満を持してニューヨーク・メッツ入りした五十嵐亮太は、想像もしていなかった苦闘の1年目を過ごした。「このままではいけない」という強い思いとともに、新球・カットボールの習得に励み、勝負の2年目に臨むこととなった。

自ら「とても濃密だったけれど、とても苦しかった」と振り返る「あの3年間」を改めて振り返りたい――。

◆結果を残せずに終わったメジャー1年目

まったく結果を残せずに終わったメジャー1年目の’10年オフ。五十嵐亮太は新たな変化球としてカットボールの習得に励んだ。

「覚悟を決めてアメリカにやってきたのに、思うような結果が残せない。悔しくて仕方がないけど、ならば自分でどうにかするしかない。メジャー1年目を終えて、新たな変化球を覚えること、変化球の精度を上げることという課題が見つかっていたので、まずはカットボールを覚えることにしました」

メジャー2年目を迎えるにあたって、五十嵐にはメンタル面でも大きな変化が訪れている。年明け早々、公式戦出場資格を持つ40人枠から外れることが決まったのだ。

「2年目ともなれば、チームにおいて自分が必要とされているのか、そうじゃないのかということがハッキリします。無駄なことを考えても仕方がないから、まずは現状を受け入れ、2年目はとにかく結果を残すことだけを考えました。自分の置かれている現状を変えるには結果を残すしかないから……」

◆「こんなに野球と向き合ったのは初めてじゃないか」

ヤクルト時代には間違いなく「必要とされている」選手だった。しかし、アメリカではそうではない。現状を嘆いても、不満を募らせても、事態は決して好転しない。ならば、すべてを受け入れて、がむしゃらに突き進むだけだった。

「こんなに野球と向き合ったのは初めてじゃないか、というくらい向き合いましたね。日本でも向き合ってはいたけれど、その比にならないくらい、アメリカではずっと野球のことばかり考えていました」

しかし、2年目もまた思うような成績を残すことができなかった。硬いマウンドには対応できたものの、多くの投手がそうであるように、ボールに馴染むことができなかった。メジャーとマイナーでボールが違うことも五十嵐を苦しめた。

メッツでの2年間は、通算79試合に登板して5勝2敗、防御率5.7‌4だった。

メッツを解雇されてもアメリカに残った理由

’11年10月、メッツ五十嵐の解雇を発表する。しかし、ここからの行動は実にアクティブだ。同年オフに行われたドミニカ共和国でのウインターリーグに志願して参加。実戦を通じてカットボールを完全にマスターする。そして、12月にはピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約を結んだ。

「2年目を終えて、メッツをやめたときに日本から数球団のオファーがありました。でも、そのまま日本に帰るのはちょっと空しい。もっとやり切りたいという思いがあったので、アメリカに残りました」

この時点で五十嵐は腹をくくった。たとえどんな結果になろうとも、「この1年を徹底的にやり切る」と決めたのだ。

「せっかくアメリカに来たからには、日本に戻る前にすべてのものを見よう。すべての経験をしよう。そう心に決めました」

◆再度の40人枠外に、「他球団を探してほしい」

勝負の3年目。スプリングキャンプ後、またしても40人枠から外れた。

「この年は変にアメリカナイズされていたというのか、自分の意思はしっかり伝えようと決めていたので、すぐに代理人に『他球団を探してほしい』と直訴しました。その結果、トロント(・ブルージェイズ)への移籍が決まりました」

ブルージェイズでは2試合に登板したものの、すぐにマイナーに降格する。

「このときも、代理人に『マイナーに行くなら、リリースしてほしい』と言い、チームを去ることを決めました」

すでにシーズンは開幕している。どこからもオファーがない可能性もあった。それでも、「何もせずに後悔したくない」と自ら退団し、新たな球団のオファーを待つ選択をする。

「すると、すぐに(ニューヨーク・)ヤンキースからオファーが来ました。クローザーの(マリアノ・)リベラが故障して、中継ぎ陣が手薄になったことで声がかかったんです」

◆幕を閉じたアメリカ生活「苦しかったけれども…」

しかし、ここでも出番を与えられることはなかった。ヤンキース時代には2試合に登板した。古巣メッツとの「サブウェイシリーズ」では、先発・黒田博樹の後を受け、チームに勝利をもたらしたこともある。

ヤンキースではほとんど出番がなかったけど、イチローさんも黒田さんもいたし、球場に行けばスター選手のデレク・ジーターロビンソン・カノもいた。ほぼマイナー生活でしたけど、とても充実していた時期でした」

野球には真摯に取り組み続けた。このヤンキース時代に新球・ナックルカーブを習得する。持ち球のカーブに改良を加え、人さし指を立てるように投じることで、落差の大きいカーブをものにしたのだ。

こうして、五十嵐にとってのアメリカ生活は幕を閉じた。やるだけのことはやり切った。そんな自負があった。

「正直、3年目のシーズン途中に日本に帰ることもできました。けれども、最後までやり切った。僕にとっては苦しかったけれども、大切なのはその経験を後の人生に繫げること。そうでなければ、あの3年間の意味がなくなってしまうから」

ヤンキース時代に習得した新球で日本球界に復帰

そして、’13年からは福岡ソフトバンクホークスに入団する。アメリカで身につけたカットボールとナックルカーブを引っ提げ、以前とは異なるピッチングスタイルで、ここからソフトバンクで6年、古巣ヤクルトでさらに2年、合計23年、41歳まで現役を続けたのだった。

「アメリカに行かず、ヤクルトのままだったら、40歳過ぎまで現役はできなかったはずです。アメリカで学んだナックルカーブがあったからこそ、その後も現役を続けることができた。何でもやってみること、発想の幅を広げること。いずれもアメリカで学んだことでした」

ソフトバンク時代、当時の秋山幸二監督に「2軍で調整したいので1か月時間をください」と直訴したことがある。

「本来なら、選手がそんなことを言ってはいけないんです。でも、日本のボールに慣れるために、ナックルカーブを完全に自分のものとするために、調整の時間が必要だったから、直訴しました。自己主張の大切さを学んだのもアメリカでした」

五十嵐曰く「それはセルフィッシュな行動」だった。しかし、ときには自分の考えをきちんと主張することの大切さをアメリカで身につけた。

「アメリカでは本当に苦しい3年間でした。朝起きたときに、球場まで足が進まないほどでした。でも、あの経験をその後に繫げることができた。過去の失敗が生かされた。後悔だけで終わらせない。結果は残せなかったけど、僕にとっては本当に貴重な3年間でした」

最後に五十嵐は言った。

「いい経験でしたよ、決していい思い出ではないけどね」

自らの言葉をかみしめつつ、五十嵐は静かに笑った。

五十嵐亮太
1979年北海道生まれ。1997年ドラフト2位でヤクルトに入団。’09年12月、メッツに移籍。’12年ブルージェイズ、シーズン途中でヤンキースへ。’13年ソフトバンク’19年ヤクルト’20年に現役引退。日米通算906登板

撮影/ヤナガワゴーッ! 写真/時事通信社

長谷川晶一】
1970年東京都生まれ。出版社勤務を経てノンフィクションライターに。著書に『詰むや、詰まざるや〜森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)など多数

―[サムライの言球]―