦争について、当時の政府は「大東亜戦争」の名称を決定し(敗戦まで使用)、近年の歴史学研究ではこれをアジア・太平洋戦争と呼ぶことが増えています。

軍部の影響はどのように強まったのか

軍部が政治発言力を強めるなか、外交官の〔広田弘毅内閣〕は軍部大臣現役武官制を復活させて、軍部による内閣への介入が再び可能となりました。そして、ワシントン海軍軍縮条約が失効し、大規模な軍備拡張計画に基づき予算が大幅に増やされ、国防中心の戦時体制が作られました。

また、対外進出方針として「国策の基準」が決定されましたが、ここで示された、ソ連に対抗する北進論と、東南アジア太平洋へ進出する南進論は、のちに膠着した日中戦争の打開策として実行に移され、太平洋戦争へとつながりました

1930年代の世界情勢について

世界恐慌の影響が拡大するなか、ドイツではヒトラーが主導するナチス政権が一党独裁(ナチズム)を確立し、ヴェルサイユ体制の打破を掲げて国際連盟を脱退し、再軍備を宣言しました

国際連盟を脱退し、ワシントン海軍軍縮条約も廃棄して国際的孤立を深めた日本は、〔広田内閣〕のもとで日独防共協定を結び(1936)、ソ連への対抗と共産主義の抑止を約しました(のちイタリアも含めた日独伊三国防共協定[1937]を締結)。

一党独裁(ファシズム)を固めていたイタリアも含め、日本は全体主義陣営ドイツイタリア)との関係を深めたのです。

中国情勢の変化について

満州事変の終結後、関東軍は満州国の南にある華北を日本の影響下に置くため、中国人に親日政権を作らせる華北分離工作を進めました(1935~37)。しかし、国民政府の蔣介石は共産党との内戦に熱中し、抗日を求める声を顧みない。

こうしたなか、共産党との戦いで西安(かつての長安)にいた満州軍閥の張学良が、視察で西安を訪れた蔣介石を監禁し、内戦停止と抗日を要求すると(西安事件1936)、考えを改めた蔣介石は共産党との内戦を停止しました

日中戦争はどのようにはじまったのか

日本では、陸軍の〔林銑十郎内閣〕を経て、貴族院議長(もと摂関家の近衛家)の〔第1次近衛文麿内閣〕が成立しました。

そして、北京郊外で日中両軍が衝突する盧溝橋事件(1937.7)が発生し、第2次上海事変も起こって日中戦争(1937~45)が拡大すると、中国では第2次国共合作が成立して抗日民族統一戦線が形成され、宣戦布告もないまま長期戦となり(日本はこれを「支那事変」と呼称)、日本軍は首都南京を占領しました(南京事件も発生)。

しかし、国民政府は内陸部の重慶に移り、東南アジアからの援蔣ルートを通じたアメリカ・イギリスの物資援助を受けながら、抗戦を続けました。

日中戦争に関連した外交の進行について

1938年、日本は近衛声明を発表し、各地に親日政権を作って和平を達成する方針に転換しました。第1次近衛声明では「国民政府を対手とせず」と表明し、蔣介石の国民政府との和平交渉を日本側から閉ざしました

第2次近衛声明では「日本・満州・中国の連帯と東亜新秩序の建設」を掲げ、今さらながら戦争目的を表明しました。

のち、国民政府要人で親日派の汪兆銘が重慶を脱出し、日本の保護下で南京に新国民政府を樹立しましたが(1940)、政権としては弱体で、日本の和平工作は停滞しました。

自由な思想は禁止された

文部省は『国体の本義』を作成し、神話をもとに国体の尊厳と天皇の神格性(「現御神」)を説き、国民精神を高めようとしました。日中戦争の開戦後、自由主義や社会主義への弾圧が一層強化されました。

矢内原忠雄は政府の大陸政策を批判して、東京帝大を追われました。人民戦線事件では、反ファシズム団体の結成を計画したとして、日本無産党の指導者やマルクス主義経済学者の大内兵衛らが検挙されました(共産党員でなくても治安維持法を適用)。

また、火野葦平麦と兵隊』など従軍経験による戦争文学が登場しましたが、石川達三『生きてゐる兵隊』は発禁処分になりました。

日中戦争開始後の国民の経済活動について

〔第1次近衛内閣〕は「挙国一致」などのスローガンを掲げて国民精神総動員運動を推進し(1937~)、戦争協力を求めました。さらに、職場ごとに産業報国会を結成させ、労資一体を促進しました。また、軍事費を急増させるとともに、内閣直属の企画院を設置して経済統制を強めました。

さらに、国家総動員法(1938)で、政府は議会の承認なしに勅令を発して労働力や物資を統制する権限を得ました。議会が立法権の一部を政府へ譲り(授権立法)、議会の審議が形骸化したのです。のち、軍需産業へ動員する国民徴用令や公定価格を定める価格等統制令が出されました(1939)。

一方、軍需優先のなかで民需が制限され、「ぜいたくは敵だ」のスローガンのもと、日用品の切符制(事前配布の切符を添えて購入)、米の配給制(購入量の一定制限)、生産者への供出制(強制買上げ)が実施されました。

山中 裕典

河合塾東進ハイスクール東進衛星予備校

講師

(※写真はイメージです/PIXTA)