映画『Five Nights at Freddy'sFNaF)』が2月9日より、ついに国内でも公開された。制作を手がけたブラムハウスCEO、ジェイソン・ブラムへの公開前のインタビューでは「ほとんど原作ファンのためだけに作られている」と語られたとおり、実際に原作ゲームをプレイしたユーザーだからこそ気づける「小ネタ」が至るところに散りばめられている。コアなファンにとっては、「小ネタ探し」という新たな「ゲーム」をプレイしているかのようだ。

参考:【画像】優れた恐怖演出が際立つ『Five Nights at Freddy's』のゲーム画面

 一方で、脚本的には原作未プレイの視聴者にとっても十分理解しやすい。原作とは対照的に、主人公(マイク)が「夜間警備」をすることになった背景は極めて丁寧に語られる。ほぼフリーターのような生活をしていたマイクが、夜間警備の仕事を通して二人暮らしの妹とヒロインの警察官をとある事件から救い、男性として成熟を果たすというその筋書きは、古典的と言ってもいいほど「ハリウッド的」であったように思われる。同インタビューでは「万人ウケを狙わ」ずに通常のハリウッドとは異なるやりかたで制作したと語られていたものの、物語を素直に辿っていけば初見のユーザーでも十分楽しめるものに仕上がっているだろう。

 くわえて注目したいのは、ジェイソン・ブラム自身がホラー作品の制作方針として「ブラムハウスとしてのアプローチと、原作者であるスコットのアプローチに類似点がある」と述べていたことだ。ブラムハウスといえば『パラノーマル・アクティビティ』(2007)で知られるように、インディーズホラー映画制作で名を馳せたスタジオである。インディーホラーゲームとして大人気作の『FNaF』の映画化を、そのブラムハウスが手がけたことはどこか示唆的だ。

 そこでまずは「ブラムハウスとしてのアプローチ」を象徴する作品として、あえて『パラノーマル・アクティビティ』と比較するかたちで原作版『FNaF』の特徴を振り返ってみたい。

■怒涛のジャンプスケア

 『FNaF』をプレイしたユーザーがまず体験することは、怒涛のジャンプスケアだ。唐突な場面転換によって視聴者/プレイヤーを驚かせるこの演出はあらゆるホラー映像作品・ホラーゲームにおいて定番であり、とりわけ『FNaF』におけるその頻度は過剰とも言えるほどである。

 それは(フレディやボニー、チカ、フォクシーといった)マスコット人形がプレイヤーに向かって突然飛びかかってくるアニメーションとして現れる。「Freddy Fazbear's Pizza」の夜間警備を任された主人公(=プレイヤー)は、特定の条件(監視カメラ上で、店内を徘徊する人形たちを見失う時間が長くなる、警備室のドア手前に現れた人形を見逃す、など)を満たしてしまうと、叫び声のような効果音が大音量で流れるとともに、店内のマスコット人形がプレイヤーに向かって襲いかかる。こうしたジャンプスケアの手法自体はありふれたものだが、『FNaF』におけるあの恐怖と中毒性の正体はいったいなんだったのだろうか。

 そのことを考えるために、同作では「作中の視点人物と現実のプレイヤーがどのような形で同期するか」を思い出してみたい。両者の同期度合いが高まるほど、ジャンプスケアの唐突さをよりリアルなものとして感じられるであろうからだ。

 2点挙げてみよう。

 一人称視点で進行する同作では、人形たちを監視するためにカメラのモニター画面を覗くアクションが発生する。このとき、モニター画面は実際にゲームを起動しているデバイスの画面いっぱいに広がるために、「画面上に映された各部屋の監視カメラを確認する」という行為が、主人公とプレイヤーとでほぼ完全に一致する。視点と行為の限りなく同じに近い一致によって、主人公とプレイヤーは同期するわけだ。

 もう一つ、画面右下に映された時刻表記にも注目したい。本作における「一晩」は現実世界に換算すると約10分であり、その間ゲーム内の時間も等速で進行する。主人公とプレイヤーは画面を隔てた二つの世界で、まったく同じ時間軸を体感しているかのようだ。

 こうした主人公とプレイヤーの同期演出が作中世界への没入感を高め、同時にそのことがジャンプスケアの唐突さを強調する「お膳立て」としての機能を果たしていたように思われる。

 そしてこのような、視点人物と視聴者の同期がカメラ越しに試みられる演出は、『パラノーマル・アクティビティ』を想起させる。同映画においては、同棲中のカップルが就寝中に発生する「怪奇現象」をハンディカメラで撮影・記録したという形で、モキュメンタリーの手法が取られている。その記録映像を眺める視点人物は、まさに視聴者である。

 くわえて、記録映像内にはリアルタイムで進行するデジタル時計が表示されるが、これは視点人物と視聴者/プレイヤーが同じ時間軸を体感しているという点で『FNaF』にも類似した演出を見出せる。時計が現実と同じ早さで時を刻む(ときには早送りもされるが)なか、たとえば主人公のケイティが真夜中の寝室で棒立ちしつづけるあの数時間によって、視点人物との同期による作中世界のリアリティが増すともに、明らかに奇妙な現象への違和感も相対的に高まっていく。

 しかしこのような演出上の共通点にもかかわらず、それがジャンプスケアに果たす機能は対照的なようだ。というのも『パラノーマル・アクティビティ』におけるこれらの演出は、ラストシーンの(強烈な)ジャンプスケアの恐怖を最大化することに寄与していたように思われる。序盤の「怪奇現象」は単に「しまったはずの時計が床に落ちていた」という程度のことから始まり、しかしやがてはケイティが見えない手によって引きずられるといったかたちで怪奇の度合いはエスカレートしていく。そうして違和感と恐怖が徐々に高まったなか、もっとも恐ろしい映像が最後の最後に映し出される(詳細は後述する)。要するに、視点人物との同期演出によって怪奇現象のリアリティを高めたうえで、さらに「最後の」怪奇現象とそれ以外の現象との異常さの「差」を示すことで、ラストシーンの恐ろしさを最大化したわけだ。

 一方で『FNaF』における「ホラーシーン」には、恐ろしさの落差はほぼ存在しない。「人形が突然襲いかかってくる」という同じ構図のジャンプスケアがひたすら繰り返されるだけだからだ。とすれば、『FNaF』においては別のなにかが恐怖を強調しているのだろうか。

■なぜ人形たちが「近く」に感じられるのか

 『パラノーマル・アクティビティ』のラストシーンと、『FNaF』における「ミスシーン(人形が襲いかかるシーン)」を比べてみよう。

 『パラノーマル・アクティビティ』のラストシーンでは、ケイティの恋人・ミカが階下から寝室にある定点カメラに向かって投げ飛ばされてレンズに激突する。一見、『FNaF』のミスシーンと似たようなことが起きていると思われる。しかし両者には決定的な、かつ単純な違いがある。それは演出上の違いというより、実写映画とゲームのアニメーションとの間にみられる物理的な違いだ。

 つまり、ミカが投げ飛ばされるシーンでは、暗闇の階段からふいにミカの背中が現れ、高速でカメラレンズに向かって叩きつけられる過程が連続した映像として描写される。一方で『FNaF』の人形たちが主人公に襲いかかる様子がどのように描写されるかといえば、人形の「襲撃」を描いたアニメーションがデジタルレイヤーとして挿し込まれる。すなわち実写映画とは異なり、眼前に向かってくる物体(のアニメーションレイヤー)と後景(を描写したデジタルレイヤー)との間には、ある種の物理的な断絶を感じられるのだ。文字通り「唐突」に現れるジャンプスケアである。

 さらにこのことは、『パラノーマル・アクティビティ』にみられる「異常さ」の「落差」の演出とは別の差異を生み出してもいるように思われる。というのは、『FNaF』のプレイヤーの視界に入るのは基本的には警備室の風景と監視カメラの映像で、これらは前述した通り時間的に連続している。そこにある瞬間、「襲撃」のアニメーションレイヤーが前触れなく挿入される。ここで、等速で時間が進行していた後景のレイヤー群と、突然最前に現れた(時間的過程を持たない)人形のアニメーションレイヤーとの間に、時間的な「落差」が生じる。人形たちは等速に進んでいる後景レイヤーの時間軸を寸断するかたちで現れるために、最上位レイヤーと後景レイヤー郡との時間的な反作用を生み出し、そのことがジャンプスケアの唐突さを増幅させてもいるだろう。

 つまり『FNaF』におけるジャンプスケアの恐怖は、二つの意味で強調されている。一つは前述した同期演出による没入感の向上によって。もう一つは物理的な要因によって。つまり実写映像のように連続した過程が描写されることなく、アニメーションのデジタルレイヤーが前触れなく挿入されることによってである。

 『パラノーマル・アクティビティ』においてはホラーシーンの「異常さ」の内容的な落差によって恐怖を感じられる。それに対して『FNaF』のプレイヤーが強く感じる恐怖は、人形たちのアニメーションレイヤーと後景レイヤーとの時間的な落差によって極端に強化されたジャンプスケアの唐突さを体験することで生じているように思われる。

 そしてもし、各デジタルレイヤーの間に「距離」があるのだとすれば(プレイヤーはそう錯覚するのだが)、実際にあの人形たちは我々の「近く」に来ているのである。

■なぜ人形たちが「リアル」に感じられるのか

 こうした演出上の「近さ」に加えて、人形たち、すなわちアニマトロニクスのビジュアル面のリアリティについても検討したい。最後にあらためて原作と映画版を比較してみよう。

 原作において人形たちが襲いかかってくるシーンは、上述した演出を抜きにしても非常に臨場感を持って体験できる。

 それはCGアニメーションのクオリティが高いからだというのは言うまでもないが、それ以前にアニマトロニクスは「現実でもアニメっぽい」。「不気味の谷現象」という言葉があるように、人間や動物を模したAIやアニマトロニクスに奇妙な違和感を抱くことは珍しくない。それはどこか現実そのものではない、わずかなフィクションらしさを感じてしまうからである(たとえばディズニーアトラクションの「カリブの海賊」に現れるアニマトロニクスなどがそうだ)。そもそもこの言葉の語源が「アニメーション(動作)」と「エレクトロニクス(電子工学)」を組み合わせだとされているように、「リアルなアニマトロニクス」はそもそもアニメに近いのだ。

 とすれば原作に登場する「アニメーションのアニマトロニクス」は、逆説的に現実のものに近い。むしろ、「アニメっぽい」ものがアニメになっているわけだから「現実のものよりも現実らしい」という奇妙な言い方ができるかもしれない。

 映画版の撮影にあたりこのアニマトロニクスはじっさいに製作されたようで、それも「セサミストリート」で知られる「ジム・ヘンソン・クリーチャー・ショップ」が担当したという。「(原作の)キャラクターに忠実」であることにこだわったというだけあって、そのクオリティは映画本編を観れば一目瞭然である。

 しかし「原作に忠実」であるとはどういうことか。それは「アニメっぽいアニマトロニクスのアニメーション」に忠実ということである。つまり製作陣は「アニメっぽいアニマトロニクスのアニメーションっぽいアニマトロニクス」を「現実」で作ったことになる。そして我々はそれを映像という「フィクション」の中で目撃するのである。いったいなにが起きているのだろうか。

 要するにフレディたちアニマトロニクスのリアリティラインは、根本的に揺らいでいると言える。現実とフィクションの狭間にあるようなリアリティで存在するアニマトロニクスだからこそ、アニメーションで描かれていてもプレイヤーはそれを「リアル」に感じてしまうだろう。

 そう考えると映画版において、マイクと妹のアビーフレディたちと邂逅する場面は注目に値する。映画中盤において、主人公兄妹とフレディたちが友好的に接する場面がある。これは原作の(カジュアル)プレイヤーからすれば違和感が生じるシーンだろう。原作において人形たちと「出会う」瞬間にはすでに「ゲームオーバー」だからだ。しかしそのゲームオーバーのわずかな瞬間にだけ、プレイヤーは「近く」に現れた「リアル」な「アニマトロニクス」と触れ合えるのだ。

 そして映画版において、ついにフレディと触れ合える「現実」の人間が実現した。それはゲームオーバーの瞬間のあの臨場感が、たしかにリアルなものであったと原作者自ら証言しているかのようだ。

 にもかかわらず、映画もまた「フィクション」である。あくまでもそれは映像の中の出来事だ。どれだけ現実に近い存在に感じられても、あくまでもフレディフィクションの住人である。しかし、フィクションではあっても現実に「近い」ことは間違いない。

 こうしたリアリティラインの攪拌は映画化をきっかけにしてむしろより進行し、我々のフレディへの捉えどころのなさはますます強化されたようにも思える。存在しているのか存在していないのか不明確な、現実とフィクションの狭間の絶妙な水準においてのみ出会えるアニマトロニクスの奇妙な恐怖は、依然として続く。

 こうした「存在の不明瞭さ」と「臨場感」の往復こそ、『Five Nights at Freddy's』の世界観そのものである。

 フレディはどこにいるのか。我々は探索と監視を続けなければならない。

【参考書籍】
トーマス・ラマール著、藤木秀明監訳、大崎晴美訳『アニメ・マシーン』(名古屋大学出版会、2013

(文=ストロンユニバース

©2014 Scott Cawthon