1944年2月17日と18日の2日間、西太平洋に位置する旧日本海軍の拠点だったトラック諸島でアメリカ海軍が行った「トラック島空襲」。この空襲で一度見捨てられたにも関わらず、後に南極まで行った艦がいました。それが「宗谷」です。

幸運艦ですら絶体絶命の危機だった!?

今から80年前で第二次世界大戦中の1944(昭和19)年2月17日と18日の2日間、西太平洋に位置する旧日本海軍の拠点だったトラック諸島で、アメリカ海軍の空母艦載機による大規模な空襲「トラック島空襲」が行われます。この空襲と同月23日に行われたマリアナ諸島空襲により、海軍は艦艇及び基地配備の航空機の多くを失い日本の敗色はいよいよ濃厚となりました。

トラック島の激しい空襲では、「総員退艦」の命が下り、ほぼ撃沈状態だったのにも関わらず復帰し、戦後には南極観測にまで行った艦艇がいました。当時は特務艦として任務についていた「宗谷」です。

後に初代南極観測船として有名になる「宗谷」は、大戦中には、砕氷能力を活かす機会には恵まれず、太平洋の島々で測量任務に加え、輸送任務も担う特務艦として運用されていました。トラック島の空襲には、本来補給予定だったブラウン島に物資が不足しているため、トラック諸島へ進路を変えた関係で遭遇しています。

「宗谷」は特務艦ではあったものの、搭載された対空兵装使い、泊地のあった夏島周辺で対空戦闘に参加します。しかし、初日に回避行動をとった際に座礁し身動きが取れなくなり、絶体絶命の状況になります。

もうダメだと思われたが奇跡の復活!

2日目は自らを砲台とする形でほかの艦船を援護しますが、機銃掃射により高射砲手の全員が死傷し、さらに副長が戦死、艦長も負傷し、ついに総員退艦の命令が下ります。

つまり、その時点の判断では艦としては使い物にならないと判断されたわけです。しかし空襲後、「宗谷」は運命のいたずらか“自然に”離礁して浮いており、艦を確認しに戻った乗組員を涙させたそうです。

実は「宗谷」は、この空襲以前にも、1942(昭和17)年の1月に同じトラック諸島で空襲を受けましたが無傷でした。さらに、1943(昭和18)年1月28日には、南太平洋のブカ島(現パプアニユーギニア)クイーンカロライン沖で敵潜水艦の魚雷が船体に突き刺ささりましたが、幸い不発で損傷は軽微で済んだなど、かなりの強運ぶりを発揮していました。

トラック島空襲から生還した戦争末期には、測量機材を全部外し、横須賀~室蘭間で石炭輸送に従事しました。この輸送は航路上で、度重なる空襲や潜水艦の魚雷攻撃を受けていたほか、敷設された機雷のなかを突っ切るため、「特攻輸送」と呼ばれていたそうです。

しかし、ここでも奇跡的なことに、「宗谷」は目立った損傷を受けることなく任務を続け、逆に敵潜水艦を爆雷で反撃して追い払い、撃沈された僚船の乗組員救出なども行ったそうです。

こうした戦時中の数々の幸運エピソードが評価され、「宗谷」は戦後に南極観測船として改造されるわけですが、その艦歴において、おそらく最大のピンチだったのがトラック島空襲だったといえるでしょう。

船科学館の展示船と停泊する「宗谷」(画像:パブリックドメイン)。