アカデミー賞は、誰もが知っているスター俳優たちのノミネートや受賞が注目されるが、その一方でコアな映画ファン以外にはあまり知られていない才能に光が当たる場でもある。とくにここ数年は、ハリウッド以外の作品への評価も高まっており、今年、その流れを象徴するのが、ドイツの俳優、ザンドラ・ヒュラーだ。

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■40代にして世界的トップ俳優の一員に

今年のアカデミー賞で作品賞など5部門にノミネートされたフランス映画『落下の解剖学』で主演を務め、自身も主演女優賞にノミネート。さらに出演した、イギリスポーランド合作の『関心領域』が、同じく作品賞など5部門にノミネート。今年のアカデミー賞作品賞ノミネート10本のうち、2本の“非ハリウッド”作品にヒュラーは出演している。

『落下の解剖学』は2023年のカンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドールを受賞。この時、パルム・ドールに次ぐグランプリに輝いたのが『関心領域』であり、ザンドラ・ヒュラーの快進撃はすでにここから始まっていた。俳優にとって、このように傑作への出演が続くのは“運”かもしれないが、もともとの実力が伴っていたから、作品に恵まれるのも事実。英国アカデミー賞では『落下の解剖学』で主演女優賞、『関心領域』で助演女優賞のWノミネートを果たしており、今年の賞レースは彼女の存在なくしては語れない状態。1978年生まれのヒュラーは、40代にして世界的トップ俳優の一員になったと言える。

『落下の解剖学』でヒュラーが演じたのは、ベストセラー作家のサンドラ。雪山の山荘で夫が亡くなり、最初は事故だと思われたが、妻の彼女に嫌疑の目が向けられる。自殺や殺人の可能性も含め、真相へのカギとなるのがサンドラの証言だが、映画を観るわれわれにもその真意がつかめない。ここで発揮されるのが、ザンドラ・ヒュラーの演技力で、あからさまに感情を表現せずに、その人物が心の奥に抱える闇や秘密を匂わせる。かと言って、冷徹なムードではなく、人間的温もりに溢れて感情移入させる……という高等テクニックを披露。最後まで本作のテンションが途切れないのは、彼女の繊細を極めた表現によるもので、そこがアカデミー賞などで高く評価されている。

■『関心領域』では強制収容所の所長の妻を演じる

もうひとつの『関心領域』でヒュラーは、第二次世界大戦化のポーランド、アウシュヴィッツ強制収容所の所長の妻を演じている。彼らの家は、収容所と壁ひとつ隔てた土地に建てられており、隣で起こっていることとは別世界の、平穏な日常が続いている。現実の悲劇をまったく知らされていない家族を、ゆっくりと覆っていく不穏な空気。そのプロセスが、ヒュラーの演技によって、われわれ観客にもリアルに伝わってくる。『落下の解剖学』でも『関心領域』でも、一見、無色透明のイメージを与えつつ、じわじわと本質をあらわにするキャラクターに、ヒュラーの俳優としての魅力がマッチしていることがよくわかる。

この1年で急速に注目度がアップしたザンドラ・ヒュラーだが、ドイツを代表する俳優として、すでに確固たるキャリアを築き上げてきた。2006年の『レクイエム〜ミカエラの肖像』では、精神に変調をきたし、悪魔祓いを強いられる役で、ベルリン国際映画祭の最優秀女優賞を受賞。そしてヒュラーの出演作で最も世界的に知られているのが、アカデミー賞外国語映画賞(現・国際長編映画賞)にノミネートされた、2016年の『ありがとう、トニ・エルドマン』。悪ふざけばかりする面倒くさい父親との再会で、仕事にも支障をきたすヒロインが、徐々に忘れかけていた何かを取り戻す。誰もが思わず共感してしまう役どころに、ヒュラーの誠実な演技のアプローチがマッチ。父親に強いられての、ホイットニー・ヒューストンの「The Greatest Love of All」の熱唱は、彼女の演技力、および歌唱力の見せ場で、この作品で最も印象に残るシーンとなった。『レクイエム』や『トニ・エルドマン』では、『落下の解剖学』や『関心領域』の抑えた名演技とは真逆の、熱演型としてのヒュラーの才能も発揮されている。

さらに『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』(22)のマリア・シュラーダー監督による『アイム・ユア・マン 恋人はアンドロイド(21)では、AIと人間の恋愛実証実験を見守る相談員を演じるなど、ドイツ映画での活躍はもちろん、『落下の解剖学』のジャスティーヌ・トリエ監督作では『愛欲のセラピー』(19)にも出演し、フランス映画でも重要な存在になりつつある、ザンドラ・ヒュラー。『落下の解剖学』でもわかるように、ドイツ語、英語、フランス語をこなせる彼女なので、今後はヨーロッパ圏だけでなく、ハリウッドでの躍進にも期待がかかる。そんなヒュラーの素顔をアカデミー賞授賞式で確認しながら、ノミネート2作で彼女の俳優としての才能をスクリーンで体感してほしい。

文/斉藤博昭

裁判で、複雑な感情を吐き出していくシーンは、圧巻!(『落下の解剖学』)/[c]2023 L.F.P. – Les Films Pelléas / Les Films de Pierre / France 2 Cinéma / Auvergne‐Rhône‐Alpes Cinéma