1940年代、日本は第二次世界大戦へと突入しました。敗戦までに、日本の国民生活はどのように変化していったのでしょうか。『大人の教養 面白いほどわかる日本史』(KADOKAWA)著者で有名予備校講師の山中裕典氏が、1930年から1940年代にかけての社会情勢について解説します。

日中戦争中、国境をめぐってソ連と軍事衝突

日中戦争が続くなか、日本は満州国と隣り合うソ連の動きを警戒し、国境をめぐってソ連と軍事衝突しました。

満州国とソ連との国境付近で起きた張鼓峰事件に続き、司法官僚の〔平沼騏一郎内閣〕のとき、満州国モンゴル社会主義の親ソ国)との国境付近でノモンハン事件が起きました(1939)。

しかし、のち日本はソ連・モンゴルに惨敗して北進策は挫折し、北守南進策(北方の防衛と南方への進出)へ転換しました

日中戦争が進行するなかの日米関係の変化

第2次近衛声明「東亜新秩序建設」をワシントン体制への挑戦と受け止めたアメリカは、日米通商航海条約の廃棄を通告しました(1939)。自由貿易の解消で、アメリカ政府による貿易への介入が可能となり、アメリカは対日経済封鎖を強めました。

ノモンハン事件の最中、独ソ不可侵条約(1939)が結ばれました。防共協定と矛盾する条約の締結という事態を前に、〔平沼内閣〕は「欧州の情勢は複雑怪奇」と表明して総辞職しました。

第二次世界大戦の開始に対しての日本の対応

陸軍の〔阿部信行内閣〕の成立後、ドイツポーランドへ侵攻し、イギリスフランスドイツ宣戦布告して第二次世界大戦が勃発しました(1939)。

内閣はヨーロッパの世界大戦には介入せず日中戦争に専念する方針でした。海軍の〔米内光政内閣〕も大戦不介入を継続しましたが、ドイツの連戦連勝を見た陸軍は、ドイツと軍事同盟を結んで南方へ進出する南進論を主張しました。

そして、近衛文麿が進めていた新体制運動(独・伊をまねた、強力な政治組織での一国一党体制をめざす)を支持し、内閣を総辞職に追い込みました。

ちなみに〔米内内閣〕では立憲民政党斎藤隆が議会で反軍演説を行い(汪兆銘政権利用の和平工作を批判)、軍部の圧力で議員を除名されました。

アメリカに対抗するためとられた措置

〔第2次近衛内閣〕(外相松岡洋右)は大戦不介入の方針を変更し、独・伊・ソと提携して南進策を実行しました

ドイツに降伏したフランスと交渉し、フランスインドシナ北部へ軍を進める北部仏印進駐(1940.9)で南進の拠点を確保し、援蔣ルートの遮断を図りました。

同時に、アメリカを仮想敵国とする日独伊三国同盟(1940.9)を結び、南進で想定されるアメリカの圧力を防ごうとしました。翌年に日ソ中立条約(1941.4)を結び、南進強化のため北方の安全を確保しました

しかし、アメリカの対日経済封鎖が始まっており、全面戦争を避けたい日本は、野の村吉三郎とハル国務長官との間で日米交渉を始めました(1941.4~)。

翼賛体制の成立と翼賛体制の構造について

新体制運動の結果、既存政党はすべて解散し大政翼賛会(1940)が結成されました。ところが、当初めざした政党組織にはならず、官製の上意下達機関に変質しました

下部組織として都市に町内会、農村に部落会が置かれ、末端に隣組が組織されて、全国民を全体主義的に組織して戦争に協力させる体制が確立したのです。

さらに産業報国会の全国組織である大日本産業報国会(1940)が結成され、全ての労働組合は解散しました。

また、小学校を国民学校と改称し、軍国主義的な教育を推進しました。

太平洋戦争が始まったワケ

突如、ドイツ独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻し、独ソ戦が始まりました(1941.6)。

日本は南進策に加えて北進策も進めることを決定し独ソ戦争がドイツ優位の場合のソ連侵攻(日ソ中立条約破棄)を想定し、満州国とソ連の国境付近に大軍を集結させ、関東軍特種演習(関特演)を実施しました(1941.7)。

しかし、ソ連へは侵攻せず、演習は途中で中止されました。

アメリカとの対立を決定的にした原因

対米強硬論の松岡洋右外相を外して〔第3次近衛内閣〕が成立したものの、南進策を維持して南部仏印進駐(1941.7)を実行すると、直後にアメリカは日本の在米資産を凍結し、石油の対日輸出を禁止しました。

日中戦争の継続は困難となり(こうした対日経済封鎖を軍部は「ABCD包囲陣」[米・英・中・蘭]と呼んで国民にその脅威を訴えた)、9月の御前会議(天皇・政府・軍部)では「帝国国策遂行要領」を決定し、10月を期限として日米交渉を継続しつつ対米戦争準備を行うことにしましたが、結局交渉は不調のままでした。

太平洋戦争の始まり

陸相の東条英機が首相となって〔東条英機内閣〕が成立しました(陸相・内相も兼任)。

しかし、日米交渉のなかで11月末にアメリカが提示したハル=ノートは、「中国・仏印からの全面撤退、三国同盟の破棄、満州国汪兆銘政権の否認」といった、満州事変以前の状態に戻すことを要求する、日本にとって厳しい内容でした

御前会議で開戦が決定され、陸軍のイギリスマレー半島上陸と海軍のハワイ真珠湾攻撃によって(1941.12)、太平洋戦争(1941~45)が始まりました。

日本は「欧米の植民地支配からアジアを解放し、大東亜共栄圏を建設する」ことを掲げてアジア・太平洋各地を占領しましたが、現地で資源や物資を収奪し(石油・金属・米など)、軍政を行ってアジア諸民族を抑圧するのが、占領政策の実態でした。

太平洋戦争の戦局の変化

ミッドウェー海戦(1942)の敗北から、アメリカ軍の反転攻勢が始まり、ガダルカナル島から撤退すると、日本は太平洋地域から後退していきました。

日本は、汪兆銘政権満州国、さらに占領地の代表者を東京に集めて大東亜会議1943)を開き、「大東亜共栄圏」の結束を誇示しました。

しかし、アメリカ軍サイパン島占領(1944)を機に、〔東条内閣〕は総辞職しました。サイパン島には米軍基地が作られ、爆撃機による本土空襲が激化しました

戦時下の国民生活

開戦直後、〔東条内閣〕は翼賛選挙(1942)を実施しました。政府が援助した推薦候補が8割以上の議席を占め、非推薦候補は僅かでした。議員の多くが翼賛政治会に参加し、議会は政府の決定を承認するだけの機関になりました。

国民生活について

生活は苦しく、配給もコメ以外の小麦粉やイモなどの代用品になったり、配給では足りずに高価な闇取引に頼ったりしました。戦場への召集や工場への動員が強化されたことで、農村の労働力が不足し、食糧不足が生じたのです。

こうしたなか、政府は食糧管理法(1942)を定めて、生産・流通・配給を統制しました。

また、兵力・労働力の不足を補うため、中学以上の学生・生徒や女子挺身隊に組織された未婚女性を軍需工場に動員し(勤労動員)、徴兵の年齢に達した文科系学生(大学・高等学校など)を在学中に召集して戦場に送りました(学徒出陣)。

本土空襲が激しくなると、国民学校の児童が地方へ集団で疎開する学童疎開が実施され、工場は都市から地方へ移転していきました。

すでに、植民地の朝鮮・台湾では皇民化政策によって、日本語教育の徹底や神社参拝の強制が進められ、朝鮮では日本風の姓名を名乗る創氏改名も強制されました。

太平洋戦争の開始後、朝鮮や台湾では徴兵制が施行され、朝鮮人や占領地域の中国人を日本本土の鉱山や港湾などで働かせました(強制連行)。

アメリカ軍が本土に上陸…激化した沖縄戦

陸軍の〔小磯国昭内閣〕のときの東京大空襲(1945.3)では、焼夷弾による東京下町への無差別攻撃で、死者が約10万人に上りました。

アメリカ軍沖縄本島へ上陸すると(1945.4)、総辞職しました。海軍の〔鈴木貫太郎内閣〕のとき(鈴木は侍従長の経歴があり、昭和天皇に終戦工作を期待された)、沖縄戦(1945.4~45.6)が展開しました。

男子学徒は鉄血勤皇隊として戦闘に参加し、女子学徒はひめゆり隊などとして看護に従事するなど、地上戦で県民が直接戦闘に巻き込まれ、「集団自決」に追い込まれた人びとも含めて多くの犠牲が出ました

死者は軍人約9万人・民間人約9万人、うち沖縄県出身者は合計12万人以上にのぼりました。ドイツ降伏(1945.5)の後、連合国と戦っているのは日本だけとなりました。

連合国の戦後処理に関しての方針

日本やドイツイタリアと戦っていた連合国は、アメリカ・イギリスを中心に、第二次世界大戦の戦後処理を協議しました。すでに、エジプトカイロでアメリカ・イギリス・中国による会談が開かれ、カイロ宣言が出されていました(1943.11)。

戦後日本の領土について、満州台湾澎湖諸島の中国への返還、旧ドイツ南洋諸島委任統治領の剥奪、朝鮮の独立が定められました。そして、ソ連のヤルタでアメリカ・イギリス・ソ連による会談が開かれ、ヤルタ協定が出されました(1945.2)。

秘密協定で、ソ連の対日参戦や、その見返りとして南樺太千島列島のソ連領有が約束されました。さらに、ドイツのポツダムでアメリカ・イギリス・ソ連による会談が開かれました。その際、アメリカは日本に関するポツダム宣言を提案してイギリスと合意し、日本と戦っているアメリカ・イギリス・中国の名で発表しました(1945.7)。

日本の無条件降伏の勧告とともに、戦後日本の占領方針として軍国主義の排除民主化が示され、これはGHQによる占領政策に継承されました。

日本が迎えた敗戦の形

8月6日、アメリカは開発したばかりの原子爆弾原爆)を広島に投下し、死者は14万人以上となりました。

8月8日、ヤルタ協定に従いソ連が対日宣戦布告し、満州・朝鮮などに侵入しました。これにより、戦後に満蒙開拓移民の中から中国残留孤児が生じ、ソ連の捕虜となった兵士のシベリア抑留も起きたのです。

8月9日、アメリカは長崎原子爆弾を投下し、死者は7万人以上となりました(広島・長崎の死者数は1945年末の時点での推計)。

そして、8月14日の御前会議でポツダム宣言の受諾が決定され、連合国に通告されました。こうして、日本は無条件降伏したのです。

8月15日昭和天皇のラジオ放送が全国に流れ、〔鈴木貫太郎内閣〕は総辞職しました。

山中 裕典

河合塾東進ハイスクール東進衛星予備校

講師

(※写真はイメージです/PIXTA)