(町田 明広:歴史学者)

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◉真の明治維新の立役者・小松帯刀の生涯とは①

「久光―小松体制」体制の確立

 安政5年(1858)、島津斉彬が急逝した後、異母弟である久光の実子・忠義(茂久)が後継藩主に就任した。久光は、幕府から国父の称号を得て、藩内での基盤確立を企図した。その最大の焦点は、門閥制の打倒であり、久光による久光のための体制の確立であった。

 文久元年(1861)になると、西郷隆盛大久保利通を中心とする下級藩士の政策集団・誠忠組を取り込み、5月に小松帯刀を側役(家老に次ぐ執政官)として抜擢した。側役就任以降、小松は10月に改革方・御内用掛に、翌2年(1862)1月に大番頭・家老吟味(見習い)に昇進したのだ。

 これ以降も、小松の出世は止まることを知らなかった。文久2年12月に家老を拝命して御側詰(役料高千石)となり、さらに御勝手掛、御軍役掛、琉球掛、琉球産物方掛、唐物取締役掛、御製薬方掛、造士館掛、演武館掛、御改革方掛、御内用掛、佐土原掛、蒸気船掛の兼務を拝命した。このように、藩の軍事、外交、財政、産業、教育等の指揮命令権が小松に集中し、「久光―小松体制」が確立したのだ。28歳の青年宰相が誕生した瞬間である。

島津久光の率兵上京

 島津久光小松帯刀を中心に据えて藩政を行うことを選択したが、その理由は何であろうか。まずは、一門による門閥体制の打倒後の家老職ポストは極めて重要であった。そして、久光側近グループと誠忠組を融和・統制する力量も必須であり、久光の意を受けて、目指す国事周旋を理解し推進できる傑出した人物として小松を抜擢したのだ。

 文久元年10月、小松を中心とする久光四天王(小松・大久保利通・中山中左衛門・堀次郎)体制がほぼ確立し、国事周旋の準備が完了した。文久2年4月、久光は千人もの武装兵を率いての上京を決行した。いわゆる、島津久光の率兵上京である。

 亡兄島津斉彬の遺志を継ぎ、国政に関わることを企図し、老中が担う幕政における人事改革を朝廷の権威(勅諚)によって強要することを画策した。そして、安政の大獄によって失脚していた一橋慶喜と松平春嶽の幕政への登用を目指した。その実現の先には、尽力した久光自身の幕政参画を期待したのだ。

率兵上京の歴史的意義とは

 久光の意図した如何にかかわらず、率兵上京は幕末を動乱に導く画期となった未曾有の大事件となった。幕府は朝廷と諸侯の接触を厳禁しており、そもそも、藩主でない無位無官の久光が武装兵を大挙率いて上京すること自体、言語道断の事態であったのだ。しかし、もはや幕府にはそれを阻止する力を失っており、その事実が浮き彫りとなった。

 また、率兵上京によって、幕末の舞台は江戸から京都に移行した。それに伴い、朝廷(天皇)の権威が急激に浮上したのだ。さらに、薩摩藩や長州藩などの西国雄藩の中央政局への介入が始まった。そして、尊王志士が息を吹き返して王政復古を志向し、幕府への対決姿勢を強化した。

 率兵上京によって、中央政局に登場した久光は、尊王志士を弾圧した寺田屋事件を契機に、孝明天皇の絶大な信頼を獲得した。久光は、自分の意思にかかわらず、幕末政局の中心的存在となり、無意識に幕末の動乱を惹起したのだ。率兵上京を久光とともに画策し、中央政局の主役の1人に躍り出たのが小松帯刀であった。

生麦事件・薩英戦争と小松帯刀

 久光は勅使大原重徳に供奉して、文久2年6月7日に江戸に到着した。老中を威嚇するなど強引な駆け引きを行い、慶喜が将軍後見職、春嶽が政事総裁職に補職することに成功した。しかし、幕閣は久光の強引なやり口に反感を抱き、無位無官であることを口実に、久光は徹底的に排除され、自らの幕政参画は断念せざるを得なかった。

 江戸での情勢に嫌気を感じ、8月21日に久光は京都に向けて江戸を立ったが、その道中で英国人殺傷事件である生麦事件が勃発した。英国代理公使ジョン・ニールは、保土ヶ谷に宿泊した久光一行への報復攻撃に傾く、横浜居留地の住民の多数意見を阻止した。ニールは、現実的な戦力不足と全面戦争に発展した場合の不利を説いて鎮静させ、幕府との外交交渉を重視する姿勢を示した。

 一方で、小松は奈良原喜左衛門・海江田信義の神奈川・横浜への夜襲の強請を斥け、幕府の制止を無視して上京を継続したのだ。ニールと小松、両者の極めて冷静な判断がなければ、薩摩藩とイギリス局地戦または戦争に至った可能性は極めて大きい。

 これ以降の薩摩藩は、犯人の逮捕・処刑と賠償金を強く求める英国の動向に大きな制約を受けた。英国艦隊による報復攻撃の脅威のため、久光は中央政局から離脱し、就任予定の京都守護職も断念して、度重なる上京の命令にもなかなか応えられず、鹿児島に止まらざるを得なかったのだ。

 文久3年(1863)7月2日、薩英戦争が勃発し、薩摩藩は戦死者こそ5人程度と少なかったものの、艦砲射撃によって鹿児島城の一部、集成館、鋳銭局を始め、民家約350戸、藩士屋敷約1600戸が焼失して、武力の違いを見せつけられた格好となった。

 イギリスとの戦争を継続することは困難と判断し、過激な攘夷行動に走る長州藩に牛耳られた中央政局を打開のため、講和談判の至急開催および妥結を急いだ。この間の藩政を、小松は久光を補佐しながら薩摩藩を統括し、厳しい藩政の舵取りを行ったのだ。

朝政参与の実現と西郷の召喚

 イギリスの脅威を取り除いた久光は小松らを従えて、この間に在京薩摩藩士が策謀した8月18日政変(長州藩および三条実美ら過激廷臣を追放)後の中央政局に登場した。久光は朝廷・幕府どちらからも絶大な信頼を勝ち取り、まさに人生のクライマックスを迎えたのだ。 

 小松を中心に、久光の朝政参与の実現(参与会議)を画策し、元治元年(1864)1月に至って結実し、久光は一橋慶喜・松平春嶽松平容保山内容堂伊達宗城とともに任命された。二条城での老中御用部屋入りも許され、久光は念願の幕政参画も実現させた。

 しかし、参与会議の実態は単なる朝議の諮問機関に過ぎず、老中御用部屋入りも単なる形式レベルのものであった。久光は、横浜鎖港をめぐって慶喜と激しく対立し、しかも、孝明天皇が嫌う山階宮の還俗を画策し、その実現に向けて朝廷に無理強いをしたため、肝心の天皇とも疎遠になってしまったのだ。

 こうした閉塞感の中で、この状況を打開すべく、率兵上京をめぐって久光の命令を無視して沖永良部島に流刑となっていた西郷隆盛の召還・赦免が行われた。久光は当初、西郷召喚の希望を聞いて激怒したものの、小松ら側近の取り成しが功を奏して容認した。

 西郷は2月21日に沖永良部から帰還し、早くも3月14日に着京後、18日に久光に謁見した。西郷は、19日に軍賦役兼諸藩応接係、4月8日に一代新番、14日に小納戸頭取・役料米48俵・御用取次見習、5月15日に一代小番・小納戸頭取に一気に出世を果たしたのだ。

 久光帰藩後の中央政局において、小松の参謀として西郷は吉井友実伊地知正治とともに、禁門の変前後の中央政局を舵取りすることになった。しかし、久光は西郷への期待を認めながらも、それを遥かに超える不信感が継続した。その後も、久光の西郷に対する監視の目は厳しく、中央政局での縦横な国事周旋は不可能であった。いずれにしろ、久光の帰藩後の中央政局は、小松に託されたのだ。

 次回は、久光退京後の中央政局において、小松が中心となった長州藩の率兵上京に備えた動向や長州藩征討の勅命獲得に至った経緯を詳しく見ていこう。

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