ロンドンから帰国後、教員として鬱々とした日々を送っていた漱石。たまたま頼まれて執筆した『吾輩は猫である』が大人気になり、小説家の道を踏み出します。しかしその9年後、胃潰瘍が悪化し、49歳で亡くなります。胃が痛くなるような、不都合な事実を抱え込んでいたのかもしれません。

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文=山口 謠司 取材協力=春燈社(小西眞由美)

貧乏は抜け出せたけれど・・・

 吾輩(わがはい)は猫である。名前はまだ無い。

 どこで生れたかとんと見当(けんとう)がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪(どうあく)な種族であったそうだ。(中略)

 吾輩の主人は滅多(めった)に吾輩と顔を合せる事がない。職業は教師だそうだ。学校から帰ると終日書斎に這入ったぎりほとんど出て来る事がない。家のものは大変な勉強家だと思っている。当人も勉強家であるかのごとく見せている。しかし実際はうちのものがいうような勤勉家ではない。吾輩は時々忍び足に彼の書斎を覗(のぞ)いて見るが、彼はよく昼寝(ひるね)をしている事がある。時々読みかけてある本の上に涎(よだれ)をたらしている。彼は胃弱で皮膚の色が淡黄色(たんこうしょく)を帯びて弾力のない不活溌(ふかっぱつ)な徴候をあらわしている。その癖に大飯を食う。大飯を食った後(あと)でタカジヤスターゼを飲む。

     『夏目漱石全集1』より『吾輩は猫である』(ちくま文庫)

 明治38年(1905)、漱石は高浜虚子から気晴らしどうか、と頼まれて書いた『吾輩は猫である』を、俳句雑誌『ホトトギス』の1月1日号に発表します。ところがこれが大評判となり、5回まで『ホトトギス』に連載したのち、大倉書店と服部書店の共同で刊行されることが決まります。10月に初版が出ると、発売からわずか20日で売り切れ、漱石は一夜にして有名人になったのです。

 翌年には『ホトトギス』に第10回が掲載され、同じ号に『坊っちゃん』も載りました。その後も『倫敦塔』『草枕』などの作品を次々に発表、文筆家としての人気が出るのでした。

 そんな漱石には日本新聞、報知新聞からの原稿依頼や、讀賣新聞からの専属での入社のオファーを受けます。さらに第1回で紹介した、かつての教え子、坂元雪鳥からの東京朝日新聞での専属作家の話が来ます。

 残りの人生を「文学」を研究する学者として生きるか、自ら「文学」を創作する小説家として生きるか。

 寿命が50年といわれた時代、すでに40歳になっていた漱石は、大きな決断を迫られます。その判断材料として大きかったのがお金です。その頃漱石には4人の娘がいて、まもなくもう一人(長男)が生まれる予定でした。食べさせなければいけない家族や、借金もあったのです。

 そこで雪鳥に、詳しく待遇を問い合わせる手紙(第1回参照)を出したのでした。

 当時の公務員の初任給は55円でしたが、東京朝日新聞社の年俸は、月給200円に賞与を加えた3000円だったとされます。この金額なら、漱石は一気に経済的困窮から脱することができます。 

 文筆で生きていく道を選ぶとすれば今しかない、と感じたに違いありません。漱石は入社を決意します。

 生まれた時から「損ばかりしている」漱石が、40年を要してこれまでの「損」を埋め、「人生」を自分のものにしようと、まさに清水の舞台から飛び降りる覚悟でこの決意をしたことが、漱石の大きな転換点だと私は考えています。

経済的に安定した漱石の胃を痛くしたもの

 明治40年(1907)3月、漱石は大学を辞職し、翌月から新聞社に入所します。

 その年の6月から『虞美人草』の連載を始め、『坑夫』『夢十夜』『三四郎』と、次々に作品を発表して行きました。

 そんななか、文芸雑誌『文章世界』で神谷鶴伴という作家との対談の際、少し不可解なことがありました。

 明治41年(1908)9月14日に行われたこの対談は、2年前に行われた対談の第2回でした。文筆家として世に出るきっかけとなった『吾輩は猫である』について、それぞれの回で漱石は語っています。

 第2回では執筆に至った経緯について「ロンドンから日本に帰ってきた時、編集者の(高浜)虚子から何か書いてくれないかと頼まれて書いた。ところが虚子がこれはいけませんと言った。その理由は忘れてしまったが、もっともだと思って書き直した。これは大いに褒められ、1回だけのつもりだったのが、続きを書けというので、だんだん書いているうちに長くなってしまった」という内容のことを語っています。

 さらに「私はただ、偶然書いたというだけで、文壇に対してどうこうという考えもなかった。ただ書きたいから書き、作りたいだけ作ったまでで、つまりいえば、私がああいう時機に達していたのである。もっとも書き始めた時と、終わる時分とはよほど考えが違っていた」とも言い、最後は「文体なども人を真似るのが嫌だったから、あんなふうにやってみたに過ぎない」と締め括っています。

 しかし、『吾輩は猫である』は、はっきり言って盗作です。そのやましさが、漱石の胃を痛くし続けたのではないでしょうか。

 対談の前日、モデルとなった夏目家の猫が死亡して、漱石は死亡通知を親しい人に送っているにもかかわらず、対談では全くそのことに触れていないことも不自然に思えるのでした。

猫のモデルは牡猫、蚤、詐欺師・・・

『吾輩は猫である』は、ドイツの作家ホフマンの『牡猫ムルの人生観』の剽窃です。ほかにも19世紀後半に書かれた作者不詳の官能小説『蚤の自叙伝』、イギリスの作家ロバート・バーが詐欺師を題材に書いた『放心家組合』、そして内田盧庵の『犬物語』を種本としているのです。まだあるかもしれません。

 漱石はホフマンの作品を下敷きにして、ときどき西洋の文学作品のなかから面白い部分を使って書きました。

 さらに西洋文学に詳しかった内田露庵が、その知識を見込まれ、日本で洋書を扱っていた「丸善」に入社した際、トルストイの『イワンの馬鹿』を漱石に贈りました。これに対する漱石からの礼状ももらっています。その3か月後、『ホトトギス』に掲載された『吾輩は猫である』の第10回、「馬鹿竹の話」は、明らかに『イワンの馬鹿』から盗っています。また、猫の風刺の精神は、スウィフトの『ガリバー旅行記』から学んだと思われます。

 内田露庵の『犬物語』の冒頭を紹介しましょう。『吾輩は猫である』の3年前に書かれたものです。

 俺かい。俺は昔(むか)しお万の覆(こぼ)した油を甞(な)アめて了つた太郎どんの犬さ。其俺の身の上咄(ばな)しが聞きたいと。四つ足の俺に咄して聞かせるやうな履歴があるもんか。だが、人間の小説家さまが俺の来歴を聞くやうでは先生余程窮したと見えるね。よし/\一番大気焰を吐かうかな。

 俺は爰(こゝ)から十町離れた乞丐(こじき)横町の裏屋の路次の奥の塵溜(ごみため)の傍(わき)で生れたのだ。俺の母犬(おふくろ)は俺を生むと間もなく暗黒(やみ)の晩に道路(わうらい)で寝惚けた巡行巡査に足を踏まれたので、喫驚(びつくり)してワン(原文はワンに傍点)と吠えたら狂犬だと云つて殺されて了つたさうだ。自分の過失(そさう)を棚へ上げて狂犬呼ばゝりは怪しからぬ咄(はなし)だ。(中略)

 生れて二タ月目位だな。悪戯な頑童(わんぱく)どのに頸へ縄をくゝし附けられて病院の原に引摺られ、散三(さんざ)責(いぢ)められた上に古井戸の中へ投込まれやうとした処を今の旦那に救けられたのだ。

    『日本の名随筆76』より内田露庵『犬』(作品社)

漱石が追い求めたもの

 漱石が人間として、そして文学者として追い求めたものは何だったのでしょうか? それは「自由」だと私は思います。

 生まれながらにして不自由な生活を送り、留学先でも苦労を強いられ、精神を病み、始終胃痛に苛まれながら、雲のような自由を望んだと思うのです。猫は雲のように自由です。どこでもすり抜けていきます。雲のような猫は、漱石の理想だったのかもしれません。

 自由を掴もうとして盗作し、それがきっかけで人生が拓けたことは、『曾我物語』にある「夢売り」の話を思い起こさせます。

 北条政子腹違いの妹・時子がある夜、険しい峰に登り、日月を袖にして、手に橘を持っているというものでした。時子からこの話を聞いた政子は吉夢と知りながら凶夢と偽り、災いを避けるために自分がその夢を買ってあげる言って、唐鏡と衣を差し出します。その夜、政子は白鳩が金函をくわえて来る夢を見ます。そして朝になると、頼朝から初めての恋文が届けられていた、というものです。それからほどなくして、源頼朝と政子は結婚、政子は将軍の妻となり、頼家と実朝という2人の将軍も産んで大出世、尼将軍として幕府を指揮するまでのなります。

 他人の夢でのし上がった北条政子、他人の小説で、のし上がった漱石。果たして漱石の人生にとってそれはよかったのでしょうか。ようやく掴んだ作家人生は締め切りに追われ、胃痛と神経衰弱に苦しみ、浪費家の妻とは不仲になります。

『吾輩は猫である』では、猫は人間が飲み残したビールを舐めて酔い、水瓶に落ちてしまいますが、そこから出ようという抵抗をやめて「吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る」と言って、自ら死を選ぶところで終わります。

 東京朝日新聞に入社して9年後の大正5年(1916)、漱石は長年患っていた胃潰瘍が悪化し、49歳で亡くなります。漱石の作家人生は、わずか10年でしたが、力のかぎりを執筆に注ぎ込んだことは真実です。

 余談ですが、新聞社に入って夏目家が豊かになったのは、妻・鏡子が漱石の印税で買った株で儲けていたからでした。漱石が亡くなった年は第一次世界大戦が勃発して好景気だったので、夫人は定期預金にしてあった遺産の3万円を解約して、すべて株に投資します。ところがその4年後、1920年に起こった戦後恐慌で大打撃を受け、ようやく手に入れた早稲田の家も、売らなければならないほど困窮します。このことを漱石は知らずにすんで、よかったのかもしれません。

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