アレキサンダー大王は、若くして東西文化融合の理想のために戦った。なんて、ほんとうだろうか。実際は、彼が果てしなく金鉱探索をしていかないと、あの大帝国はいつ瓦解するかわからないような脆いしろものだった。

この数年、google map は、古代史の研究方法を劇的に変えた。それまでとてつもない予算と手間と時間をかけて現地に行って、その足跡を辿るしかなかったのだが、衛星写真と等高線での立体再現で、文献と地形が照合できるようになった。さらに大きいのが、現地の秘密が見てわかるようになった。その典型が鉱山だ。露天掘りのでかい穴が衛星写真でかんたんに確認できる。くわえて鉄のカーテンに隠されていたソ連邦内、とくに中央アジアが中国企業の投資によって資源開発され、そのニュースがぼんぼん出て来る。これらを地図にプロットしなおすと、古代でも国家機密だったことがあからさまになってくる。

さて、アレキサンダー大王だが、ギリシアの北の辺境、マケドニアが本拠地。こんな国が歴史の舞台の上に躍り出てきたのは、その父フィリッポスがとてつもない軍事国家を作り上げたから。なぜそんなことができたか、というと、東のカルキディケ半島でカッサンドラ金鉱が見つかったから。これを源泉とする莫大な資金で、すでに没落しつつあったギリシア人たちを大量に傭兵として雇い入れて、逆に南のギリシアを征服してしまった。

しかし、前三三六年、王フィリッポスは暗殺されてしまう。その息子アレキサンダーが二〇歳で王位を継いだとき、国庫は破綻していた。ギリシアの征服を拡げていく間は、各都市から戦利品を巻き上げることができ、その自転車操業で支配を拡大してきたが、その支配を維持するには、カッサンドラ金鉱の産出量では賄えない。

そこで、アレキサンダー王が案出したのが、LBO(レバレッジド・バイアウト)。ペルシアのケタ外れの資産を担保に、ギリシア諸都市に出資させ、これで人口過剰のギリシアから傭兵と移民を募って、侵略戦争を始める、というもの。すでに500タラントンの負債があったのに、さらに800タラントンを集めて、1300タラントンの大博打。1タラントンは、人と同じ重さのゴールド。古代ギリシア人は現在より小柄で、身長165センチ、体重60キロくらい。ゴールドは1キロで現在価格、約1000万円。したがって、1タラントンは現在価値で6億円。つまり、アレキサンダー王の種銭は、おおよそ7800億円。これを資本として維持しつつ、実際は現地の戦利品で遠征軍を経営していく。この資金管理のため、専門の財務官ハルパロスが同行した。

彼の遠征軍は「動く国家」と言われ、戦闘兵員だけでも数万。これにそのカンティーン(兵站や軍属)や家族が加わって、十万人規模。しかし、それが最初にめざしたのは、ペルシアではなく、エジプトだった。それは、ナイル中流ルクソール市の上エジプトが、ナイルデルタの下エジプトを征服してできた国。なぜそんなことができたか、と言うと、上エジプト王国は、東のナビア砂漠にコプトゴールドのスカリ金鉱を持っていたから。アレキサンダーのねらいは、それだった。そして、エジプトを征服すると、ギリシアとの貿易拠点アレキサンドリア市を造った。

この後、遠征軍は、ペルシアの中心、バビロン市、スサ市、そして、前330年春には早くもペルセポリス市を奪い取る。これらの大宮殿に蓄積されていた財宝によって、負債を返済し、出資に配当してもあまりある財務状況になった。あとはもうペルシアの大王として、既存の経常収税システムに乗っていればいいはず。ところが、調べてみると、大きな問題が発覚する。巨大ペルシアの国家財政を支えていたのは東半諸州からの収税だった。皇帝ダリウスが生きていて富裕な東半諸州で体制を再建した場合、貧弱な西半諸州しか持たないアレキサンダー大王は対抗できない。

なぜ高山と砂漠だらけの東半諸州が、それほど豊かなのか。じつは大王は知っていた。彼の祖国、ギリシアの北辺マケドニアは、黒海に近く、さらに北方の遊牧民族スキタイ人によって東からつねに大量のゴールドをもたらされていたから。アレキサンダーペルシアの大王であるためには、拓けた文化的な西半のみに甘んじず、広大な砂漠(当時、冬の雨期は巨大湖)の向こう、東辺の諸州を奪い取ることが必須だった。それゆえ、大王は、ペルセポリス到着早々、他者に首都を簒奪されないよう、同市を焼き払って皇帝ダリウスの追撃を始める。

ところが、追撃を知ると、ペルシア軍は、「カスピ門」で皇帝ダリウスを自分たちで殺し、中央アジアへ逃げてしまった。アレキサンダー大王は、ヘカトンポリス市を中心にカヴィール湖(現在は砂漠)の周辺を探索したらしいが、亜鉛や銅しか無い。(金鉱は、じつはエクバタナ市北の西北部アゼルバイジャン地方にあった。)それで、バクトリア総督ベッソスが皇帝を僭称したことを理由に、ここからほんとうの東征を始める。

にもかかわらず、遠征軍は、バクトリアには向かわず、アフガニスタン山麓を大きく南に迂回してしまう。待ち伏せを避けるため、というより、金鉱を探して、だろう。実際、アフガニスタン最大の金鉱ザラフシャンのすぐ近くに、探索基地アラコシア=アレキサンドリア市を設置している。同様に、カブール市の北にも、コーカサス=アレキサンドリアを。ここも川で砂金が採れることが知られていた。このように、エジプトをはじめとして各地に設置されたアレキサンドリア市は、たんなる植民都市ではなく、金鉱探索の前線基地としての意味を持っていた。

329年春、バクトリアに入るが、この後、一行は、ソグディアナの中心、サマルカンド市ではなく、それを通り過ぎて、その東北のキュロポリス市へ向かっている。ここもすぐ近くにボジムチャック金鉱があり、同市を滅ぼした後、王帝はエスカテ(さいはて)アレキサンドリア市を建てている。この後、西へ取って返し、遊牧民スキタイ人のザラフシャンへ。「金を撒いた」という名のとおり、ここは砂金が採れる。こうしてようやくサマルカンド市へ。しかし、僚友クレイトスと揉めて殺し、前329年の冬は、テュルクメナバート市まで下がり、翌前328年も、ザラフシャン周辺へ侵攻。しかし、スキタイ人征服は失敗だったのだろう。もはやサマルカンド市へも戻らず、前327年春は、現タジキスタン首都のデュシャンベ市東のコリエノス岩砦へ。じつは、この岩そのものが巨大な金山だった。

だが、以前からアゼルバイジャン金鉱を見落としていること、そして、今般、スキタイ人征服に失敗し、現カザフスタン北部金鉱を奪取できなかったことから、ソグディアナ周辺で少々のゴールドの収税を確保した程度では、大帝国ペルシアを支えきれない。それゆえ、王帝一行は、同年夏、一転、インドへ。というのも、インドはゴールドの一大産地としてよく知られており、実際、ここから市場に大量のゴールドがあふれ出ていた。その南下途中も、一行はジャララバード市から東の山中に分け入って、砂金産地を探索していっている。


とはいえ、上インダス地方は、せいぜい砂金程度しか採れない。本格的な金鉱は、インド半島の中心、デカン高原の東側。そこに到達するには、インダス河流域パンジャブ地方を越え、さらに内陸のジャングルへ分け入っていかなければならない。だが、兵員は、王帝の財政破綻など知らず、なんのためのインド侵略なのか、理解できない。かくして、パンジャブ王国の首都ラフォール市を越え、四本目の川を渡る手前、現ビースジャンクション駅北の高台で、遠征軍は瓦解。前326年夏、王帝も遠征の中止を決断した。それでも、本隊が現カラチ港から船で外洋を戻るのに、王帝一行のみはわざわざ陸路を取っている。この内陸部にも金鉱があるという話を聞いていたからだろう。しかし、その発見には至らず、むしろ命さえ危ない目に遭って、前325年冬、ようやくペルセポリスに帰還。

ゴールドはふしぎな金属だ。やたら重いのは、大量の中性子を含んでいるから。こんなものは地球上では自然にできず、もちろん人工でも作れず、地球に中性子星のかけらかなにかが衝突してできたのではないか、とも言われている。それが造山活動とともに地表に上がってくる。だから、山脈や造山帯に金鉱床ができ、そこから砂金が川に流れ出す。そして、その有限性と不変性が通貨として経済を潤す。

しかし、マケドニアカッサンドラ金鉱を見つけたときから、フィリッポス・アレキサンダー親子、そして、これに付き従ったギリシア人たちは、破滅の運命へ転がり落ちていった。ペルシアには勝利したものの、その大国の重みを支えるだけの財力を持たず、結局、その最期まで、急場しのぎの資金調達の略奪戦争を自転車操業で続け、その終わりとともに、王帝は死に、帝国は解体してしまった。

現代でも、我々は、急成長する国家や企業に目を奪われる。しかし、その内情は、たいてい火の車だ。波に潰されるのは迷惑だが、波に乗ったつもりの連中も考えもの。大きな地図を上から俯瞰していると、それがよくわかる。

​なぜアレキサンダー大王は東征したのか:黄金の呪い