懐かしい「LARK」カラーのマシンは星野一義選手が乗ったホンモノ! 全日本F2選手権に参戦した「クラコ マーチ85B ホンダ」とは

F3からF1まで様々な市販レーシングカーを手掛けたマーチ

去る2023年10月29日富士スピードウェイを会場として『POWER&TORQUE』という名のイベントが開催され、その中で箱車レーシングカーの走行枠が設けられました。『箱車の祭典2023』と銘打って実施された展示枠にエントリーしていたクラコ「マーチ85B ホンダ」を紹介します。

マーチが注目されたのは1970年のF1マシンから

英国の新進コンストラクターとして1960年代から1990年代にかけて、様々な市販レーシングカーを手掛けてきたコンストラクター1969年に設立されたマーチ・エンジニアリング(March Engineering)。その社名は設立に関わった4人(弁護士資格を持ちマーチでは総務・営業を担当、のちにFISAやFIAの会長も務めることになるMax Mosleyとレーシングドライバーでファクトリーチームを統括する Alan Rees、そしてともにエンジニアとして活躍してきてマーチ社では工場での生産を管理した Graham Coakerと様々なレーシングカーのデザインを担当することになるRobin Herd)のイニシャルから命名されていて、初の商品となった市販レーシングカーはF3レース用の693(1969年用のF3)でした。

英国ではロータスブラバムクーパーにローラ、そしてシェブロンなどレーシングカー・コンストラクターが群雄割拠の状態で、そこに新進のマーチが殴り込みをかけた格好でした。フル参戦2シーズン目となった1971年シーズンには、ロジャーウイリアムソンが英国でのF3選手権の1つでチャンピオンに輝くなど活躍を始めたのです。

マーチの名が大きく注目を集めるようになったのは1970年のこと。市販レーシングカーの701(1970年用のF1)を完成させると、前年にマトラフォードチャンピオンに輝いたケン・ティレルのチームがこれを購入し前年のドライバーチャンピオンジャッキー・スチュワートを擁して参戦。マーチ・ワークスに先んじてシリーズ第2戦のスペインGPで優勝を飾って、その高いパフォーマンスを証明しています。

その後もマーチは、F1GPに挑戦を続ける一方で、F1からF2、F3、FF(フォーミュラフォード)、さらにはCARTカーといった市販レーシング・フォーミュラに加えて、Can-Amシリーズ用オープン2シーターのグループ7や、日本の富士グラン・チャンピオン(GC)シリーズでも圧倒的な多数派主流マシンとなる2Lクラスのオープン2シーター・グループ6などのレーシングスポーツも製造するようになりました。

F2からF3000でトップコンテンダーとして1980年代を駆け抜けたマーチ

様々なカテゴリーに向けて市販レーシングカーを数多くリリースしてきたマーチですが、1980年代に入ると各カテゴリーではライバルが勢力を拡大していきました。またF1GPではターボ・エンジンを手に入れることができず、ライバルに後れを取ってしまったのです。そんな状況下でもトップコンテンダーであり続けたカテゴリーがF2/F3000でした。

ホンダラルトスピリットと手を組みV6パワーでF2を席巻した時代に、唯一最大のライバルとなったのがBMWと手を組んだマーチでした。そしてF2からF3000に移行してからも、マーチはトップコンテンダーとしてのポジションをキープしていたのです。

ただし残念ながら1980年代の終盤になると新素材の導入などでライバルに後れを取り、トップコンテンダーの座を手放すことになり、かつての優位を失うことに。それでもF3000に移行した当初は、ヨーロッパでは1985年から、日本では1987年からF3000による選手権がスタートしています。

ですが、マーチでは1985年1986年の2年間、ヨーロッパF3000選手権と全日本F2選手権に、基本的には共通設計ながらコスワース製のV8エンジンを搭載するF3000用シャシーの85B/86Bと、BMWの直4エンジンやHondaのV6エンジンを搭載するF2用シャシーの85J/86Jをヨーロッパと日本国内に供給しています。

箱車の祭典2023で展示していたクラコ「マーチ85B ホンダ」

アルミハニカムのツインプレートをベースに、カーボンファイバーで成形したモノコック上半分をリベットで接合したハイブリッド・モノコックは、F2仕様の842から採用されマーチのハイテクさを示したのです。

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ピットに展示されたクラコ-マーチ85J。モノコックを共用していることもあり前年モデルのF2、842と似た印象をもっている