「売上を上げてきたのに、利益がほとんど変わらない。」「同じルールの下で同じ商売をしているのに、ものすごく儲かっている会社と倒産していく会社があるのはなぜか?」…このように考える中小企業の経営者やスタートアップの代表は多いでしょう。27才で売上高1億5千万円、自己資本比率15%の電気工事会社を父から引き継ぎ、その後、売上22億円、経常利益2億円、従業員240人の会社にまで成長させた株式会社九昭ホールディングス代表取締役・池上秀一氏の著書『資金繰りの不安がなくなり、自己資本比率が上がる! 付加価値額の教科書』(イースト・プレス)より、池上氏の経験に基づき導き出された経営メソッドを、一部抜粋して紹介します。

36歳のときに父親が急死…。10億円の借金を背負う

借金を背負うきっかけは、父の急死でした。

父は私が北九州市に戻ってきたタイミングで九昭が持っていた土地にホテルを建てました。ホテル業と不動産事業に専念するために電気工事事業を私に任せたのです。父はイケイケドンドンな人だったので、あちこちの土地や不動産に手を出し、結構な資産を持ちました。

「資産」とは一般的にお金を生み出す財産のことですから、こう書くと父は資産家になったように思えるかもしれませんが、実際は銀行からの借り入れで購入しているので「資産=借金」という捉え方もできます。

現実に、父が亡くなった時点で銀行からの借入金残高は約10億円。連帯保証人だった私はその債務を引き受けなければならない立場に──つまり、突然10億円の借金を背負うことになってしまったのです。

父の葬儀には、銀行から北九州支店の銀行関係者だけではなく本店からも錚々(そうそう)たる面々にご列席いただきました。

若造だった私は「父はこんなレベルの人が葬儀に訪れるくらいに著名だったのか」と心より感謝する気持ちになったのですが、現実はそうではありませんでした。彼らは新社長として会社を切り盛りしている私が、果たして10億円を返せるほどの人物かどうかを見極めに来ていたのです。

それは葬儀後、すぐにわかりました。いきなり銀行に呼び出されて父の持っていた資産のうちで「何を残し、何を売却するか」の話から始まったのです。

銀行としては一刻も早く資産を売却して借入金残高を減らしたい意向がありました。しかし、私としてはそれでは叩き売りになってしまいますし、全額返済ができるとは限りませんでした。

特に、父が北九州市内に持っていたホテルは開業して間もなかったため、ホテル事業として運営することで売上を立て、借入金返済の原資にしようと考えました。銀行としてはそういう金になりそうな資産こそ売却したかったと思いますが、私はホテル事業継続を提案し、実際に運営を開始しました。

しかし、考えてもみてください。私は電気工事会社を父から受け継ぎ、5億円企業にまで成長させていました。そこまでするのに懸命に働いていました。そこにホテル事業まで新たに経営しなければいけなくなりました。

「ホテル事業は社員の誰かに任せればいいじゃないか」

そう感じるかもしれません。しかし、そんな人材は当時の九昭にはいませんでした。結局、私が両方の代表を務めることになり、それこそ「昼間は電気屋の社長、夜はホテルの社長」と24時間・365日営業状態になりました。

正直、まだ30代だったから体がもちましたが、そんな働き方は数年間しか続かず、徐々にホテルの売上も下がって1億円を割る頃には「効率が悪すぎる」と考えるようになり、電気工事業一本で行くためにホテルと土地を売却しました。

その他、諸々の父の資産をすべて売却していたのも含めて、返済できた借入金は5億円でした。40歳を前にして5億円の純粋な借金だけが残ったのです。

7〜8年間、妻と一緒に徹夜で銀行への書類を作る日々

結論を先に言ってしまうと、父の残した借金10億円を私は55歳で完済します。36歳で背負いましたから都合19年間で返済しました。

当時の銀行の選択肢は

①回収できるものはすべて回収してから会社を潰す

②回収できるものは回収して、高い金利を取ってとりあえず延命させる

の2つだったのではないかと思います。

結果、②を銀行が選択してくれたおかげで生き延びることができました。

この19年間の中で私は付加価値額経営と出逢い、自社の業績を改善してキャッシュフローを残し、借金完済もすることができました。

この19年間は筆舌に尽くしがたい日々でした。銀行からは事あるごとに呼び出され、しかもこちらの都合はお構いなしでした。私も断ればそれで終わりだと思っていましたから行かないわけにはいきませんでした。

しかし、その過程で銀行に“鍛えてもらえた”とも思っています。

5億円の売上を出せるようになってはいましたが、私は経営者としてはド素人でしたし、正確には経営者にすらなれていなかったことを深く認識しました。そういう意味では向こうも仕事とはいえ銀行には苦しめられましたが、同時に感謝もしています。

銀行とのやり取りを詳細に書いていくとページが足りませんので、付加価値額経営につながる部分だけ掻い摘んでお伝えします。

まず銀行から言われたのは、当時の九昭がやっていた事業について工種別に取引先の一覧を作ることでした。

仮に電気工事の仕事が100件あるとして、それが「公共工事」か「民間工事」か、「元請工事」か「下請工事」か、厳密にそれらは「何の」電気工事で、その電気工事は「何件」あって、「売上」はいくらで、「利益」はいくらになるのか。売上5億円の内訳をすべて分解して年単位で一覧表にするよう言われました。

次に、毎月の資金繰り表を作るように言われました。要するに、日々の入出金がわかる現金出納帳のようなものです。

月が終わるごとに来月はいくらの請求ができて、売掛や買掛がどのくらいあるか、その差分で原価が処理できるのか、利益はどれだけ残って、銀行にはいくら返済予定なのか。中小企業の経営者であれば番頭とともに作るものを、私は専務だった妻と一緒に徹夜でエクセルのデータを作りました。

銀行はそれらの表をもとに融資を検討してくれましたので、こちらもきちんとした書類 を作るために必死でした。そのような日々はなんと7〜8年続きました。

「もうどうしようもない」…全て終わりにしようとさえ考えた

書類の作成と並んで大変だったのは、銀行からの突然の呼び出しでした。

仕事をしていると突然電話がかかってきて「すぐに来てくれ」と呼び出されることが何度もあり、こちらの予定はお構いなしでした。ある月には取引をしている支店の支店長ではなく、本店の融資担当部長から急に電話があって「今から来てくれ」ということもありました。

当然、その日のスケジュールを動かさないといけません。銀行の本店は福岡市内にあっ て、北九州市小倉から車で1時間半ほどかかります。往復で3時間。打ち合わせの時間を 入れても4時間以上が取られます。

しかも行かないとそれで融資は終わりだったでしょうから、行かざるを得ませんでした。 ただ、呼び出しがあるのは状況としてはまだマシなほうです。「融資担当部長が会って くれる=お金を出す意思はある」ということでしたから、行くだけの価値はありました。

最も参ったのは、あるとき支店長から「もうこれ以上は出せません」と言われたときで した。要するに最後通牒です。借金を返済し始めて5~6年が経った頃で、しかも支払い期日まで2週間もないようなタイミングでした。

もう出さないということは「九昭は潰れる」ということです。元金がなかなか返済できず、まだ4億円くらいは借金が残っていたと記憶しています。 銀行としてはこれ以上の融資が膨らむくらいならいっそのこと潰して、会社の土地を処分して1~2億円でも回収しようと判断したのかもしれません。

正直、このときばかりは降参でした。必要だったお金はわずか1,000万円程でした。「もうどうしようもない……」と途方に暮れ、何もかもすべて終わりにしようとさえ考えました。しかし、 私には死ぬ勇気がありませんでした。私が死んでも借金は残ります。妻や子供もいましたし、会社には社員たちがいました。私が死ねば全員が路頭に迷うことになります。

こんな言い方をしては何ですが“たった1,000万円”のために自殺を考えるほど追い込まれていました。

2013年に大ヒットしたドラマ『半沢直樹』の主人公・半沢直樹は超零細町工場の息子として生まれました。高い技術を持つ町工場でしたが取引先の倒産によって経営が傾き、取引銀行の融資課長に雨の中で土下座をしたのに融資を断られ、半沢直樹の父親は追い詰められて自殺をしてしまいます。まさに、これと同じ心境でした。

進退きわまった私は、本来ならばやらないことですが、友人や取引先の社長たちを回って、頭を下げて1,000万円を都合しました。おかげで何とか生き延びることができました。本当に感謝しています。

現在でも、中小企業の社長が経営難を苦に自殺をしたニュースを見ると、その気持ちが痛いほどよくわかります。『半沢直樹』が放映されていた当時も、共感しながら観ていたことを思い出します。

(株)九昭ホールディングス代表取締役

池上 秀一

画像:PIXTA