大河ドラマ『光る君へ』第6回「二人の才女」では、ファーストサマーウイカが演じる清少納言(ドラマでは「ききょう」)が、初登場した。清少納言の『枕草子』はあまりにも有名であるが、その生涯となると、あまり知られてはいないのではないだろうか。そこで今回は、清少納言の生涯を追ってみたい。

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文=鷹橋 忍 

謎多き生涯

 清少納言の生涯には謎が多い。

 生年も諸説あるが、角田文衞『紫式部伝——その生涯と『源氏物語』——』によれば、康保3年(966)説が有力だという。

 ゆえに、ここでは清少納言の生年を「康保3年」として、年齢を算出する。

 康保3年説が正しいとすると、清少納言柄本佑が演じる藤原道長(966~1027)や町田啓太が演じる藤原公任(966~1041)と同年の生まれとなる。

 清少納言と同様に、紫式部の生年も諸説あるが、仮に天延元年(973)説で計算すると、紫式部より清少納言のほうが7歳年長となる。

 一般に清少納言と呼ばれるが、実名は不明だ。

 清少納言の「清」は、父親の姓である「清原」を意味するとされるが、なぜ「少納言」なのかは、確かなことはわかっていない。

 

父親は、百人一首の有名な歌の詠者

 清少納言の父・大森博史が演じる清原元輔(908~990)は、各地方で受領(国司の長官)を務めた官人だ。

 最高の位階は従五位上で、中流貴族であるが、元輔は傑出した和歌の名手だった。

百人一首』に収められた元輔の歌は、ご存じの方も多いだろう。

 契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは

(約束を交わしましたよね。お互いに、涙に濡れた袖をしぼりながら。末の松山を波が越えることがないように、私たちの愛も永遠だと)

 元輔は、『三十六人撰』に数えられ、「梨壺の五人」の一人として、『後撰和歌集』の選進も行なっている。

 陽気な性格で、人を笑わすことが得意であったという。

 清少納言は、この父・元輔が数えで59歳のときの子と思われる。

花山天皇の乳母の子との結婚

 清少納言は天元4年(981)ころ、本郷奏多が演じる花山天皇の乳母の子・橘則光と結婚した。則光は康保2年(965)の生まれで、清少納言より1歳年上、武勇に秀でていたという。

 天元5年(982)、二人の間には橘則長という息子が誕生した。清少納言17歳のときのことである。

 だが、清少納言と則光は離別する。

 のちに20歳くらい年上の藤原棟世(生没年不詳)と再婚するが、その確かな時期は不明である。

 清少納言と藤原棟世の間には、娘・小馬命婦(生没年不詳)が誕生した。

 

中宮定子に仕える

 清少納言が宮仕えを始めたのは、正暦4年(993)ごろ、28歳くらいのときのことだとみられている。

 清少納言が仕えたのは、高畑充希が演じる定子(976~1000)である。

 定子は、井浦新が演じる関白藤原道隆(953~995/道長の兄)の娘で、正暦元年(990)正月、数え年で15歳のとき、一条天皇(980~1011 在位986~1011/父は坂東巳之助が演じる円融天皇、母は吉田羊が演じる藤原詮子)のもとに入内し、同年10月、中宮となっている。

 定子は一条天皇の寵愛を一身に受け、道隆の嫡男・三浦翔平が演じる藤原伊周(974~1010)も内大臣となるなど、いわゆる「中関白家」と呼ばれる道隆の一家は、おおいに繁栄した。

 定子は清少納言より10歳くらい年下であったが、清少納言才色兼備で、気高く心優しき定子を、心から景仰し続けた。

 定子も、聡明で機知に富む清少納言に絶大な信頼を寄せ、身近に取り立てている。

 清少納言は華やかな宮廷生活にとけこみ、才能を発揮していく。

 清少納言をはじめ、才女たちが女房として仕える定子のサロンには、多くの公卿や殿上人が訪れた。清少納言藤原公任や、渡辺大知が演じる藤原行成、本田大輔が演じる源俊賢、金田哲が演じる藤原斉信らと交流するなど、宮仕えを謳歌していたようだ。

 だが、定子の父・関白藤原道隆の死去とともに、定子の後宮の栄華にも陰りがさしてくる。

スパイ疑惑をかけられた?

 長徳元年(995)4月、定子の父・関白藤原道隆が死去すると、政権は、道隆の弟・藤原道長の手に移った。

 翌長徳2年(996)、定子の兄・藤原伊周の従者が、花山院に射掛けるという大事件を起こし、伊周とその弟の竜星涼が演じる藤原隆家が、配流となった。いわゆる「長徳の変」である。

 定子は後ろ盾を失い、自ら髪を切って出家したという(『栄花物語』巻第五「浦々の別」)。

 このとき、定子は懐妊していた。

 懐妊中の定子に、不幸が重なる。

 翌長徳2年(996)6月、居所である二条北宮が焼失。同年10月には母・高階貴子が薨去してしまった。

 定子が出家しても、一条天皇の定子への寵愛は変わることはなく、翌長徳3年(997)6月に、定子を宮中に呼び寄せている。しかし、これは、「天下甘心せず(天下は感心しなかった)」という(『小右記』長徳3年6月22日条)。

 一方、清少納言は、『枕草子』「殿などおはしまさで後」の段によれば、長徳の変の後、女房たちから「道長方に内通している」という噂を立てられたため、久しく私邸に引きこもっていたという。

『枕草子』の執筆は、このときに始められたともいわれる。

 

定子の死

 やがて、清少納言は定子のもとに戻った。

 定子の出家と実家の没落を受け、一条天皇の後宮には、すでに三人の大臣が娘を入内させていたが、藤原道長も長保元年(999)11月1日に、見上愛が演じる娘の彰子(988~1074/母は黒木華が演じる源倫子)を入内させた。彰子はまだ12歳であった。のちに紫式部が仕えたのは、この彰子である。

 翌長保2年(1000)2月、道長は彰子を立后させ、定子を「皇后」、彰子を「中宮」とする、史上初の「一帝二后」(一人の天皇に、二人の正妻)を決行した。

 だが、この一帝二后の状態は、長くは続かなかった。

 同年12月、定子が、第三子となる皇女・媄子を出産した翌日に、25歳の若さで崩御したからだ。

 定子の逝去をもって、清少納言も自ら宮仕えを辞したとされ、その後の動静については諸説がある。

 なお、紫式部が彰子に出仕したとされる寛弘3年(1006)ごろには、上記のように、清少納言が仕えていた定子はすでに亡くなっているため、二人が宮中で直接、会う機会はなかったという(倉本一宏『紫式部藤原道長』)。

枕草子に書かれたこと

 最後に、『枕草子』を取り上げたい。

『枕草子』「この草子、目に見え心に思うことを」によれば、清少納言は、定子が兄の藤原伊周から貰った、当時は貴重品であった草子(冊子)を与えられ、執筆をはじめたという。

 内容は、「鳥は」や「すさまじきもの」のように、「——は」や「——もの」ではじまる類聚章段、日記的章段、随筆的章段の三つ大別される。

 前述のとおり、父・藤原道隆の死去後の定子には、辛いこと、悲しいことも少なくなかった。

 だが、清少納言は定子の不遇や、悲しみなどに触れていない。定子が亡くなったことすら、記されていないのだ。

『枕草子』で描かれる後宮での生活は、ひたすら明るく華やかである。

 涙をこらえながら、敬慕する定子との思い出を、美しく書き残したのだろうか。

【清少納言ゆかりの地】

●今熊野観音寺

 京都市東山区泉涌寺にある。

 観音寺のホームページによれば、清少納言の父・清原元輔の邸宅が、現在の観音寺境内地付近にあったという。

 清少納言が仕えた定子は、崩御後、観音寺近くに造営された鳥戸野陵に葬られた。

 清少納言は定子の冥福を祈るため、父・元輔の邸宅のほとりに居住し、鳥戸野陵を拝して、晩年を送ったといわれる。

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土佐光起筆『清少納言図』(部分)江戸時代・17世紀 東京国立博物館 出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)