現在発行されている千円札の表面には、野口英世の肖像が描かれていますが、その前は夏目漱石の肖像でした。お札に描かれるほどの人物でありながら、漱石の生涯は、金銭の苦労が絶えませんでした。人生の選択にもお金が判断材料になっていたのでした。

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文=山口 謠司 取材協力=春燈社(小西眞由美)

専属作家はいくらもらえる?

 親譲(おやゆず)りの無鉄砲(むてっぽう)で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰(こし)を抜(ぬ)かした事がある。なぜそんな無闇(むやみ)をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談(じょうだん)に、いくら威張(いば)っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃(はや)したからである。小使(こづかい)に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼(め)をして二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴(やつ)があるかと云(い)ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。

ちくま日本文学全集 夏目漱石』より『坊っちゃん』(筑摩書房)

 文豪といえば漱石、と誰もが思う日本を代表する小説家夏目漱石。『坊っちゃん』は松山の中学校教師の体験をもとにした漱石の代表作です。こ主人公の独白が独特のリズムで展開され、私が音読にもおすすめしている小説です。実況放送のように目の前で実際に繰り広げられているような臨場感のあるリズムは、落語が大好きだった漱石にしかできない表現と言ってもいいでしょう。

 しかし、漱石の生涯は『坊っちゃん』の冒頭に書かれている「破天荒」ではありませんでしたが、生まれてからずっと「損ばかり」していました。

 そんな漱石の人生の大きな岐路となったのは、明治40年(1907)、帝国大学(現・東京大学)を辞め、「東京朝日新聞社」に専属作家として入社したことでしょう。

 東京朝日新聞が漱石を招聘する際、その交渉役となったのは、漱石が教師をしていていた熊本五高時代の教え子、坂元雪鳥(本名・白仁三郎)でした。漱石は入社を決めるにあたって雪鳥に、明治40年3月4日付で以下の書簡を送っています。

 何年務めれば官吏で云ふ恩給といふ様なものが出るにや、さうして其高は月給の何分の一に当たるや。

 小生が新聞に入れば生活が一変する訳なり。失敗するも再び教育界へもどらざる覚悟なればそれ相応なる安全なる見込なければ一寸動きがたき故下品を顧みず金の事を伺ひ候

 お金のことを聞くのは下品だとことわりつつ、給料だけでなく、今の年金にあたる恩給の額まで訊くとは、なんとも哀しい限りです。

 なぜこんなにも漱石は、収入を気にしたのか。そこにはそれまでの人生での壮絶な苦労があったのです。

「金之助」の損な生い立ち

 漱石は慶応3年(1867)2月9日、牛込馬場下横町(現・新宿区喜久井町)に生まれます。この日は庚申の日で、生まれた子供は大いに出世するが、そうでなければ大泥棒になるという謂れがありました。その難を逃れるためには名前に「金」か「金編」の字をつけるとよい、ということで、「金之助」と名付けられます。

 父・夏目小兵衛(直克)は町方名主でした。漱石はその8番目の子供で五男。漱石が生まれた時、父は老境の50歳、母・ちえは41歳で、もはや母乳が出なくなっていました。いわゆる「恥かきっ子」の漱石は、夏目家には必要とされない子供だったのです。

 漱石が生まれる前日、内藤新宿北裏町(現・新宿区新宿2丁目)の門前名主・塩原昌之助という29歳の男が、自分には子供がいないから、生まれる子を養子にもらいたいと頼みに来ました。昌之助の妻・やすは夏目家に奉公に来ていたことのある女性です。

 名主とは町奉行や寺社奉行に所属する地区のまとめ役で、明治維新がなければ、漱石は塩原家で名主を継いでいたかもしれません。漱石が生まれた年の10月、徳川慶喜は大政奉還を表明し、明治と改元。江戸時代が終わったことによって名主制度も終わり、漱石の養父・昌之助は「添年寄」という役に就き、浅草三間町に引っ越します。

 しかしその浅草の家は、明治4年(1871)に近所の火事で類焼してしまい、一家は空き家になっていた内藤新宿の妓楼「伊豆橋」に住むことになります。

 同じ年、昌之助に収賄の容疑がかけられ、添年寄の役を免ぜられて失業。このような混乱の中、漱石は正式に塩原家の戸籍に登録されず、「長男」として届けられたのは明治5年(1872)、満5歳になってからでした。

 その間にも漱石にとって不幸な出来事がありました。4歳の時に受けた種痘がもとで、疱瘡に罹ります。その際にできた「あばた」を生涯気にしていて、小説家となってからの写真はすべて修整してもらっていたといいます。また5歳の時には廊下から庭に向かって小便をしていて転落、足を骨折したりもしています。この頃から「損」がだんだん溜まっていったのでした。

舞い戻った実家でも冷遇される

 失業の翌年、昌之助は東京第五区五小区(現・台東区駒形2丁目)の戸長となり、一家は再び浅草で暮らします。まもなくして昌之助が、ある未亡人と関係を持ったため、夫婦仲が悪くなり、ついには離婚。8歳の漱石は塩原の姓のまま、夏目家に戻ることになったのでした。

 舞い戻った実家で漱石は、高齢の実の父母を祖父母だと思い込んでいたといいます。そして、これまで養父母の手前、優しく漱石に接していた実父は、手のひらを返したように漱石に冷たく当たりました。

 実家にいても養父の家にいても居心地が悪かった漱石は、13歳くらいから落語に夢中になり、寄席に足繁く通うようになります。今でいうならゲームや漫画に熱中して現実を忘れるのと、同じことかもしれません。

 14歳の時に実母・ちえが亡くなります。そして「これからは英語の時代だ」といって漱石を応援してくれた長兄・大助も結核に罹り、漱石が20歳の時に亡くなります。

 大助には警視庁に勤めている樋口則義の長女・夏子と縁談がありましたが、これを断って警視庁の翻訳係をしながら漱石の学費を援助していました。夏子はのちの樋口一葉です。漱石は、一葉の義理の弟になる可能性があったのでした。

 長兄の死から3か月後、次兄・直則も肺結核で亡くなります。父・小兵衛(直克)は漱石に跡を取らせることも考えて、夏目家に漱石の籍を戻そうと塩原家と交渉しました。そして「7年間の養育費240円を返済すること。そのうち170円は即金、残りの70円は月3円ずつ無利息の月賦で毎月30日に支払うこと」という条件で、その話が決着します。

 しかし、このお金は父親が払ったのではありません。漱石が工面しなければならなかったのです。

 このような家庭環境が、若い漱石にのしかかっていたのでした。

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夏目漱石