リクルートワークス研究所の「全国就業実態パネル調査」では、労働者の半数近くが仕事内容に見合うだけの賃金を得られていないと回答しています。物価が上がり、直接的に家計を圧迫し続けているのにも関わらず、日本人の賃金が上がらないのはなぜでしょうか。本記事では、元IMF(国際通貨基金)エコノミスト東京都立大学経済経営学部教授の宮本弘曉氏による著書『一人負けニッポンの勝機 世界インフレと日本の未来』(ウェッジ社)から、日本人の賃金が上がらない理由について解説します。

ボイスを上げない日本人

世界各地で、労働者たちは賃上げや職場環境の改善を求める声を高めています。イギリスでは2022年12月、看護師労働組合である王立看護協会が、伝統的にストライキに反対していた方針を見直し、106年の歴史において初めてストライキ踏み切りました。

アメリカでも、労働者によるストライキが大幅に増加しており、2022年には約12万人がストライキに参加し、2021年に比べて50%も増えました。高止まりするインフレによって実質賃金が目減りしていることが賃上げ要求につながっているのです。さらに、アマゾンやアップルといった大手企業では、従業員が新たに労働組合を結成する動きも広がっています。

翻って、日本では労働者がボイスを上げていません。労働者労働組合が賃上げを積極的に要求しないことが、日本で賃金が低迷した原因のひとつであると考えられています。

雑談の中でそっと「給料上げてくださいよ~」としか言えない日本人

リクルートワークス研究所が日本、アメリカ、フランスデンマーク、中国の労働者を対象に実施した「5カ国リレーション調査」によれば、驚くべき結果が明らかになりました。入社後に賃上げを要求したことがない労働者の割合は、日本がなんと71%にものぼります。

これに対し、その割合は、アメリカ、フランスデンマークでは最大でも3割強、中国ではわずか5%にとどまっています。さらに、入社時に賃金の希望を伝えた労働者の割合も、日本の25%に対し、他国では約7〜9割と高い数字が示されています。

また、リクルートワークス研究所の「全国就業実態パネル調査」では、正社員の51%、非正規社員の46%が「賃金は仕事内容に比べて低い」と感じており、労働者の半数近くが仕事内容に見合うだけの賃金を得られていない状況が示されています。

しかし、会社に賃金を上げてほしいと要望する労働者の割合は、わずか25%程度で、しかも、その多くが公式な場ではなく、雑談の中で賃上げを要望したことが明らかにされています。

海外では労働者が企業と賃金について交渉するのが一般的なのに対して、日本では労働者が賃金について声を上げることが珍しいのです。ただし、これは決して「ボイスを上げない労働者が悪い」という話ではありません。

日本の雇用慣行のもとでは、賃金は年功序列で決まっており、労働者個人が賃金に関与する余地は少ないのが現実で、日本では労働者が賃金を交渉するという風土がありません。

先述の「5カ国リレーション調査」でも、賃金の決定要因として「個人と会社の個別交渉」を挙げる労働者の割合は、日本では20%と他国の3分の1程度にとどまっています。さらに、賃金の決定要因が「わからない」と回答している日本の労働者の割合は33%で、次いで高いデンマークの18%よりも、15ポイントも高くなっています。

賃上げ交渉に消極的な日本の労働組合

ボイスを上げないのは労働者だけではありません。労働組合も近年、賃上げ交渉に対して消極的でした。そもそも、労働組合は組織率が低下、存在感を失いつつあります。労働組合の組織率は1949年の56%をピークに、低下の一途をたどっています。1980年頃には約30%まで低下、2000年代頭に20%を切り、2022年には16.5%となっています。

労働組合の重要な役割は賃金交渉ですが、日本は他国に比べて労働組合の存在感が乏しいのが現状です。リクルートワークス研究所「5カ国リレーション調査」では、賃金決定の重要な要因として「労働組合使用者の団体交渉」を上げた人の割合は、日本は20%で最も低くなっています。

日本経済が長期停滞する中で、労使交渉において賃金の引き上げよりも雇用の安定を優先することが「公正」とされたことも、賃金が上がらなかった原因のひとつとなっています。

日本の労働組合は企業ごとに存在し、個々の企業の実態に応じた労使交渉ができるというメリットがあります。しかしこれと同時に、企業の存続と利益がなければ、雇用が維持されず、労働組合自体が困る状況が生じます。それゆえ、近年、日本の労働組合は雇用維持を優先し、企業が賃金を上げないことを容認するなど、その役割が低下しています。

このように、賃金に不満があるにもかかわらず、日本では労働者個人あるいは労働組合による賃金交渉が十分に行われておらず、さらには賃金の決定要因を理解していない労働者が3割もいるなど、労働者の賃金の当事者意識が低いことも賃金の低迷につながっていると考えられます。

最近の経済学の研究では、労働者は過去よりも賃金が下がることを嫌う一方で、賃金が下がらない限り、賃金上昇にそれほど執着しない傾向が明らかになっています

このような状況では、企業は賃金を一度上げると元に戻せなくなるため、賃上げに慎重になります。さらに、日本では終身雇用制度があり、正社員の解雇が簡単ではないので、賃金を上げた場合、下げることがさらに難しくなると考えられます。

※ 玄田有史編(2017)『人手不足なのになぜ賃金があがらないのか』慶應義塾大学出版会

宮本 弘曉

東京都立大学経済経営学部

教授

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