世界一正確といわれる日本の鉄道。いつからこのような「定時運転」が定着したのでしょうか。

「日本の鉄道は時間に正確」の夜明け

世界一正確といわれる日本の鉄道。いつからこのような「定時運転」が定着したのでしょうか。

戦前の1938(昭和13)年発行の『鉄道現業読本』には、すでに「日本の汽車について『時刻の正確なることにおいては世界一だ』と云はれてゐる」として、「時は金なり」を尊ぶアメリカさえも実現できないと胸を張っています。

しかしその一方で同書には「日本人と云へば時間の観念がない」ため「集会とか宴会の時間となると、まるで時の約束はデタラメ」ともあります。現代の日本人はあらゆる場面で時刻に(病的に)細かいといわれますが、少なくとも80年前は、まず鉄道の時間の正確さが一足先を行っていたようです。

なお、「列車の遅延に関する記録」はほとんど見つかりません。時代ごとにどの程度遅れていたのか調べるのは難しく、利用者がそれをどう感じていたかを知ることはもっと困難です。ただ鉄道は乗客に先駆けて正確な時刻を必要としました。

1872(明治5)年の鉄道開業時点では、日本社会はまだ季節ごとに時間の異なる「不定時法」を用いていました。いっぽう鉄道の運行となるとそれでは正確さに支障が起きるので、開業時からすでに「定時法」を採用したのです。

一般家庭に時計が普及するのはもっと後のことで、多くの庶民は昔ながらの不定時法のもとで生活していましたから、鉄道が時刻に正確か否かを重視することはなかったのでしょう。

当時の鉄道がそこまで時刻を重視したのは、安全に直結するからです。高度な保安装置もないので、信号と時刻を間違えれば対向列車と衝突しかねません。鉄道開業から40年が経過した1912(大正元)年に発行された『機関車工学』には、「運転時刻の不正確は延て諸種の事故発生の原因となる」と「定時運転の必要」を説いています。

また1918(大正7)年発行の専門書『鉄道運転法研究』は、「定時運転を励行するにあらざれば到底複雑なる列車運行を秩序的に実施能わざる」だけでなく、遅延は「鉄道が交通機関としての職責を完全に尽し能わざること」で世間の不利不便は計りかねないとして、定時運転は鉄道の使命であると述べています。

さらに1921(大正10)年の『鉄道運輸従業員の為に』も、「社会の進歩するに従ひ、一般における時間の観念はいよいよ発達し、鉄道輸送の正確を期することはいよいよ痛切であります」として、定時運転が社会に及ぼす影響が大きいことを説いています。

ただ日本全国の鉄道が時刻に正確だったわけではないようです。同書は「よく地方の軽便鉄道などをさして『あの鉄道は時刻があっても無いのと同様だ。あてにならぬ』などいふて居るのを聞くことがあります」と言及した上で、「こんな風になっては、鉄道も一向にその価値がない。只徒歩に代はるだけの価値しかない」と警鐘を鳴らしています。

鉄道が社会に浸透 その裏で「遅延を無くそう」奮闘したひとりの人物

明治末から大正初期にかけて、日本経済は日露戦争第一次世界大戦を経て急速に成長し、その結果、旅客・貨物輸送需要は急増しました。また懐中時計が普及し、勤務時間が決まったサラリーマン・工場労働者の増加は、定時運転の重要性をますます高めていきます。

東海道本線には1906(明治39)年に「最急行」、1912(明治45)年に「特別急行」が登場。接続する各列車とともに東京から各地方を結ぶネットワークが構築されます。特急だけ走らせても先行する普通列車が遅れて、予定通りに追い越しができなければ所要時間を短縮できませんし、特急が遅れれば接続列車にも影響が出ます。

幹線の抜本的な改良が遅れた日本では、輸送需要に応えるためには列車本数を増やさざるを得ず、本数が多くなるにつれ遅延が列車間に及ぼす影響は大きくなります。規模が大きい国鉄だからこそ、速達性と輸送力を確保するため、必然的に定時運転に取り組まざるをえなくなったのです。

この時代を象徴する人物が、鉄道省運輸局運転課長として超特急「燕」を実現した「運転の神様」こと結城弘毅です。1907(明治40)年、信越本線軽井沢直江津間を管轄する長野機関庫に赴任した結城は、列車がしばしば1時間以上遅れていることに驚きました。

彼は「時刻表で時間が定めてある以上、時刻表どおりに列車を運転することは機関手としての任務」と説き、職員とともに定時運転が可能な技術を磨きます。その後、転勤した名古屋、大阪でも定時運転を定着させました。時代の要請と結城ら職員の努力で、国鉄の定時運転は大正中期には根付いたようです。

鉄道省東京鉄道局が1929(昭和4)年5月22日に実施したラッシュアワーの遅延調査によると、京浜線は最大5分の遅延が1本、山手線は車両故障の影響で1本運休・3本が最大7分の遅延、中央線は「遅延は絶無」でした。昭和の大恐慌時代で通勤需要が低調だったことを差し引いても、かなりの好成績です。

苦労して積み上げた「定時運行」ガラガラと崩れ去る

しかし定時運転はたゆまぬ努力がなければ保たれません。終戦から3年後、1948(昭和23)年の業界誌『交通技術』は「かつての国鉄の誇りとした列車時刻表があれば時計は不要であるとした定時運転は昔の夢であって今では時計を何個持っても時刻は分からない」と嘆き、さらには「列車遅延は国民一般の常識となってしまい、稀に定時に発着する列車があると乗り遅れる」というありさまだと言及しています。

これからも日本の鉄道は「定時運転が当然」でありつづけられるでしょうか。

蒸気機関車(画像:写真AC)。